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高橋由伸とは?

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高橋 由伸
読売ジャイアンツ 監督 #24

2017年3月25日 東京ドームにて

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
千葉県千葉市中央区
【生年月日】
(1975-04-03) 1975年4月3日(43歳)
【身長
体重】
180 cm
87 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投左打
【ポジション】
外野手一塁手
【プロ入り】
1997年 ドラフト1位(逆指名)
【初出場】
1998年4月3日
【最終出場】
2015年10月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴

  • 読売ジャイアンツ (2015 - )

【国際大会】

【代表チーム】
日本
五輪
2004年
この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


オリンピック
男子 野球
 | 2004 | 野球

高橋 由伸(たかはし よしのぶ、1975年4月3日 - )は、千葉県千葉市中央区出身の日本の元プロ野球選手(外野手内野手)。読売ジャイアンツ監督(第18代)。

シーズン先頭打者本塁打NPB記録保持者(2014年シーズン終了時点)。

妻は元日本テレビアナウンサー小野寺麻衣で、2児(2人姉妹)の父である。義妹に小野寺結衣がいる。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 現役時代
    • 1.3 巨人監督時代
  • 2 表記名について
  • 3 選手としての特徴
    • 3.1 打撃
    • 3.2 守備・走塁
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別打撃成績
    • 4.2 年度別打撃成績所属リーグ内順位
    • 4.3 アテネオリンピックでの打撃成績
    • 4.4 年度別守備成績
    • 4.5 年度別監督成績
    • 4.6 表彰
    • 4.7 記録
    • 4.8 背番号
    • 4.9 登場曲
    • 4.10 国際大会出場歴
  • 5 関連情報
    • 5.1 野球以外での表彰
    • 5.2 出演
      • 5.2.1 テレビ番組
      • 5.2.2 CM
  • 6 脚注・出典
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク
    • 8.1 インタビュー

経歴

プロ入り前

左打ちに関しては、3歳の頃から誰に言われるでもなく自然と出来たとのこと。小学校4年生で地元少年野球チームへ入団すると同時に、6年生ばかりのレギュラーに唯一抜擢される。入団以前から同じグラウンドで練習していた高橋を見ていた監督が、動きやスイングの速さなどに卓越したセンスを感じたためであった。5年生時には3番・ショートとしてチームの県大会初優勝、6年生時には4番・エースとして2連覇に貢献。

高橋は幼少期よりお父さんっ子であり、少年野球チーム在籍時から高校の寮に入るまで、常に父親との二人三脚で自主トレをしていた。その内容の一つとして、身長の倍ほどの竹で素振りをするという日課もあった。プロを目指して挫折してほしくないという父親の配慮により、練習時以外では野球に触れることがほとんど無く、プロを志すことも無ければ憧れの選手もいなかった。野球そのものはあまり好きでもなく、父や兄弟など周囲が喜んでくれるので続けていた面もあったと後に語っている。また現実的で冷めた子供だったといい、プロ野球選手にはなりたいともなれるとも全く思わず、プロ入りを考え始めたのも大学2年生頃になってからであった。当時から人前に出るのが苦手であり、目立つことを嫌っていた。

中学のポニーリーグ時代は4番・エースとしてチームを全国大会2連覇に導いた。途中、「野球を辞めたい」と言っては父親と兄の2人に力ずくでグラウンドまでひきずって連れていかれたり、嫌だと騒いでは兄の暴力を受け、よく泣きながら練習に向かっていたという。中学3年時の成績は26試合の出場で打率.559、17本塁打、65打点。ここで野球を辞め、将来を見据えて学業に集中しようと考えたが、「あと3年だけお父さんを楽しませてくれ」という父の要望で甲子園を目指すことに決める。勉強と両立できるという理由、特に憧れであった慶應義塾大学入学への近道として、数あったスカウトの中から神奈川の名門・桐蔭学園高等学校(以下、桐蔭学園)を選択し入学。

