このキーワード
友達に教える
URLをコピー

雲鷹_(空母)とは?

【基本情報】

【建造所】
三菱重工業長崎造船所(客船建造)
呉海軍工廠(空母改造)
【運用者】
大日本帝国海軍
【艦種】
(貨客船 →)特設航空母艦 → 航空母艦
【級名】
大鷹型
【母港】

【艦歴】

【起工】
1938年12月14日
【進水】
1939年10月31日
【竣工】
1940年7月31日「八幡丸」として竣工
1942年5月31日空母に改装完了
【最期】
1944年9月17日戦没
【除籍】
1944年11月10日
【改名】
八幡丸 → 雲鷹
【要目(航空母艦時)】

基準排水量
17,830英トン
公試排水量
20,000トン
満載排水量
21,262.80トン
全長
180.24m
【水線長】
約173.70m
【垂線間長】
168.00m
【最大幅】
23.70m
【水線幅】
22.50m
【深さ】
23.50m(飛行甲板まで)
【飛行甲板】
長さ:162.0m x 幅:23.5m
1944年長さ172.0mに延長
エレベーター(13x12m)2基
吃水
公試平均 8.00m
満載平均 8.26m
ボイラー
三菱式水管缶4基
補助缶2基
【主機】
三菱ツェリー式(高低圧)タービン2基
【推進】
2軸 x 140rpm、直径5.000m
【出力】
25,200hp
【速力】
計画 21.0ノット
1944年5月調査 21.48ノット
燃料
計画 2,250トン
1944年5月調査 2,360トン
【航続距離】
8,500カイリ / 18ノット
【乗員】
計画乗員 747名
【搭載能力】
九一式魚雷 36本
爆弾 800kg72個、250kg72個、60kg240個、30kg演習用90個
飛行機用軽質油 190トン
【兵装】
改造完成時(八幡丸)
12cm単装高角砲4基
25mm連装機銃4基
最終時
12cm単装高角砲6基
25mm3連装機銃8基
25mm連装機銃2基
25mm単装機銃36挺
13mm単装機銃10挺
爆雷投下台または爆雷投射機
爆雷10個
搭載艇
計画 12m内火艇1隻、12m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、13m特型運貨船1隻
最終時 内火艇1隻、ランチ1隻、大発2隻
搭載機
計画(常用+補用)
零式艦上戦闘機 9+2機
九七式艦上攻撃機 14+2機
合計23+4機
レーダー
最終時
21号電探1基
22号電探(推定1基)
13号電探2基
逆探
ソナー
最終時:零式水中聴音機1基
特記の無い場合は計画要目
客船時の要目は新田丸級貨客船を参照

雲鷹(うんよう)は、日本海軍航空母艦

概要

軍艦雲鷹(うんよう)は日本海軍の航空母艦(空母)。1940年(昭和15年)7月末に竣工した日本郵船所有の新田丸級貨客船2番船八幡丸(やはたまる/やわたまる)を、太平洋戦争直前に日本海軍が徴用および買収、空母に改造した艦艇である。大鷹型航空母艦としても2番艦である。八幡丸の建造費用は政府の優秀船舶建造助成施設の適用を受けており、有事には徴用・改装されることがあらかじめ決められていた。なお大鷹型航空母艦は小型で速力も20-22ノット程しか発揮できず、機動部隊としての運用は不可能だったため、太平洋戦争中盤までは航空機輸送任務に従事した。

八幡丸は1940年(昭和15年)7月31日に貨客船として竣工後、約一年間、商船として運用された。1941年(昭和16年)11月25日附で特設航空母艦に類別。呉海軍工廠で空母改造に着手し、1942年(昭和17年)5月末に竣工。八幡丸の最初の任務は、第二航空隊零式艦上戦闘機九九式艦上爆撃機ラバウル輸送であった。

