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高麗とは?

高麗国
高麗


 | 918年 - 1392年 | 

(国旗) | (国章)
公用語 高麗語
首都 開京
国王
918年 - 943年 王建(太祖)
【1389年 - 1392年】
恭譲王(最後)
変遷
建国 918年
による征服 1259年
【元の直接統治】
1287年
【元より独立】
1356年
【滅亡】
1392年

【現在】
韓国
北朝鮮
【高麗】

【各種表記】

ハングル: 고려/고려왕조
漢字: 高麗/高麗王朝
発音: コリョ/コリョワンチョ
日本語読み: こうらい/こうらいおうちょう
2000年式:
MR式:
英語: Goryeo/Goryeo wangjo
Koryŏ/Koryŏ wangcho
Goryeo/Goryeo Dynasty
 |  |  |  |  |  |  |  | 

朝鮮の歴史
考古学 | 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説 | 檀君朝鮮
史前 |  | 箕子朝鮮
 |  |  | 
辰国 | 衛氏朝鮮
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 
 |  | 

三国 |  | 伽耶
42-
562
 | 百済
前18-660 | 高句麗
前37-668
新羅
前57-
南北国 |  | 熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892 | 安東
都護府
668-756 | 渤海
698
-926
後三国 | 新羅
-935 | 
百済

892
-936
 | 後高句麗
901
-918
 |  | 女真
統一
王朝
 | 高麗 918- | 
 | 遼陽行省
(東寧双城耽羅)
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 | 日本統治 1910-1945
現代 | 連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948- | 朝鮮民主主義
人民共和国

1948-

Portal:朝鮮

高麗(こうらい、ハングル:고려;[koɾjʌ]、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年朝鮮半島後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市鴨緑江まで及んだ。

高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。

歴史

建国

王建(877-943年)高麗の創設者

新羅は朝鮮半島を統一したが、しかし8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起き、地方でも農民の反乱が起き、混乱を深めて行った。この乱れは真聖女王の時に一層激しくなり、地方の有力な豪族たちが新羅を分裂させた。892年に半島西南部で甄萱後百済を建国し、901年には弓裔後高句麗(のちに泰封と改称)を建国した。これ以降を後三国時代と呼ぶ。

後高句麗の将軍だった王建は、後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし弓裔には嫌われ、命を狙われたこともある。弓裔は、宮殿の造営で国力を消耗するなど失政を重ね、民衆の不満は高まった。また自分を弥勒菩薩と呼ばせて神秘的な超能力で人の心を見抜くことができると言い、反対派を粛清した。

918年6月、騎將の洪儒・裴玄慶・申崇謙・卜智謙らなどが密謀し、夜に王建を訪ね、王に推戴する。王建は断固として断るが妻の柳氏が直接鎧を着させ、督励した。また多くの将兵や臣民らおよそ1万人に崇められた。弓裔は逃げ出して山中に隠れたが、飢えを凌ぐことができず、麦と穂を盗んで食べる途中、民たちによって殺害される。建国の地、鉄山(円山)は高句麗の旧領内だったので国号を「高麗」、年号を「天授」と改元した。なお、高句麗の後継を名乗ったのは高麗のみではない。

その後、朝鮮半島は高麗と後百済の戦争が一進一退の状況が続き、935年に後百済の王の甄萱が四男甄金剛に王位を継がせようしたことに長男の甄神剣が不満を持ち、ついに反乱を起こして父を廃位し、みずから後百済の王となった。甄神剣は甄萱を寺院に監禁したが、のちに甄萱は脱出し、935年6月、高麗に亡命した。王建は甄萱を尚父と呼んで厚遇した。同年11月には、新羅の敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順し、新羅は高麗に吸収合併されることになった。この間、政変による混乱で後百済は急速に弱体化し、936年には高麗の攻撃でついに滅亡した。こうして朝鮮半島は高麗によって統一された。

北進政策と契丹侵入

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この節には複数の問題があります改善ノートページでの議論にご協力ください。

  • 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2014年5月)
  • 中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2014年5月)
  • 独自研究が含まれているおそれがあります。(2014年5月)

