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高木守道とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
岐阜県岐阜市
【生年月日】
(1941-07-17) 1941年7月17日
【没年月日】
(2020-01-17) 2020年1月17日(78歳没)
【身長
体重】
174 cm
72 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
二塁手
【プロ入り】
1960年
【初出場】
1960年5月7日
【最終出場】
1980年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴

  • 中日ドラゴンズ (1978 - 1986, 1992 - 1995, 2012 - 2013)

野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
2006年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


高木 守道(たかぎ もりみち、1941年7月17日 - 2020年1月17日)は、プロ野球選手(内野手)・監督野球解説者愛知県名古屋市生まれ・岐阜県稲葉郡鏡島村(現:岐阜市)育ち。

現役時代は中日ドラゴンズで活躍し、「プロ野球史上最高の二塁手」と称されることも多い。引退後はコーチ・監督を歴任した。初代・西沢道夫や3代目・立浪和義とともに2代目「ミスタードラゴンズ」と呼ばれる。2007年1月 - 2012年11月25日まで中日ドラゴンズOB会会長。

経歴

プロ入りまで

岐阜市立鏡島小学校岐阜市立精華中学校出身。1951年8月19日、当時10歳だった高木は後に自身が選手としてプレーした中日スタジアム(1976年シーズンより「ナゴヤ球場」に名称変更)の1塁側スタンドで兄とともに読売ジャイアンツ(巨人)戦を観戦していたが、その試合の3回裏に球場ネット裏上段から出火した。この火災は内野席・球場施設がほぼ全焼し死者3人・重軽傷者318人を出す大惨事(中日スタジアム火災)となったが、高木は危うく事無きを得た。

中学で野球部に入部し、1957年には岐阜県内の名門として知られる県立岐阜商業高校に進学した。当初は遊撃手だったが、肩を痛めて二塁手に転向。高木の入学直後、野球部は打力向上のため東京六大学野球で活躍していた長嶋茂雄(当時立教大学4年生)を特別コーチとして招聘したが、高木は長嶋から二塁手として高い評価を受け、自身も長嶋を目標に野球人生を歩むこととなった。1年夏で早くもレギュラーになり、2年上のエース清沢忠彦を擁した1957年夏の甲子園に出場。準々決勝で大宮高に敗退。3年生になった1959年には春の選抜に出場して決勝まで進んだが、中京商業の平沼一夫(中京大-西濃運輸-東京オリオンズ)に抑えられ2-3で惜敗、準優勝に終わる。同年夏は県予選決勝で、後にプロで同僚となる高木一巳のいた大垣商に完封負け。

現役時代

1960年に地元・東海地方に本拠地を置く中日ドラゴンズに入団。高校卒業後は早稲田大学へ進学することが決まっていたが、中日は球団と県岐阜商高のOBである国枝利通を通じて高木を翻意させ、入団を実現させた。春季キャンプでは当時の監督杉下茂から「守備はすでに完成されている。打撃も勝負強い」と、ヘッドコーチ天知俊一からも「高校生離れしたプレー。プロ顔負け」とそれぞれ高い評価を受けた。

プロ入りから3年目(1962年)までの背番号は41で、同年5月7日の対大洋ホエールズ戦(中日球場)を前にレギュラー選手に故障者が出たことから内野手の控え選手として一軍初昇格を果たし、同試合の7回に代走で初出場すると二盗(初盗塁)に成功した。そのまま二塁手として守備に就き、8回には宮本和佳からプロ入り初打席初本塁打を打ったが、試合には敗れた。シーズン中盤からは内野のユーティリティプレイヤーとして20試合に先発出場。翌1961年は二塁手、三塁手として62試合に先発出場。1962年には南海ホークスから移籍入団した半田春夫から「メジャーリーグでは当たり前のプレー。セーフになるはずの走者をアウトにできれば試合の流れを変えられる」として「バックトス」を教わり、首脳陣から「基本を無視する無謀なプレー」と批判されても翻意することなく、数年間にわたり猛練習を積み重ねたことで自身の代名詞的プレーとして確立した。