八幡丸は8月31日附で軍艦籍に編入され、特設空母八幡丸から軍艦(航空母艦)雲鷹となった。大鷹型空母は航空機輸送艦として奔走、雲鷹はトラック島に17回、ラバウル方面2回、東南アジア方面2回の輸送を実施した。

1943年(昭和18年)11月15日に海上護衛総司令部が設立されると、本艦以下大鷹型空母は同部隊に編入される。1944年(昭和19年)1月19日、雲鷹はアメリカ海軍潜水艦ハダックの魚雷攻撃を受けて大破。辛うじて横須賀へ帰投後、8月まで修理を実施した。同年8月24日のヒ73船団護衛が、護衛空母としての初任務になった。日本からシンガポールへの往路は無事だったが、折り返して日本へ向かうヒ74船団を護衛中の9月17日、南シナ海でアメリカの潜水艦バーブの雷撃で沈没した。

歴史

建造前

雲鷹の前身である八幡丸(やはたまる)は、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で、またドイツの新型貨客船3隻(シャルンホルストグナイゼナウポツダム)に対抗しつつ1940年(昭和15年)開催予定の東京オリンピックを見込んで、日本郵船が建造した豪華客船新田丸級三姉妹船の第3船であった。新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり、日本郵船株式会社のイニシャル“NYK”に因んでそれぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた。また3隻とも三菱長崎造船所で建造され、新田丸、八幡丸、春日丸の順番で建造された。新田丸と八幡丸は短期間ながら客船として活動した。春日丸は客船として就役することなく最初から空母として竣工したため、本型は最初に完成した春日丸をネームシップとして春日丸級特設航空母艦と呼称されている。

詳細は「新田丸級貨客船」を参照

第二船の八幡丸は、三菱長崎造船所で1938年(昭和13年)12月14日に起工。1939年(昭和14年)10月31日、進水。1940年(昭和15年)7月31日、竣工。シアトル航路で一航海ののち、サンフランシスコ航路に就航した。予想される日米の艦隊決戦に際して、大鷹型航空母艦(春日丸級航空母艦)は艦隊用補助空母としての役割を期待されていた。しかし本型は小型で速度も遅く、さらに日本海軍が終戦まで空母用カタパルトを実用化できなかった事は、運用に大きな制約をあたえた。空母用カタパルトを装備した連合国軍の軽空母護衛空母と比較して、本型の航空機運用能力は非常に見劣りするものとなり、本格的な海戦に投入される事は一度もなかった。

1941年(昭和16年)11月22日、海軍は八幡丸を徴用。11月25日、特設航空母艦として呉鎮守府所管となった。 同日附で、駒澤克己大佐(当時、水上機母艦〈甲標的母艦〉日進艤装員長)は、日進艤装員長と八幡丸艤装員長の兼務を命じられた。12月10日、駒澤大佐(日進艤装員長、八幡丸艤装員長)は兼務を解かれる(日進艤装員長のみ)。八幡丸艤装員長は湊慶譲大佐となった。空母改造着手の時期について、1941年(昭和16年)11月下旬とする資料、1942年(昭和17年)1月とする資料がある。