詳細は「契丹の高麗侵攻」を参照

926年(916年成立)が渤海を滅ぼし高麗と北方で国境を接した。一方、中国大陸の戦乱(五代十国)が(960年建国)によって統一された。

宋は漢民族を統一したが、北方の周辺異民族を制する力はなく、契丹は急速に高麗との国境まで版図を広げ、さらに993年から大規模な侵入を行った。高麗はこれに屈し、契丹の属国となる事を誓って赦され、994年から連年朝貢した。1009年に高麗で王が弑逆される政変が起きると、1010年、契丹は不義を正すという名目で介入し、北部諸州を征服した後、首都開城へ迫った。高麗朝廷は将軍・姜邯賛の策により開城を放棄して羅州へ立て篭もるも、契丹軍が1011年1月に開城を攻略すると和を乞うて降伏、契丹軍は開城を焼き払い撤退した。高麗が再び盟約に違反した為、契丹は1013年から1015年まで継続して侵入し、高麗軍は度々破れ大きな損失を被っている。契丹はその年のうちに再再度侵攻した。1016年、高麗が再び宋の藩属国に戻って契丹に背くと、1018年蕭排押率いる10万の契丹軍が高麗へ攻め込むが、姜邯賛率いる高麗軍20万は、契丹軍の分隊を鴨緑江支流河岸にある亀城で迎え撃ち撃退した。侵攻は1019年まで続いたが、高麗は最終的にこれを撃退した。契丹軍の侵攻は、高麗が請願によって女真族の土地である江東6州の権利を下賜されていながら度々背いた故である。遼の聖宗は、蕭排押の敗戦を受けて本格的な高麗征伐を準備していたが、高麗からの「藩属国となり毎年朝貢を怠らない」旨の謝罪を受け容れ、1020年降伏による和睦を許した。1022年以降、高麗は契丹の年号を用いて朝貢の義務を果たし、契丹が高麗の江東6州領有を許した事で、高麗は鴨緑江沿いの女真族の土地を占領した。

その後、北東地域では女真との戦いが続いた。女真が居住していた江東6州への侵略に際して女真族の抵抗に遭った為、1033年から1044年にかけて北部に半島を横断する長城を築いて報復に備えた。1037年に女真水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻した。

この後の女真の台頭は著しく、1104年の反撃では女真軍に敗れ略奪を受けている。女真は1115年を建て、1125年に高麗の宗主国である遼を滅ぼした。その為高麗は金へ服属し、翌1126年に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗は属国でありながらもそれほど政治介入を受けずに済んだ。国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮半島史書である三国史記が完成した。

李資謙の乱と妙清の乱

李資謙の乱

李資謙は当代最高の貴族家門の慶源李氏の一員で、李氏一族は文宗の時代から睿宗に至るまで80年間娘を王室に嫁がせた。李資謙は睿宗の王妃・順徳皇后の父で、娘が王子(後の仁宗)を生んで睿宗に愛されるとともに政界入りしたが、皇后は1118年に崩御する。1122年に睿宗が崩御すると、13歳の仁宗が即位した。李資謙は仁宗の外祖父として摂政に任じられ、政権を握った。また自分の3女と4女を仁宗に嫁がせた。つまり、仁宗は母の妹らと結婚することになった。政権を握った李資謙とその息子たち、親戚らは財産を作り、賄賂を受け取るなど横暴な振る舞いをした。このような李資謙の越権行為は人臣らによって批判され、ついに御史台の言官たちに弾劾される。また李資謙は外孫の仁宗によって朝鮮国公に冊立され、調書に署名の手続きを省略する特恵を受け、自宅は「宮」と格上げした。自分の誕生日は「節」と称するなど(金富軾らの反対で霧散)、太子に準ずる待遇を受けることになり、甚だしく自分を「知軍国事」と称して仁宗に冊立を要求した。行過ぎた李資謙の越権行為に仁宗と側近らは李資謙を取り除くことを目論む。

1126年2月仁宗は側近の智祿延、安甫麟、呉卓、權秀、高碩などに李資謙拓俊京などの逮捕を命じる。2月25日に王命を承った呉卓、權秀などが軍を率いて入城し、宮廷に入り、拓俊京の息子の拓純と弟の拓俊臣を殺して、また戚臣らを殺した。李資謙の反軍は拓俊京と連合して反撃した。反軍は錠を壊して入城し、宮を包囲、占領する。李資謙は仁宗に事件の首謀者を出すように王を脅かすが、王は拒否。反乱軍はまた宮廷を攻め、城を陥れる。仁宗は李資謙に譲位勅書を下すが、李資謙は大臣らの強い反発を恥ずかしがり、王位への欲心を諦めるような行動を取る。一方、李資謙は仁宗を自宅に監禁し、毒殺を2回も企てるが、自分の娘で、仁宗の王妃の廃妃李氏姉妹(李資謙の3女と4女)によって失敗する。1126年5月に李資謙と拓俊京の間で葛藤が起こり、仁宗は拓俊京を味方に引き入れ、拓は仁宗に忠誠を誓って李資謙の乱を制圧する。