桐蔭学園野球部には期待の投手として入部したが、間もなく土屋恵三郎監督から打撃と強肩を活かす右翼手への転向を薦められる。高橋は渋ったものの、転向すればすぐにレギュラーで3番を打たせるという言葉で決断。1年生時から3番・右翼手のレギュラーの座を掴む。このころから強肩・好守に加えて勝負強さの片鱗を見せていた。第73回全国高等学校野球選手権大会で3回戦に進出するも鹿児島実と当たり、最後はサヨナラ負けを喫した。当時の同僚には高木大成(2学年上)や副島孔太(1学年上)がいた。また、同級生には元サッカー日本代表森岡隆三がいる。

4番打者となり、投手を兼任するようになった2年時の1992年にも第74回全国高等学校野球選手権大会に出場。沖縄尚学とあたり、本塁でのクロスプレーで左太股の肉離れを起こしたが、8回からリリーフ投手として登板した。結果は延長12回でまたもサヨナラ負けを喫し、1回戦敗退となった。最後は足の痛みで歩けなくなり、チームメイトに担がれながらマウンドを下りた。その後、怪我と腰痛治療のために2週間の入院を余儀なくされたが、退院後にはチームメイトからの厚い人望により翌年の主将に任命される。「自分はチームを引っ張っていけるようなタイプではない」と最初は断ったものの、監督命令と聞いて引き受けたという。高橋の先輩でもある副島は「口で引っ張っていくのではなく、日常の自然な練習態度や言動から気がつけば周囲に人が集まっている、という独特の雰囲気を持っていた」としている。

3年時には強打者を1番に据えるという土屋監督の方針により1番打者を務めるも、甲子園には出られなかった。1,2年時の甲子園通算打率は.400。高校通算30本塁打ヤクルトなど複数のプロ球団からスカウトされていたが、慶應進学という入学当初からの目標は変わらず、慶應義塾大学(法学部政治学科)へ指定校推薦で進学する。「非凡なセンスを持ちながら根っからの野球好きでない高橋には、自由で伸び伸びとしたチームがいい」と考えた土屋監督の助言もあった。

慶應義塾大学野球部で1年時からレギュラー。春季リーグ戦の開幕1試合目から5番・三塁手として出場、ルーキー新記録の3本塁打を放った。3年時の東京六大学野球1996年春季リーグ戦では打率.512、5本塁打を記録して三冠王を獲得。4年時の1997年には主将に就いた。相手が勝負を避けるようになり、2試合で7四球など敬遠も目立つ中、春季リーグ戦ではチームを9季ぶりのリーグ優勝に導くなど貢献する。秋季リーグでは法政大学安藤優也から本塁打を放ち、田淵幸一の持つ東京六大学リーグ本塁打記録を更新した。リーグ通算102試合出場(4年間全試合フルイニング出場)し、通算打率.325、119安打(当時歴代4位)、23本塁打(歴代1位)、62打点(当時歴代12位)、219塁打(歴代1位)と記録的な成績を残す。日米大学野球においても日本代表の4番打者として3試合連続本塁打を打つなど活躍。インターコンチネンタルカップでも大学生ながら日本代表の4番打者として出場し、上原浩治(大阪体育大学)が先発した国際大会151連勝中のキューバとの決勝戦で1回裏に先制点かつ決勝点となる3点本塁打を放ち、その後も2点三塁打を打つなど優勝に貢献した。同年に大学を卒業し、甘いマスクと走攻守を兼ね揃えた六大学のスターとして高い人気を誇っていた。ちなみに、リーグ戦では1度だけリリーフ投手として登板し無失点で切り抜け、球速149km/hを記録したことがある。当時慶大の後藤寿彦監督は高橋のことを「試合の勝敗にはすごくこだわるのに、自分の記録や賞についてはギラギラしていない」と語った。高橋の大学の3学年後輩である佐藤友亮は、「後輩に怒ることが全く無く、後輩が叱られていたら庇ってくれる仏様のような人」「彼がいなかったら何人も野球部を辞めていた」とプロ入り後に語っている。また、高橋と同期である明治大学川上憲伸とは六大学野球新記録となる本塁打を放つなど大学時代よりライバルであった。