1942年

1942年(昭和17年)5月10日、井上良雄中佐(5月5日まで駆逐艦萩風艦長)は、八幡丸副長に任命される。5月31日、改造完成。連合艦隊附属となる。

空母に改造され春日丸級特設航空母艦となった八幡丸の最初の任務は、1942年(昭和17年)7月末~8月上旬のラバウル向け第二航空隊の航空機輸送任務だった。7月下旬、八幡丸と駆逐艦峯雲(第9駆逐隊)は内海西部から横須賀へ移動する。7月29日、八幡丸は零式艦上戦闘機 16機と九九式艦上爆撃機 16機を搭載、第7駆逐隊()に護衛されて横須賀を出発する。8月6日ニューブリテン島ラバウル近海で、八幡丸は敵双発爆撃機(機種不明)から攻撃される。同日、二空の零戦15(二号零戦)と艦爆16機はラバウル進出を完了した。ラバウルから来た駆逐艦秋風(第34駆逐隊)は、二空の整備員を収容した。翌7日、連合軍はフロリダ諸島ガダルカナル島に来襲し、ガダルカナル島の戦いが始まった。八幡丸が輸送した零戦と艦爆は、第五空襲部隊指揮官(第二十五航空戦隊司令官山田定義少将)の下令により、ただちにガ島戦に投入された。ラバウルへの航空機輸送任務を終えた八幡丸は、8月9日ウルシー環礁へ到着、8月13日-14日、呉へ戻った。水雷艇の協力を得て、8月末まで九州佐伯沖合で八幡丸は着艦訓練をおこなう。

8月31日、特設航空母艦八幡丸と春日丸は、それぞれ軍艦雲鷹(ウンヨウ)および大鷹(タイヨウ)と改名される。2隻は同日附で正規の航空母艦となった。雲鷹は呉鎮守府籍となる。湊大佐の役職も、八幡丸艦長から雲鷹艦長になった。ひきつづき連合艦隊附属。艦容に変化はなく、内地と前線を往復して航空機輸送任務に従事した。

9月初旬、雲鷹と駆逐艦磯波(第19駆逐隊)は呉から横須賀に移動する。9月4日、雲鷹は物資輸送を兼ねて横須賀を出港する。駆逐艦雪風(第16駆逐隊)に護衛され、トラック泊地へ向かった。トラック泊地で、搭載中の陸軍兵や弾薬を第7駆逐隊に移載する予定であった。9月9日朝、駆逐艦秋風(第34駆逐隊)はトラック泊地北方に潜望鏡を発見し対潜警戒警報を発令、連合艦隊は戦艦大和陸奥、巡洋艦香取(第六艦隊旗艦)以下トラック在泊艦艇に転錨を命じた。哨戒機と駆逐艦は爆雷を投下する。戦艦・機動部隊・重巡部隊の各隊各艦はただちに停泊地を変更し、宇垣纏連合艦隊参謀長が『最も難物』と心配していた工作艦明石も横抱きした損傷艦3隻を自力航行させたのち移動した。午後3時、トラック泊地に到着した雲鷹も警戒機を発進させたが敵潜を発見できず、結局秋風がトラック泊地へ接近中の雲鷹のマストを潜望鏡と誤認したものであったという。9月18日、雲鷹隊(雲鷹、)は呉に帰投した。

南東方面での戦闘が激しくなるにつれて航空機の消耗は甚大となり、大鷹型空母は航空機輸送任務に奔走する。だが、航空機輸送任務中の航空母艦は、暗号解読により待ち伏せている米潜水艦に幾度も襲撃された。11月10日、ラバウルに派遣予定の一式戦闘機輸送任務に従事していた雲鷹は、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦シーウルフ(USS Seawolf, SS-197)に狙われた。雲鷹を翔鶴型航空母艦と誤認したシーウルフは追跡をおこなうが、同艦は12日に機関故障をおこして襲撃を断念、各方面に情報を発信して真珠湾へ帰投した。同海域にはシーウルフの他に潜水艦シール (USS Seal, SS-183)も行動していたが、雲鷹を襲うことはなかった。

1943年

1943年(昭和18年)1月28日、雲鷹艦長は湊大佐から相徳一郎大佐に交代。4月14日、相徳大佐は重巡洋艦最上艦長へ転任、後任の雲鷹艦長は関郁乎大佐となる。

5月8日、大和型戦艦大和、第五戦隊(妙高羽黒)、空母2隻(雲鷹、冲鷹)、駆逐艦複数隻はトラックを出発する。5月13日、横須賀着(大和は呉)。5月下旬、大鷹型空母2隻(雲鷹、冲鷹)は横須賀~トラック間を往復する。