李資謙は大勢が傾くことを把握し、投降した。李資謙と妻の崔氏、息子らは逮捕され、配流される。李資謙の娘で、仁宗の皇后だった3女と4女も廃立されるが、王の毒殺を阻んだ功労を認められ死ぬまで厚遇を受ける。

妙清の乱

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この項目「高麗」は加筆依頼に出されており、内容をより充実させるために次の点に関する加筆が求められています。
加筆の要点 - 妙清の乱について加筆依頼します。
(貼付後はWikipedia:加筆依頼のページに依頼内容を記述してください。記述が無いとタグは除去されます)
(2015年11月)

李資謙の乱以後、宮殿が消失されるなど、大混乱があった。妙清は僧で、陰陽地理を研究し、仁宗に取り入り、仁宗に開京は首都として運気が尽き、衰えると言い、西京(現在の平壌)への首都移転を主張し、開京派との勢力争いを招いた。西京は第二の首都として歴代の国王がお出ましにした戦略上の要地だった。しかし数年間の議論百出の結果、仁宗は首都の移転を不許した。妙清は「金国征伐」と「風水思想」の主張を通し、1135年に「大為」という国号を名乗って乱を起こした。また独自の年号の「天開」を使い、西京を首都とする国を建てるが、1136年2月、1年間の戦闘の結果、高麗政府の司令官の金富軾が率いる軍隊によって鎮圧された。

武臣政権とモンゴルの侵攻

詳細は「武臣政権」を参照

李資謙の乱と妙清の乱で混乱が続き、毅宗の時代に入ると、宦官による政治や、武臣を蔑ろにする風潮が蔓延になり、武人たちの不満が高まっていた。1170年に武臣である鄭仲夫が政変を起こして国王と太子を廃位し、明宗を擁立すると、武臣政権時代が始まる。初代執権者の李義方は太子妃を廃して、自分の娘を嫁がせるが、1174年に殺害されると、娘も廃立される。李義方の娘は40年後、太子が即位すると皇后となる。李義方を除いて執権した鄭仲夫は1179年に暗殺される。その後、慶大升李義旼が政権を握り、最終的に執権した崔忠献1196年に政権を掌握、明宗を廃位させ、神宗を擁立した。崔氏による武人政権は4代続く安定政権を建てた。1219年に崔忠献が死去すると、息子の崔瑀が1249年まで30年間執権する。崔瑀の時代に首都を開京から江華へ遷都する。崔瑀に続き、息子の崔沆が1257年まで執権、崔沆に続き息子の崔竩が執権するが、わずか1年後の1258年に崔沆は暗殺され、1196年から60年間続いていた崔氏政権が終わり、金俊・林衍・林惟茂による武人政権が成り立つが1270年に武人政権の第11代で、最後の執権者の林惟茂が殺害されると、100年間続いていた武臣政権は終末を迎える。

高麗武臣政権 歴代一覧表
代 権力者 執政開始 終了年 執政期間 国王 統治機関 備考
1 | 李義方 | 1170年 | 1174年 | 4年 | 明宗 | 重房 | 康宗の王妃・思平王后の父

鄭仲夫により殺害


2 | 鄭仲夫 | 1174年 | 1179年 | 5年 | 慶大升により殺害
3 | 慶大升 | 1179年 | 1183年 | 4年 | 病死
4 | 李義旼 | 1183年 | 1196年 | 13年 | 崔忠献らにより殺害
5 | 崔忠献 | 1196年 | 1219年 | 23年 | 明宗
神宗
熙宗

康宗

高宗

 | 教定都監 | 崔氏による政権世襲の開始(1258年まで)

明宗と熙宗の廃位


6 | 崔瑀 | 1219年 | 1249年 | 30年 | 高宗 | 教定都監

・政房

 | 元宗の王妃・順敬太后の外祖父

モンゴルの侵攻が始まり、江華島へ移徙


7 | 崔沆 | 1249年 | 1257年 | 8年 | 病死
8 | 崔竩 | 1257年 | 1258年 | 1年 | 柳璥・金俊らにより殺害
9 | 金俊 | 1258年 | 1268年 | 10年 | 元宗 | 林衍により殺害
10 | 林衍 | 1268年 | 1270年 | 2年 | 病死
11 | 林惟茂 | 1270年 | 1270年 | 1年 | 林衍の子で、武臣政権最後の執権者