ドラフトに際しては中日ドラゴンズ日本ハムファイターズ広島東洋カープを除く9球団の激しい争奪戦が繰り広げられる。高橋の出身地である千葉市を本拠地とする千葉ロッテマリーンズのファンが「高橋君にロッテへの逆指名入団を」との署名運動を繰り広げ、数万人の署名を集めたが高橋は志望球団をヤクルトスワローズ西武ライオンズ読売ジャイアンツの3球団に絞り、11月4日に巨人を1位で逆指名し入団した。

現役時代

1998年
入団当初より長嶋茂雄監督から「21世紀のスター」として期待され、開幕戦に7番・右翼手で先発出場しいきなりプロ初安打を放った。4月7日、東京ドームでの広島東洋カープ戦で、山内泰幸からプロ入り初本塁打を記録した。右足を高く上げる独特の一本足打法で打線を牽引し、後半戦からは5番打者に定着。オールスターゲームのファン投票では新人史上最多の51万4351票で選出され、以降7年連続で出場した。最終的に打率.300(リーグ8位)、19本塁打(リーグ9位)、75打点(リーグ10位)、OPS.852(リーグ8位)の好成績を収めてシーズンを終えた。プロ1年目での打率3割(規定打席到達)は史上7人目、セ・リーグでは長嶋茂雄以来40年ぶり。さらに新人での満塁本塁打3本は史上初のことだった。
新人王候補にも名前が挙がったが、新人王は中日の川上憲伸が受賞した。この年の川上との直接対決の成績は 22打数1安打(1本塁打)であった。新人王は獲得できなかったが、新人王に値する成績と認められ異例とも言えるセントラル・リーグ特別表彰を受賞した。また、守備でも強肩を活かしてリーグ最多タイの12補殺を記録し、新人外野手としては史上初のゴールデングラブ賞を受賞した。以降6年連続で受賞となる。同年、長嶋監督から「ウルフ」のニックネームが与えられた。
1999年
春季キャンプからMLBサンフランシスコ・ジャイアンツバリー・ボンズを参考にして重心移動に取り組み、長打力がアップした。オープン戦で6本塁打を記録した勢いそのままに開幕戦から3試合連続本塁打(1993年の秋山幸二以来6年ぶり)を放ち、4月には打率.433、8本塁打、29打点を記録し月間MVPを獲得。開幕から5番として試合に出場してきたが、5月5日にはプロ2年目にして巨人第66代の4番打者に指名される。以後チームメイトの松井秀喜ヤクルトスワローズロベルト・ペタジーニと熾烈な本塁打王争いを展開。しかし、9月14日の中日戦(ナゴヤドーム)での守備の際に外野フェンスに激突し、鎖骨骨折の重傷を負ってチームから離脱した。中日と激しい優勝争いをしていたチームにとっても高橋の離脱は大きな痛手となり、本塁打王と共にチームの優勝も逃した。自身は打率.315(リーグ5位)、34本塁打(リーグ6位)、98打点(リーグ4位)を記録。故障により終盤欠場しながら打撃成績のほとんどの数字で前年を上回り、初のベストナインに選出された。オフには年俸6100万円増の1億円でサイン。史上最速の年俸1億円到達となった。
2000年
広島からFAで移籍してきた江藤智の入団により、シーズン前半戦は主に5,6番を任された。前年の骨折の影響もありプロ入り後初めてのスランプを経験するが、後半戦には復調。8月24日の広島戦で不振に陥っていた江藤に変わって3番に座ると、初回に黒田博樹から2年連続となる20号本塁打を放ち、この試合では2打点を挙げて巨人のサヨナラ勝ちに貢献した。その後は再び6番に降格されたものの同月29日の阪神戦で再び3番に座り、ソロホームランを含む2安打1打点、翌30日には2本塁打3打点を挙げる活躍を見せ、「MKT砲」と称された3番・高橋、4番・松井、5番・清原和博の強力クリーンアップの一員としてリーグ優勝・日本一に貢献した。9月の広島戦で球団通算1000号サヨナラ本塁打を高橋建から放った。プロ入り初の全試合・フルイニング出場を果たすも、3年目で初めて打率3割を下回った。
2001年