半田が退団した1963年には、その後継として二塁手のレギュラーとなり、同年(プロ4年目)から背番号も1に変更した。規定打席(19位、打率.254)にも到達。同年には50盗塁を記録して最多盗塁のタイトルを獲得。中利夫と1・2番を組み、前年に放出された森徹に代わり、江藤慎一とともに中日の新たなスター選手となった。以後1965年1973年と3度の盗塁王に輝く俊足に加えて、打撃では1969年に24本塁打するなど通算236本塁打を記録しており、守備ではバックトスやグラブトスなどを度々披露した。

1965年には打率.302(4位)、1966年にも打率.306(6位)と二度の打率3割を記録。しかし1968年5月28日の巨人戦(後楽園球場)で堀内恒夫から顔面に死球を受け、一時は意識不明となる。その影響で首から左肩・背中にかけて痛みが残り、同年以降は長期にわたる打撃成績の低迷を余儀なくされた。さらに死球禍から3年後の1971年9月2日にも巨人戦(中日球場)で再び堀内から頭部に死球を受け、その際には激昂して堀内にヘルメットを投げつけた。しかし1972年に打撃コーチとして中日に加わった徳武定祐から「バットをミートポイントへ最短距離でぶつける」打撃フォームへの改造を提言され、二人三脚でそれまでのアッパースイングから一転してダウンスイングの練習に取り組んだところ、1973年にはそれまで5年連続で2割5分台止まりだった打率を.273まで回復させ、28盗塁も記録したことで3度目の盗塁王を獲得した。そしてプロ15年目の1974年には経験に裏打ちされたプレーでチームを牽引し、10月12日には巨人のセ・リーグ10連覇を阻止する形でチームのセ・リーグ優勝に貢献した。

初打席初本塁打を記録した選手で通算200本塁打、通算2000安打を記録した選手は高木が初めてであり、また通算で200本塁打・200犠打を併せて記録した選手も髙木が初めてである。

1974年、優勝決定翌日の10月13日に予定されていた後楽園球場の対読売ジャイアンツシーズン最終戦ダブルヘッダーは、長嶋茂雄の引退試合であったが、降雨で14日に順延してしまい、中日の優勝パレードと日程が重なった。そのため、大島康徳藤波行雄などの若手や、引退直前だった広野功を含む準レギュラー級選手のみを出場させ、中日のレギュラー選手は同日の名古屋での優勝セレモニーのために欠場するよう球団に言い渡された。この通達に高木は「偉大なる選手になんて失礼なことを」と大いに憤慨し、球団にその通達の撤回と「それが無理ならばせめて自分だけでも出場させてほしい」と抗議した。しかしその願いは聞き入れられず、高木は優勝セレモニーで終始むすっとした表情をしていた。高木はのちに長嶋へ電話し、謝罪したという。

ロッテオリオンズと対戦した同年の日本シリーズでは、第1戦(中日球場)の9回裏に村田兆治から逆転サヨナラ二塁打を打つなど大活躍する。2勝1敗で迎えた第4戦(後楽園球場)でも金田留広から初回先頭打者本塁打を放つが、その試合の3打席目(5回)で自打球を左足首に当て負傷(全治3週間の骨折してしまう。高木は第6戦で復帰し、シリーズ通算22打数8安打1本塁打を記録して敢闘選手賞を獲得したが、チームはロッテに敗れ日本一を逃した。

1975年にも打率.298(4位)を記録。1978年4月5日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)で、1回表、高橋里志から中前安打を放ち、日本プロ野球(NPB)史上11人目、中日の生え抜き野手としては初となる、通算2000本安打を達成した。