洪文系・宋松礼らにより殺害

武臣政権の終末


詳細は「モンゴルの高麗侵攻」を参照

崔氏武臣政権下、北方ではチンギス・ハン率いるモンゴル帝国(蒙古)が台頭し、金を圧迫していた。やがて1224年に金の年号を止め、金から独立した。高宗5年(1218年)にモンゴルに離叛した契丹の一派が高麗領内に侵入した時、チンギスはこれを追討し高麗側も兵力を出してこの討伐行を助勢した。これにより高麗はモンゴル側と接触してその朝貢国となったが、1224年に派遣されたモンゴル使臣が高麗領内で殺害される事件が起こり、国交は断絶した。1231年から、先年の使者の殺害を詰問し降伏・臣従を促す国書がモンゴル側から来牒し、モンゴル軍の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて1232年に都を開京から江華島に移して、3年間も徹底抗戦を行ったため、国土と国民はモンゴル軍に蹂躙され、荒廃した。1239年にモンゴルは高麗に入朝を命じたが、高麗側はこれに応じなかった。1247年に再びモンゴル軍が侵入した。この年からモンゴルは継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、1258年に北部の和州以北を占領され双城総管府が置かれた。結局、翌1259年に崔氏政権は打倒され、高麗はモンゴル帝国に降伏、太子(王子)を人質としてモンゴル宮廷に差し出し、高麗王族がモンゴルの大カアンの侍衛組織であるケシクの要員に加わるようになった。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わった。

モンゴルによる高麗の支配体制

モンゴル帝国が高麗と高麗人を支配する行中書省として、遼陽行中書省(遼陽行省)、征東等処行中書省(征東行省)の二つが設置された。

モンゴル帝国は高麗が30年間抵抗する間、6度にわたり朝鮮半島全土を蹂躙し、60万人の高麗人を拉致して遼河デルタに移住させた。

この遼河デルタ、アムール河流域、朝鮮半島北部などを管轄し、女直(女真)・高麗人入植者・漢人などを支配する遼陽行中書省遼陽におかれ、高麗王族が着任する瀋陽王(のち王号が格上げされて一字王号瀋王)がその長官となった。

大同江河口付近から元山付近を結ぶ線の南方が高麗本土とされ、この領域を管轄する征東等処行中書省瀋陽におかれ、高麗王はその長官を兼ねることとなった。

高麗王世子(王位継承権第1位)は、モンゴル帝国(元朝)の「ケシク」に出仕し、モンゴルの皇女をに迎え、代替わりの際に帰国して王位を継承した。

高麗王と瀋陽王(瀋王)を同じ人物が継承した場合(肩書きとして瀋陽王(瀋王)を称したまま帰国して高麗王を継承した場合)は、「同君連合として、瀋陽を中心とする遼陽行省と高麗はひとつの政治形態」なので問題は起こらないが、瀋王と高麗王が別の人間になると、元朝の権力争いにリンクする形で、瀋王派と高麗王派にわかれ、権力闘争を引き起こすこともあった。


歴代の瀋陽王/瀋王
【在位】
【称号】
【名(漢字表記)】
【妃】
備考
瀋王/忠宣王 | イジルブハ(益智礼普化) | 懿妃イェスジン(也速真)
薊国公主ブッダシュリーン(宝塔実憐) | 第26代高麗王
瀋王 | オルジェイトゥ(完沢禿) |  | 父ジャミヤングンチュク(江陽公滋)、祖父第25代忠烈王
江陵大君 | デシュク(徳寿) |  | オルジェイトゥの子
瀋王 | トクトアブハ(篤朶不花) |  | デシュクの子

モンゴルの統治・元寇への参加・高麗王のモンゴル貴族化

モンゴルはこれまでの契丹や女真と異なり、直接的な内政干渉をした。国内には多くのモンゴル軍人が駐留し、反発感情が生まれた。1270年には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、東寧府を置かれた。同年、崔氏を倒した林氏政権が滅んで武臣政権は終焉するが、モンゴル支配に反抗する人々が三別抄の反乱を起こした。反乱者は属国だった耽羅島(済州島)の政権を滅ぼして徹底抗戦し、また、鎌倉幕府に救援を求め、共同してモンゴルを撃退するよう要請したが、文永の役直前の1273年に、日本派遣軍の司令官となる忻都洪茶丘などが率いる派遣軍に鎮圧された。乱の鎮圧と共に、クビライ日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し、1274年1281年に二度の日本侵攻(元寇)を行った。このため前線基地となった高麗は兵站の補給と軍艦の建造を命令され、それによる負担を多大なものだった。一方、『高麗史』には忠烈王がモンゴルに日本侵攻を働きかけたとの記述がある。忠烈王が自身の政治基盤強化のため、モンゴル軍を半島に留めさせ、その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる。