前年同様、シーズン序盤にスランプに苦しんだ。それでも江藤とともに3番・6番打者を任され、2年連続で全試合出場。8月1日の中日戦では川上憲伸からプロ通算100号本塁打を放つ。打率も2年ぶりに3割をクリアした。シーズン後には台湾で開催された第34回IBAFワールドカップ日本代表に選出され、主に「4番・右翼」として出場。予選のキューバ戦では3安打を放って勝利に貢献した。日本は予選で4連勝を果たし決勝トーナメントに進み、準決勝では再びキューバと対戦するも延長戦の末に敗れた。その後の3位決定戦でも台湾に敗れて日本はメダルを逃したものの、高橋は大会打点王とベストナインを受賞した。
2002年
春季キャンプ前の自主トレで「タイトル奪取」を目標に掲げ、開幕から好調を維持。5月4日の横浜戦では二打席連続本塁打を放ち、この時点で打率は4割を超えていた。6月の広島戦では球団通算7500号本塁打を放ち、対戦投手は2000年にも球団通算節目の本塁打を放った高橋建だった。しかし、シーズン中盤に入るとスランプに陥り、4割を超えていた打率は7月末には3割台前半にまで落ち込んだ。8月3日の広島戦(旧広島市民球場)では新井貴浩が放った打球をフェンス際でジャンピングキャッチを試みた際に左足かかとを強打し戦線離脱(左足底筋腱挫傷)。復帰までに約1ヶ月半を要し、その復帰第1戦となった9月16日の横浜ベイスターズ戦で中根仁が放った同様のフェンス際の打球ではジャンピングキャッチを成功させた。本塁打・打点は新ストライクゾーンと35試合欠場した影響で前年から大幅に成績を下げてしまい、開幕前に掲げたタイトル奪取はならなかったが、2年連続で打率3割をキープした。
2003年
この年より選手会長に任命される。また、松井のMLB・ニューヨーク・ヤンキース移籍により守備位置が右翼手から中堅手コンバートされた。清原の欠場もあり、初めて開幕戦を4番で迎えた。途中腰痛で戦線を離脱したものの、シーズン中盤には好調をキープし続け、11打数連続安打14打席連続出塁のプロ野球タイ記録を樹立し、打率は自己最高の.323を記録した。6月1日阪神戦では当時無敗を誇っていたジェフ・ウィリアムスからサヨナラ本塁打を打ち、シーズン唯一の黒星を付けた。7月15日オールスターゲームでは2打数2本塁打3打点の活躍で自身初のオールスターMVPを受賞。また、シーズン後にはアテネ五輪の予選を兼ねた第22回アジア野球選手権大会に出場し、首位打者となった。
2004年
前年に続き中堅手へのコンバートを試みるが、まもなく近鉄から移籍してきたタフィ・ローズに譲る。ロベルト・ペタジーニをヒントにした、バットを持つ両手を胸の横に置き、それまで寝かせていたバットを立てた打撃フォームに改造した結果、開幕直後は極端な不調に陥ったが、徐々に復調していった。開幕からシーズン途中に開催されたアテネ五輪まで継続して4番打者を務める。五輪では日本代表の3番・センターと副主将を任され、代表チーム最多の3本塁打を打つなど活躍。中でも野球台湾代表戦では王建民から貴重な同点2点適時本塁打を放った。しかし、五輪で肘の遊離軟骨状態が悪化し肘に痛みを抱えながらのプレーで守備面では送球に精彩を欠き、ゴールデングラブ賞をプロ入りして初めて逃したが、打撃では5年ぶりに30本塁打を記録、打率も4年連続で3割をクリアした。9月29日の広島戦では長嶋茂雄の849試合目に次ぐ史上8位のペースとなるプロ850試合目での1000本安打を達成した。
オフには右肘の手術を受け、球団合併問題では巨人の選手会長、また日本プロ野球選手会の副会長として署名活動などで大きく貢献した。
2005年
シーズン序盤の広島戦での守備中、旧広島市民球場のフェンスに登った際に右肩肩甲下筋の肉離れを起こして離脱。その後、7月8日の広島戦でフェンスに右足首を強打し再び離脱。3年前と合わせて3度も同じ球場、同じフェンス際の打球の処理で怪我に遭ったため、復帰後の広島戦では球場のフェンス際に清めの塩を撒いたという。その後も右足首は回復しないまま骨棘が形成され、痛みを抱えた状態で試合に出続けたが、88試合の出場に留まり、プロ入り以来はじめて規定打席を割る。オフに右足首の手術を受けた。