1979年にも38歳ながら打率.300(14位)と気を吐くが、視力の衰えもあり、中利夫が監督に就任した1980年限りで現役引退。二塁手としてベストナイン7回は史上最多である。同年シーズン終了後にナゴヤ球場で行われたセ・リーグオールスター東西対抗では、同年引退した1歳上で自身より1年早くプロ入りした王貞治とともに引退セレモニーが行われた。引退の際には「王さんが引退したら自分がプロ野球選手で最年長になる。最年長の選手は相応のプレーを見せなければならないが、自分にはそのプレッシャーに耐えられる強さがなかった」と発言している。翌1981年のオープン戦で引退試合が行われた。

引退後

一軍作戦守備コーチ(1981年 - 1983年)、二軍監督(1984年 - 1985年)、一軍守備コーチ(1986年)を務めた。1986年には山内一弘監督の途中休養を受け、同年7月6日からシーズン終了まで代理監督を務めた。

第1次中日監督時代

1987年からCBC野球解説者となるが、1991年オフ、星野仙一の監督の辞任を受け、後任として監督に就任する。初年度となった1992年は、シーズン後半に上位チームに善戦するものの、主力選手の故障等も響いて60勝70敗の最下位となる。なお、この年のセントラル・リーグは全球団が60勝台であった。

1993年は優勝したヤクルトに前半大差をつけられるも、後半一時は逆転して首位に立ったが、最終的に2位となる。特に9月5日の対阪神タイガース21回戦ではトーマス・オマリーのソロホームラン1点だけに抑えていた先発の山本昌広を7回で降板させたが(点数も7-1)、そこから後続のピッチャーが8回1点、9回に8点を取られて大逆転負けを喫した。高木は試合後「私が悪かった」と選手に頭を下げ、シーズン終了後には「中日がペナントをとれなかったのは、この試合にある」とまでいわれた。また、落合博満は後に自著でこの試合を振り返って「勝負事では驕りは禁物である。誤った采配を招くからである」と、中4日でこの試合でも102球投げていた山本を代えたのはまだしも、当時リリーフエースだった郭源治を出すタイミングを誤ったことに苦言を呈し、「何点勝っていても、手を緩めずに完璧に叩きのめしたことを、相手の記憶に植えつけなければいけない」と述べている。なお同年オフには2年前(1991年オフ)に不祥事を起こして横浜大洋ホエールズ(→当時・横浜ベイスターズ)を解雇され、2年間資格停止処分を受けていた中山裕章打撃投手として採用し、翌シーズン途中から選手として現役復帰させた。

1994年は首位巨人に前半戦で大差をつけられるが、後半戦は巨人のもたつきもあり、猛追してとうとう同率首位に立ち、両チーム共この年の130試合目の最終戦で勝った方がリーグ優勝という日本プロ野球史上に残る10.8決戦を迎えたが、結果的に敗戦で終える。シーズン終盤には監督交代の話が挙がっていたが、後半戦の躍進が評価され、翌年も続投となった。

しかし、1995年は、投手陣の崩壊・故障者続出により、チームは低迷を続けた。そのため、成績不振の責任を取り、シーズン途中で監督を辞任した。監督としての最後の試合となった同年6月2日の対阪神戦では、友寄正人審判への暴行により退場処分を受けた。同シーズンは、当初は徳武定祐が監督代行を務めたが、その徳武もシーズン途中で解任され、その後はシーズン終了まで島野育夫が監督代々行を務めた。当時、たまに打つが三振が多かった山崎武司を起用し続け、山崎は高木の監督退任後の翌年1996年には本塁打王になっている。