6月10日、横須賀を出港した空母飛鷹と駆逐艦2隻(有明夕暮)はアメリカ潜水艦トリガー (USS Trigger, SS-237) から襲撃され、被雷して航行不能となった飛鷹は軽巡五十鈴(第十四戦隊)に曳航されて横須賀へ帰投した。6月16日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下、戦艦2隻(金剛榛名)、第七戦隊(熊野鈴谷)、軽巡五十鈴(第十四戦隊)、空母3隻(龍鳳、雲鷹、冲鷹)、駆逐艦複数隻は横須賀を出発する。6月20日、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦スピアーフィッシュ (USS Spearfish, SS-190)が日本軍空母(個艦不明)に対し魚雷4本を発射するが、速力を見誤っていたので命中しなかった。6月21日、日本艦隊はトラックに到着した。空母2隻(雲鷹、冲鷹)等は、一旦横須賀に戻った。

7月上旬、雲鷹はマーシャル諸島への航空機輸送任務に従事する。第二〇一海軍航空隊の零式艦上戦闘機 45機と、第五五二海軍航空隊の九九式艦上爆撃機 27機、計82機を搭載する。7月6日、特設巡洋艦愛国丸と共に横須賀を出発した。7月10日、アメリカ潜水艦ハリバット(USS Halibut, SS-232)が愛国丸に魚雷6本を発射する。魚雷1本が命中し、愛国丸が小破した。翌日、雲鷹隊はトラック泊地に到着した。19日、雲鷹は龍鳳と共にトラック泊地を出発、24日横須賀に到着した。

7月31日、雲鷹は第二水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦長良)の指揮下に入り、3隻(長良、雲鷹、)で横須賀を出発する。8月1日、呉からトラックへむかう大和型戦艦武蔵(連合艦隊司令長官古賀峯一司令長官座乗)と護衛部隊に合流する。8月4日、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280)に発見された。翌日未明、スティールヘッドが雲鷹に対し魚雷6本、戦艦に対し魚雷4本を発射したものの早爆に終わった。トラック泊地の九七式艦上攻撃機(対潜哨戒機、レーダー未搭載)は夜間のため基地で休息しており、敵潜の雷撃を防ぐことができなかった。8月5日、艦隊はトラックに到着した。雲鷹と曙は連合艦隊附属となる。雲鷹は重巡鳥海および野分と白露と行動を共にし、一旦内地へ戻った。8月18日附で井上良雄大佐(雲鷹副長)は第9駆逐隊司令へ転任する。後任の雲鷹副長は志柿謙吉中佐。引き続き航空機輸送任務に従事する。

10月上旬、マーシャル諸島ギルバート諸島へ配備される日本陸軍の輸送作戦が実施されることになり、雲鷹は輸送部隊指揮官木村進第十一水雷戦隊司令官の指揮下に入った。同月13-14日、空母2隻(隼鷹、雲鷹)と駆逐艦2隻(玉波)は内海西部を出発する。19日、隼鷹隊はトラック泊地に到着した。雲鷹は帰路も第十一水雷戦隊に同行することになった。10月21日、志柿謙吉中佐(雲鷹副長)は、空母飛鷹副長を命じられる。

10月31日、第十一水雷戦隊司令官指揮下、戦艦山城、航空戦艦伊勢、空母2隻(隼鷹、雲鷹)、重巡洋艦利根、軽巡洋艦龍田、駆逐艦4隻(第24駆逐隊〈海風涼風〉、第17駆逐隊〈谷風〉、第7駆逐隊〈〉)はトラック泊地を出発した。11月5日午前5時、暗号解読により豊後水道近海で待ち伏せていたアメリカ潜水艦ハリバットは、日本輸送艦隊を襲撃した。午前5時35分、ハリバットが発射した魚雷1本が隼鷹の艦尾に命中する。隼鷹は利根に曳航されて日本本土に向かった。