2006年
1月に元日本テレビ小野寺麻衣アナウンサーと結婚。手術により調整が遅れ、オープン戦には中盤から参加した。この年から再就任した原辰徳監督の「守備の要であるセンターラインを守ることでチームを引っ張っていってほしい」という方針から再び中堅手にコンバート。右足首の状態は開幕に間に合うかどうかというものであったが、開幕から好調なスタートを切った。しかし、4月12日の広島戦にてセンターの守備でダイビングキャッチの際、左脇腹の肉離れを起こし約1ヶ月の離脱となった。復帰して半月ほどたった5月27日のロッテ戦で再びダイビングキャッチを試みて左肩を負傷した。その後守備位置を中堅手に戻されるが、度重なる負傷で本来の打撃や守備を取り戻すことができず後半戦からは守備の負担を軽減させるため初めて左翼手の守備に就いた。8月18日の中日戦で1000試合出場を達成。前年に手術した右足首の状態が悪いままプレーを続けたこともあり、2年連続で規定打席を割り、打率.260、15本塁打と不本意な成績に終わった。
2007年
心身ともに強い選手という意味で「強」をテーマに掲げ、原監督は開幕戦から高橋を「1番・右翼」で起用した。横浜との開幕戦(横浜スタジアム)の第1打席、横浜先発の三浦大輔の初球を右翼スタンドへ本塁打を放ち、セントラル・リーグ史上初、1962年衆樹資宏(阪急)以来45年ぶりの開幕戦初球先頭打者本塁打を放ち、長嶋茂雄の5年連続に次ぐ歴代2位の3年連続開幕戦本塁打を記録した。4月28日FA権を取得するも、早い段階で宣言せずに残留することを表明。生涯巨人を宣言した。6月以降は右足首痛が悪化するもそのまま出場を続け、6月には打率.408、8本塁打、18打点、OPS1.347を記録し4年ぶりとなる月間MVPを受賞。7月26日の横浜戦ではマット・ホワイトからプロ野球新記録となるシーズン9本目の初回先頭打者本塁打を記録。終盤は腰痛により成績を落としたが、1年を通じて大きなケガや長期離脱もなくプレーし、3年ぶりに規定打席に到達し、リーグ6位の打率.308を記録。8年ぶりのベストナインに選ばれ、4年ぶりのゴールデングラブ賞も獲得。
1番打者として出塁を意識し、自己最高の66四球・出塁率.404を記録する一方で初球打ちの打率は.441、自己最多の35本塁打も記録した。日程終了時点ではリーグ最多本塁打だったが、その後村田修一が最後の1本となる36本目を佐々岡真司引退試合の9回最後の打席で打ったため、惜しくも本塁打王を逃した。OPS.982、得点圏打率.409は12球団トップであり、その成績から「1番に据えておくのはもったいない」という意見も出るほどで、当時楽天イーグルス野村克也監督からも「俺ならクリーンナップ」と言われた(なお、この発言の翌日の試合のみ4番として起用されている)。
また、この年で10年連続2桁本塁打も達成、巨人では長嶋茂雄・王貞治・原辰徳・松井秀喜に次ぐ5人目となった。北京五輪の予選を兼ねた第24回アジア野球選手権大会日本代表に選抜されるが、腰痛のため辞退。ちなみにこの年のオールスター出場選手・監督のサイン入り着用済みユニフォームが慈善オークションにかけられた際には、田中将大に次いで2番目に高額の107万3千円で落札されている。
オフの契約更改ではFA権は行使せず、巨人の生え抜き選手としては最高となる4年総額16億円(年俸3億5000万プラス出来高5000万)で新たに契約を結んだ。
2008年