中日監督退任後

1998年からは再びCBC野球解説者・中日新聞野球評論家として活動した。

2003年オフには谷沢健一野村克也牛島和彦らと共に中日の次期監督候補として名前が挙がったが、この時は監督復帰は実現せず、落合博満が就任した。

2006年野球殿堂入り。また、この年の日本シリーズ第1戦で始球式を務めた。2007年からは中利夫に代わり、中日OB会の会長も務めた。

第2次中日監督時代

2011年9月22日、落合監督の後任として2012年シーズンから指揮を執ることが、球団から発表された。「まさに青天の霹靂で驚いています。落合さんという大監督の後ということもあり悩みはしましたが、やはり野球人間なのでしょう。この年齢になっても、もう1度チャンスを頂けましたので、全力で頑張る覚悟です」と球団広報を通じてコメントした。2012年はシーズン2位に終わり、クライマックスシリーズではファイナルステージで巨人に3連勝の後の3連敗で3勝4敗で敗退。

2013年、この年、チームは12年ぶりのBクラスの4位に終わり、セ・リーグ5球団に負け越す結果となった。Bクラスが確定した9月25日に今季限りで退任する意向である事が中日新聞が伝え、10月8日に退任の会見を行った。

現役時代の優勝経験は巨人のV9時代も重なってか1974年の1度だけだったが、巨人のV10を阻んだ優勝でもある。また、コーチ時代は1982年に1度経験している。通算で2度リーグ優勝を経験しているが、日本シリーズではいずれも2勝4敗で敗れており、日本一は1度もなかった。

晩年

退任後は高齢もあり、評論活動はCBCテレビ・CBCラジオの野球中継での副音声ゲストなど散発的なものとなっていた。一方で晩年は少年野球教室で子供たちを熱心に指導していたほか、亡くなる5日前の2020年1月12日にはCBCラジオ『板東サンデー』に出演し、同番組パーソナリティでOBの板東英二とともに現役時代の思い出話を披露していた。

2020年2月15日には名古屋市内のイベントに出席することも予定していたが、同年1月17日4時に急性心不全のため名古屋市内で死去。78歳没。

選手としての特徴

主に打低投高だった時代に活躍し、通算236本塁打は二塁での先発出場率が90%を超えている選手中では歴代最多である。レンジファクター系指標による二塁守備は、通算でプロ野球史上歴代最高値を出している。規定打席到達15シーズン中一桁本塁打だった年は3回だけ、24本塁打した年もあり、長打力をも備えたリードオフマンとして打線を牽引し続けた。

野球誌やテレビ番組などでの「プロ野球歴代ベストナイン」等の企画では、プロ野球史上最高の二塁手として髙木が選出されたことがある。高木は二塁手として2179試合・11477守備機会・5327刺殺・5866補殺・284失策・1373併殺という通算守備記録を残している(すべて二塁手プロ野球歴代1位)。他のポジションを含めた補殺数は5917で、これはNPB歴代最高記録である。

特筆

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2013年10月)

野球

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2013年10月)