1943年(昭和18年)11月上旬のろ号作戦(ブーゲンビル島沖航空戦)で、第一航空戦隊の母艦航空隊は大幅に消耗した。航空機補充のため、瑞鳳がトラック泊地より横須賀に帰投した。11月16日、空母3隻(瑞鳳、冲鷹、雲鷹)は駆逐艦(秋雲、曙、潮、漣)に護衛されて横須賀を出発、21日にトラック泊地に到着した。11月30日、瑞鳳艦長が指揮する内地回航部隊 空母3隻(瑞鳳、雲鷹、冲鷹)、重巡洋艦摩耶、第7駆逐隊、浦風(第17駆逐隊)はトラック泊地を出発した。暗号を解読したアメリカ軍は、複数の潜水艦(スケートガンネル、セイルフィッシュ)に輸送船団の襲撃を命じた。12月4日、冲鷹がアメリカ潜水艦セイルフィッシュ(USS Sailfish, SS-192)の雷撃で沈没した。等に護衛された空母2隻(瑞鳳、雲鷹)は、横須賀に帰投した。

12月15日海上護衛総司令部麾下に第九〇一海軍航空隊が編制された。同日附で空母3隻(雲鷹、海鷹、大鷹)は海上護衛総司令部部隊に編入、12月20日には空母神鷹(ドイツ客船シャルンホルスト改造空母)も編入された。だが雲鷹は連合艦隊の麾下にあって輸送任務に従事しており、この時点で海上護衛部隊として行動する機会はなかった。

1944年

航空機輸送

1944年(昭和19年)1月4日、瑞鳳と雲鷹は第6駆逐隊()に護衛されて横須賀を出発、9日トラック泊地に到着した。空母2隻は零式水上偵察機4機、零式観測機8機、二式水上戦闘機6機、天山艦上攻撃機7機、合計25機を輸送した。この後、雲鷹は第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将の指揮下に入る。軽巡洋艦(二水戦旗艦)能代、空母2隻(瑞鳳、雲鷹)、駆逐艦3隻(早波若葉初霜)という編成で1月18日にトラック泊地を出発、先行隊(五十鈴、初春)を追って横須賀へ向かう。日本空母出撃の情報を得たアメリカ海軍は、サイパン島東方で行動中の潜水艦3隻(ハリバット、タリビー、ハダック)に迎撃を命じた。1月19日10時37分、雲鷹は米潜ハダック(USS Haddock, SS-231)の魚雷攻撃を受けた。魚雷6本を発射し、ハダックの艦長は翔鶴型航空母艦を撃破したと報告した。被雷位置北緯12度52分 東経146度26分 / 北緯12.867度 東経146.433度 / 12.867; 146.433。雲鷹には魚雷3本が命中、特に艦首・艦前部の損傷により速力は4ノットに低下(機関部には異常なし)、瑞鳳隊(瑞鳳、若葉)は先行して横須賀へ帰投する。本艦は3隻(能代、早波、初霜)に護衛されてサイパンへ避退する(1月20日到着)。同地で、雲鷹は能代に繋留された。同日、工作艦明石の工員と排水ポンプを乗せた駆逐艦海風(第24駆逐隊)がサイパンに到着する。また損傷状況調査のため連合艦隊司令部附の塩山策一技術大佐もサイパンへ派遣され、対応を協議している。1月21日、二水戦(能代、早波)は海風と哨戒護衛任務を交代し、横須賀へ向かった。22日朝、駆逐艦皐月(第22駆逐隊)がサイパンに到着した。

1月24日、連合艦隊は、駆逐艦海風、皐月を雲鷹の警戒に任じ、駆逐艦初霜のトラック帰投を発令する。だが24駆司令の要請により海風と初霜を入れ替えることになった。25日、潜水艦ハリバットが泊地に侵入して雲鷹を雷撃しようとしたが、警戒が厳しく皐月にも攻撃されたため諦めて去った。26日、第7駆逐隊(潮、曙)がサイパンに到着、雲鷹に合同した。27日、雲鷹隊はサイパンを出発した。