前年に続き「1番右翼」で開幕スタメン。4月3日の中日戦で川上から7回裏にバースデーアーチとなる3ラン本塁打を放ち、またこの高橋の本塁打から後続の2番・亀井義行、3番・小笠原道大が二者連続本塁打を放ち、球団9年ぶりとなる3者連続本塁打の口火を高橋は切り、開幕5連敗を喫したこの年のチームのシーズン初勝利に貢献した。4月6日の阪神戦では史上52人目となる通算250号本塁打を放った。二年連続で開幕から好調を維持し、4月下旬からは4番として起用されるも、5月3日のヤクルト戦で腰痛を再発させ登録抹消となった。6月15日に1軍復帰するも8月7日に再び戦線離脱となる。ベンチ入りしても出場しない試合もあり、埼玉西武ライオンズとの日本シリーズは欠場した。チームがリーグ優勝した一方で、91試合の出場で打率.236と自己ワーストの成績に終わってしまった。プロ入りして以来10年間3割以上をキープしていた通算打率が.299となった。オフには腰の精密検査を行い、手術も検討したが引き続きリハビリによる改善を目指すことにした。
この年の北京五輪についても、代表の星野仙一監督は当初「(高橋は)国際試合には欠かせない」と選抜の意向を示していたが、腰痛により辞退した。
2009年
現役時代の写真
2009年8月25日、横須賀球場
この年から生え抜き野手最年長となったが、腰痛が改善せず春季キャンプでは初の2軍スタート。シーズン終盤の8月28日の阪神戦で復帰し、9回に代打で登場したものの藤川球児に対し見逃し三振に終わってしまう。翌29日に出場選手登録を外れ、腰の手術を受けることを表明し来季の開幕復帰を見据え9月15日に手術を受け、わずか1打席でシーズンを終えた。
この手術は成功しても腰の痛みが完全に取れる保証も無く、リハビリは最悪1年以上かかり、失敗したら一生車椅子生活もあるという選手生命を賭けたものであった。踏み切るに至るまでの経緯として、当初から「秋に手術しても来年の開幕には間に合う」と話していて、ギリギリまでシーズンを棒に振る決断を待った形になった。高橋もこの年を「野球をやっていることを想像したくてもできなかった時期」「もう無理かと思った」と振り返るほど絶望的な状況であった。
2010年
自主トレから慎重に調整を行い、春季キャンプでは一軍に入る。この年から一塁手としての出場を視野に入れ練習を重ねつつ、オープン戦では5割近い打率を記録し、開幕戦にキャリア初となる「8番一塁」で先発出場。この年には同じく自身初となる2番打者も経験。中盤以降は右翼手や代打での起用が増えた。腰の状態を気にしながらの出場で規定打席には届かなかったが、1年を通して116試合に出場(うち先発が76試合)。クライマックスシリーズも含め、高橋が本塁打を打った試合でチームは全勝した。前年の怪我から復帰した一年であったが、出塁率.364、得点圏打率.325、CSでの打率は.375と選球眼や勝負強さは健在であった。
2011年
開幕前にレギュラー再奪取を目標として掲げ、開幕戦に「5番右翼」でスタメン出場。しかし、4月26日のヤクルト戦の守備で外野フェンスに激突して負傷交代、29日に登録を抹消。検査の結果、左肋骨を骨折していたことが判明した。故障明けの6月11日に再登録。7月10日には史上108人目となる1500本安打を達成。8月7日の広島戦ではチームを救うダイビングキャッチで「ジョージア魂」賞を受賞。8月20日には3年ぶりに4番として先発し、同月26日の阪神戦でも攻守に活躍。10月12日の阪神戦では自身8年ぶりのサヨナラ本塁打を代打で放った。だがシーズンを通じては95試合出場で打率.246、15本塁打、37打点という成績に終わり、規定打席にも届かなかった。一方でOPSは.829と規定打席到達者の中でリーグトップだった長野久義(.847)と遜色ない成績を残した。
契約更改では当時の球団史上最高のダウン額となる1億8000万円減の推定1億7000万円でサインした。更改後の記者会見では「今年も後がないと思ってやってきたし、来年も同じ気持ちでやっていきたい」との決意を口にした。
2012年