人間関係

その他

詳細情報

年度別打撃成績









































































O
P
S

1960 | 中日 | 51 | 109 | 99 | 7 | 19 | 2 | 1 | 3 | 32 | 6 | 2 | 1 | 4 | 0 | 6 | 0 | 0 | 18 | 1 | .192 | .238 | .323 | .561
1961 | 80 | 243 | 222 | 15 | 47 | 8 | 3 | 2 | 67 | 11 | 4 | 2 | 6 | 0 | 12 | 2 | 3 | 36 | 3 | .212 | .262 | .302 | .563
1962 | 96 | 256 | 239 | 24 | 67 | 11 | 5 | 1 | 91 | 15 | 10 | 5 | 12 | 0 | 4 | 0 | 1 | 28 | 2 | .280 | .295 | .381 | .676
1963 | 133 | 543 | 496 | 72 | 126 | 18 | 6 | 10 | 186 | 39 | 50 | 12 | 15 | 3 | 27 | 1 | 2 | 43 | 8 | .254 | .295 | .375 | .670
1964 | 123 | 522 | 482 | 59 | 141 | 24 | 6 | 8 | 201 | 31 | 42 | 14 | 8 | 4 | 24 | 0 | 4 | 38 | 4 | .293 | .331 | .417 | .748
1965 | 132 | 538 | 483 | 75 | 146 | 19 | 1 | 11 | 200 | 48 | 44 | 11 | 21 | 2 | 27 | 1 | 5 | 49 | 1 | .302 | .346 | .414 | .760
1966 | 113 | 491 | 457 | 82 | 140 | 18 | 5 | 17 | 219 | 59 | 20 | 9 | 7 | 4 | 21 | 1 | 2 | 37 | 9 | .306 | .340 | .479 | .819
1967 | 118 | 491 | 455 | 59 | 133 | 25 | 1 | 19 | 217 | 66 | 9 | 3 | 2 | 7 | 26 | 0 | 1 | 60 | 10 | .292 | .332 | .477 | .809
1968 | 83 | 356 | 318 | 50 | 76 | 15 | 3 | 10 | 127 | 33 | 11 | 2 | 3 | 4 | 29 | 0 | 2 | 45 | 6 | .239 | .307 | .399 | .706
1969 | 130 | 562 | 513 | 78 | 129 | 20 | 3 | 24 | 227 | 66 | 20 | 8 | 11 | 3 | 34 | 1 | 1 | 69 | 8 | .251 | .299 | .442 | .742
1970 | 118 | 483 | 449 | 41 | 116 | 15 | 4 | 10 | 169 | 51 | 18 | 6 | 12 | 5 | 14 | 1 | 3 | 51 | 17 | .258 | .285 | .376 | .662
1971 | 120 | 482 | 436 | 58 | 104 | 18 | 1 | 8 | 148 | 22 | 28 | 9 | 10 | 1 | 32 | 2 | 3 | 42 | 5 | .239 | .295 | .339 | .635
1972 | 118 | 492 | 459 | 42 | 115 | 13 | 2 | 10 | 162 | 42 | 19 | 12 | 10 | 2 | 18 | 1 | 3 | 38 | 10 | .251 | .283 | .353 | .636
1973 | 122 | 527 | 480 | 68 | 131 | 20 | 3 | 5 | 172 | 31 | 28 | 9 | 7 | 5 | 30 | 3 | 5 | 21 | 10 | .273 | .322 | .358 | .681
1974 | 121 | 501 | 456 | 71 | 126 | 22 | 2 | 15 | 197 | 47 | 14 | 11 | 10 | 4 | 29 | 2 | 2 | 42 | 11 | .276 | .322 | .432 | .754
1975 | 116 | 495 | 463 | 60 | 138 | 20 | 2 | 17 | 213 | 51 | 16 | 7 | 8 | 2 | 18 | 2 | 4 | 31 | 14 | .298 | .330 | .460 | .790
1976 | 98 | 417 | 392 | 50 | 104 | 14 | 1 | 17 | 171 | 44 | 7 | 6 | 8 | 3 | 12 | 0 | 2 | 35 | 11 | .265 | .291 | .436 | .727
1977 | 121 | 504 | 468 | 74 | 136 | 18 | 3 | 20 | 220 | 52 | 10 | 3 | 11 | 2 | 18 | 0 | 5 | 49 | 10 | .291 | .324 | .470 | .794
1978 | 89 | 338 | 314 | 41 | 89 | 15 | 2 | 13 | 147 | 37 | 3 | 3 | 11 | 1 | 9 | 2 | 3 | 20 | 10 | .283 | .310 | .468 | .778
1979 | 120 | 518 | 467 | 74 | 140 | 25 | 1 | 11 | 200 | 48 | 11 | 2 | 18 | 1 | 28 | 3 | 4 | 45 | 10 | .300 | .345 | .428 | .773
1980 | 80 | 242 | 219 | 20 | 51 | 6 | 0 | 5 | 72 | 14 | 3 | 4 | 6&nbs
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出典:wikipedia
2020/09/21 01:36

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