一方、瑞鳳隊は横須賀へ帰投したのち、空母2隻(瑞鳳千代田)、重巡洋艦高雄、駆逐艦3隻(初春若葉玉波)という戦力で、1月29日に横須賀を出港した。すると連合艦隊より重巡高雄に対し雲鷹救援命令が発せられ、高雄と玉波は瑞鳳隊から分離する。2月1日午前11時、高雄と玉波は、サイパンより内地へむかう雲鷹隊(雲鷹、潮、曙、初霜、皐月)と合同した。玉波は瑞鳳隊の護衛に戻った。雲鷹隊はアメリカの潜水艦2隻(ガジョンソーリー)に狙われて幾度も雷撃された。2月2日、初霜は雲鷹の警戒中、潜水艦と会敵し、爆雷攻撃を実施する。これに悪天候も加わって、高雄による雲鷹曳航の試みは全て失敗した。幾度も襲撃を行うアメリカ潜水艦に対し、高雄は戦闘詳報の中で「敵潜ハ盲目蛇ニ怖ジザル呆氣者カ或ハ人ヲ舐メテ懸ッタ勇敢ナル者カ」と前置きし、「おそらく後者であろう」と推測している。雲鷹は前進することさえできず、ほとんど漂流状態であった。このような状況下、敷設艇猿島や駆逐艦白雲等の支援艦艇が漸次雲鷹隊に合流するが、当初の護衛部隊は燃料不足に陥り、また爆雷や食料品・燃料補給のため、次々に横須賀へ回航される。5日、白雲は北方部隊(第五艦隊)の命令により大湊へ回航された。6日、高雄も燃料不足になり、先行していた初霜と合流して横須賀へ戻った。夕雲型駆逐艦沖波岸波が雲鷹護衛を引き継ぎ、横須賀からも第7駆逐隊(潮、曙)が再出撃する。横須賀で補給を終えた高雄と初霜は、横須賀工廠の救難部隊をのせて7日早朝に雲鷹隊と合同する。同日夜、雲鷹と高雄以下の護衛部隊は東京湾に到着した。高雄は雲鷹護衛時の経験から、大型囮艦(損傷艦に偽装)・精鋭護衛艦・利根型重巡洋艦の連繋により「潜水艦狩り」を行ってはどうかと提言している。

船団護衛

詳細は「ヒ船団」を参照

1944年(昭和19年)2月1日、日本海軍は護衛空母の飛行機隊の訓練・整備を担当する部隊として、第九三一海軍航空隊(司令大塚秀治中佐)を編成する。その後、雲鷹は横須賀で修理を受けるが、その際に新型機用に着艦装置が更新されている。3月1日、平塚四郎大佐は、雲鷹艦長に任命される。7月1日、大鷹艦長は平塚大佐から木村行蔵大佐に交代した。

8月中旬、雲鷹は横須賀を出港し、呉に移動することになった。横須賀方面海軍諸学校練習艦任務をとかれた扶桑型戦艦山城も雲鷹に同行し、第21駆逐隊(若葉初春)が護衛する。8月12日、篠田勝清山城艦長指揮下の4隻(山城、雲鷹、若葉、初春)は横須賀を出発、13日桂島泊地に到着した。14日、第21駆逐隊と第18駆逐隊は呉に移動した。

8月15日、雲鷹は第一海上護衛部隊に編入される。搭載機は第九三一海軍航空隊九七式艦上攻撃機10機を主力とする。ほかに九三式中間練習機(通称赤トンボ)6機を搭載。雲鷹搭載機のうち、一部は三式一号磁気探知機を装備していたとみられる。同時期の8月18日ヒ71船団護衛任務に従事していた姉妹艦大鷹が、アメリカ潜水艦の雷撃で撃沈された。