開幕前のインタビューで「体の衰えが技術で補えなくなっている」と発言したが、開幕戦に「6番右翼」としてスタメン出場。わずか4打席の差で5年ぶりの規定打席到達は逃したが、大きな怪我もなく1年間を通して1軍に帯同。シーズン打率.239、8本塁打に終わったものの、出塁率は3割5分を越え、満塁の場面では.538、2本塁打、21打点と勝負強さが光った。7月のオールスターゲームには2007年以来約5年ぶりに出場。第1戦、第3戦に「7番左翼」で先発出場、第2戦に堂林翔太の代打で登場し、5打数2安打1死球を記録した。8月17日の広島戦(東京ドーム)で史上37人目となる300本塁打を達成した。クライマックスシリーズは全試合にスタメン出場し、日本シリーズでは、3戦目に阿部慎之助が負傷したため4戦目に4番でスタメン出場した。
この年3月、朝日新聞が入団時の契約金が最高標準額を大幅に超える6億5千万円であったことを報道、巨人側も婉曲的に認めた。
2013年
春のキャンプでは、阿部がワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場したため主将代理を務めた。「6番左翼」で開幕戦を迎え、4月4日の横浜戦でシーズン初安打(2007年以来、自身6年ぶりの三塁打)を放ったが、二塁を回った際に左ふくらはぎを痛め途中交代し、一軍登録を抹消された。肉離れで全治三ヶ月と診断されたが、6月29日に一軍に復帰した。7月4日の阪神戦では阿部の代役として4番に座ると、怪我の影響を感じさせない果敢な走塁を見せ決勝のホームを踏んだ。この年は前述の故障の影響で68試合の出場に留まったものの、打率.303、10本塁打、OPS.950を記録。2年ぶりに2桁本塁打を記録し、規定打席不足ながらOPS傑出度は自己最高の数値を記録した。
日本シリーズでは6試合に出場し、第6戦に田中将大から決勝タイムリーを放ったものの打率.150、OPS.427と不調に終わり、チームも日本一を逃した。
2014年
シーズン前半は代打の切り札としてチームを支え、代打での打点は柳田俊郎の球団記録にあと1に迫る17打点を記録した。夏場からは先発出場が増え、クリーンアップを任される試合もあった。
8月18日、高橋にバッティングの礎を叩き込んだ父・重衛が心不全のため75歳で死去。その告別式の翌日にも試合に出場し、ソロホームランを放った。ベースを周っている途中、天を見上げる仕草が見られた。しかし、8月24日の中日戦でスイングした際に右手中指を脱臼し、25日に登録を抹消され、そのまま復帰できないままシーズンを終えた。出場試合数こそ多くないが、前年に引き続き衰えを感じさせない成績を収めた。また、10月25日に選手兼任一軍打撃コーチへの就任が発表された。
2015年
6月11日の日本ハム戦でNPB史上55人目となる通算3000塁打を達成した。最終的に77試合の出場で打率.278の成績を残し、代打の切り札として代打打率.395を記録し、翌シーズンも現役続行の意向を示していたが、クライマックスシリーズ敗退を受けて今季限りでの勇退を表明した原の後任として球団より監督就任要請を打診され、10月23日に、渡邊恒雄取締役最高顧問、白石興二郎取締役オーナー(いずれも当時)と面会の上、翌2016年シーズンからの監督就任を受諾することを報告、同時に2015年シーズンをもって現役を引退することを表明。10月26日には監督就任会見を行い、11月5日日本野球機構(NPB)より任意引退公示された。高橋の引退及び監督就任が突然の決定であったことから、球団側では「ファンから(引退式を行って欲しいという)要望も多く、こちらも何かの形にしたかった」として11月23日のファンフェスタ(東京ドーム)で高橋の現役引退式並びに監督就任セレモニーが執り行われた。なお、背番号は現役時代より引き続き24となった。NPBでは史上初の「昭和50年代生まれ及び逆指名入団の監督」となる。

巨人監督時代

2016年
毎年スポーツ報知では、ジャイアンツ歴代監督本人の書を披露しているため、書道初体験の高橋が初披露したその年の書は、「一新」である(名前も直筆で、はしご高を採用し、「髙橋由伸」と表記)。4連勝を達成するなど序盤は好調だったが先発候補の多くが故障離脱しており先発投手が足りず5月に入り調子を落とすと広島の快進撃もあり、一時は4位にまで低迷した。だがそこから立て直した。しかし、8月24日の広島戦で敗れて広島のマジック点灯を許すと広島は勢いが加速し巨人は失速。大きく明暗を分ける試合となった。そして9月10日の広島戦で敗れて球団史上2度目の東京ドームで他球団のリーグ優勝胴上げを見届ける屈辱を味わった。最終的に広島、DeNA、中日の3チームに負け越したがリーグ2位でシーズンを終了した。CSではCS初出場となった3位のDeNAと対戦し、初戦を落として第2戦に勝利したが第3戦は延長戦の末敗れて2011年のファーストステージ以来5年ぶりにファーストステージで敗退した。
2017年
その年の書は、「新化」である。この字のきっかけは、2016年暮れにFA宣言したDeNAの山口俊と日本ハムの陽岱鋼が入団した理由で、この字になった。前年同様開幕5連勝をマークするなど前年同様序盤は好調だったが5月中旬から徐々に失速。チームワーストの13連敗を喫するなど借金は一時2桁にまで膨らむなど低迷。ケーシー・マギーを7月下旬から「2番・二塁」で起用する攻撃的布陣で挑み8月に巻き返したが9月になると一時的に3位に浮上した時期はあったが主将の坂本、阿部、村田らのベテラン組が疲労などが原因の打撃不振に陥るなど再び失速。10月1日の阪神戦に敗れ、三位のDeNAが勝利したため勝率は最終的には前年を上回りながら11年ぶりのBクラスとなる4位が確定した。
2018年
その年の書は、「奮輝」である。

表記名について

2000年 - 2009年
入団2年目の1999年まで巨人所属の「高橋」姓の選手は1人だけだったが、同年に高橋尚成が入団したことで表記名が「高橋由」となる。
2010年
2009年オフに高橋尚がFA権を行使し移籍したため、マスメディアでの表記は11年ぶりに「高橋」に戻ったが、スコアボード表記の「高橋由」と場内アナウンスのフルネーム呼称は継続された。
2011年 - 2015年
2011年5月、高橋信二の移籍に伴いメディア表記も再び「高橋由」となる。オフには高橋信がオリックス・バファローズへ移籍したが、同時期に高橋洸が入団したことで、引退まで「高橋由」表記は継続された。

選手としての特徴

打撃

出典:wikipedia
2018/08/08 23:59

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