8月24日-25日、雲鷹は練習巡洋艦香椎(旗艦)、海防艦千振など護衛艦艇5隻、補給艦伊良湖以下加入船舶14隻のヒ73船団(指揮官吉富説三少将/第五護衛船団司令官)に同行し、船団護衛任務に従事する。ヒ73船団護衛が、雲鷹の護衛空母としての初任務となった。8月31日(もしくは9月1日)、雲鷹搭載機と海防艦がアメリカ潜水艦タニー(USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282)を攻撃して損害を与えた可能性がある。9月5日、ヒ73船団部隊はシンガポールに到着した。

9月11日、雲鷹はヒ74船団を護衛してシンガポールを出発し、台湾にむかった。ヒ74船団部隊は、第一護衛隊(巡洋艦香椎、海防艦〈13号、19号、21号、27号〉)、第二護衛隊(雲鷹、千振)、船団部隊(播磨丸、御室山丸、八紘丸、吾羽山丸、あづさ丸)という編成である。9月16日、ルソン島方面にはアメリカの潜水艦2隻(バーブクイーンフィッシュ)が行動しており、アメリカ軍機動部隊艦載機の不時着救助任務に従事していた。雲鷹側では台湾高雄市への入港を目前に控え、その準備に追われていたという。夜、旗艦香椎より敵潜発見の信号があり警戒するが、その時点での襲撃はなかった。ところが9月17日日付変更直後、ヒ74船団部隊をアメリカ潜水艦バーブ(USS Barb, SS-220)が襲撃した。まず雲鷹の右舷やや後方を航行していた あづさ丸が被雷して炎上し沈没した。雲鷹は あづさ丸の炎上を確認して取り舵をとった。そこへバーブが艦尾発射管より発射した魚雷が右舷後方からせまり、魚雷2本(艦中央部、艦後部)が雲鷹に命中した。機関科当直員の大部分は戦死、電源も断たれたが火災は起きなかった。艦橋傍の作戦室にガソリン式発電機をもちこんで通信機能は一部回復したが、艦橋要員達は発電機の悪臭に苦労したという。4時30分には防水作業が一段落し、艦長は警戒員を残し作業を中止させた。だが被雷した艦後部や格納庫に打ち付ける波により浸水が増加、艦尾の沈下が止まらなくなる。7時30分に沈没は確定的となり、7時45分御真影カッターボートへ移動し、7時52分軍艦旗降下。3分後の7時55分、雲鷹は沈没した。生存者は千振か、第27号海防艦に救助された。記録では、生存者約760名。雲鷹の乗組員約750名、便乗者約1000名のうち、推定合計約900名が戦死した。雲鷹艦長や副長は沈没時に脱出したが、雲鷹艦長は行方不明となった。雲鷹戦闘詳報による沈没位置北緯19度8分 東経116度33分 / 北緯19.133度 東経116.550度 / 19.133; 116.550。海上護衛隊による沈没地点記録北緯19度04分 東経116度36分 / 北緯19.067度 東経116.600度 / 19.067; 116.600もしくは北緯19度15分 東経116度33分 / 北緯19.250度 東経116.550度 / 19.250; 116.550。アメリカ軍記録北緯19度18分 東経116度26分 / 北緯19.300度 東経116.433度 / 19.300; 116.433

戦闘詳報では、「海防艦を増備し敵潜水艦を制圧する『掃蕩隊』の新設」「航空機による前路哨戒は是非とも必要であるため、各航路の航空基地を増備強化して勢力の増大を計り、護衛空母は廃止するを認む」「護衛艦の増加が無理だとしても、空母が船団と同速力にて運動するのは最も不可である」「高速力を持って船団の後方をバリカン運動を行いながら続航する必要がある」といった提言を残している。

11月10日、軍艦雲鷹は大鷹型航空母艦、帝国軍艦籍より除籍された。

年表

2010Happy Mail