忠烈王(在位1274年 - 1308年)はクビライに公主の降嫁を懇願して許され、クビライの娘忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)と結婚してハーンの娘婿(駙馬、グレゲン)となった。また、13世紀後半から14世紀半ばにかけて、に支配された高麗の歴代国王(第24代元宗~第31代恭愍王)は、支配された初期の元宗と、夫逝した忠穆王忠定王をのぞき、モンゴル帝室の公主を娶った。初期には高麗王室も一定の影響力を保っていたが、次第に征東行省(第一次と第二次征東行省では高麗王は次官だったが、第三次では排除された)は高麗朝廷の人事にも関与する様になり、高麗領は元の支配下へ組み込まれた。

高麗は、400年間にわたり「日和見主義」「つねに長いものにまかれる式でやってきた」が、事実上モンゴル帝国の国内の一封建領主となる。これについて小島毅は、「元王朝の時代、韓国の高麗王朝はモンゴル帝国の属国」と評している。

1297年11月、モンゴルは忠烈王を逸寿王に封じ世子の謜を高麗王に就けたが、忠宣王はモンゴルの官制を高麗風の官制へ改めたため征東行省の役人から不満を買って、1299年には廃位され平章政事の職も解かれた。忠烈王が高麗王に復位し、平章政事には闊里吉思が就き高麗行省の政務を執った。また、モンゴルは王族のひとりを瀋陽王に封じて別の宮廷を建てさせた。その中で忠烈王とモンゴル皇帝の公主との間に生まれた忠宣王(1308年 - 1318年)以降の高麗世子は禿魯花(ダルガチ:daruγa-či、turqaq)としてモンゴルの宮廷で育てられ、モンゴル女性の婿となって、高麗王就任以前はモンゴル大カアンの宮廷に長らく滞在して大カアンの側近に仕えるなど、モンゴルの宮廷で生活しほとんどモンゴル貴族となり、父の死後、高麗王に任命されるのが慣例となる。

また、胡服辮髪の令(1278年)を出したほか、一切の律令制定と発布はモンゴルの権限とされた。以降の王はモンゴルの宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿剌訥失里」(アラトトシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)と、モンゴル風の名も持っていた。このような中で高麗貴族の間ではモンゴル文化が流行した。

忠烈王以降の何人かの高麗王は、モンゴル宮廷において最高ランクの金印獣紐を授けられる諸王・駙馬のひとつ「駙馬高麗国王」の地位を得た。また、多くの高麗王族が大カアンの侍衛組織であるケシクに加えられることが通例となり、ケシクとして大カアンに側近くに仕えた世子が次期高麗王となる慣例が出来た。大カアンに近侍することで宮廷儀礼に慣れ親しむ契機を得、モンゴル宮廷内での高麗王家の地位は向上した。同時にテムル以降のモンゴル宮廷の内紛の影響を直接受けるようになり、忠宣王のようにケシクとしてのモンゴル宮廷出仕を繰り返し、シデバラ(英宗)の治世にチベットへ配流される例もあった。

滅亡への道

高麗は「元が興るとまもなくその侵入をうけて属国」となることにより、その嚮導をつとめたことで大損害をうけ、国力を疲弊させていく。高麗は、モンゴル帝国に対して反抗したが、戦争に負けてからは服属し、「忠実な部下」として友好を保った。しかし「親分」であったモンゴルが撤退したため、高麗の内部は動揺する。14世紀に大陸で紅巾の乱が起こり元が衰え始める時期には征東行省による支配も形骸化した。

恭愍王(1351年 - 1374年)は、元の弱体化に乗じて遼陽行省(かつての高句麗渤海の領域をほぼ丸ごと包含)の併合を目論み、双城総管府に出仕していた女真人軍閥(女真族ともいわれる李成桂を含む)を調略すると1356年に元と断交し、双城総管府を接収、元の年号を止めて独立、さらに鴨緑江を西方へ越えて、遼陽を制圧した。

また、1350年頃から活発化した倭寇(前期倭寇)に高麗は苦しむことになる。1356年から1362年までの紅巾賊侵入に至っては都・開京が陥落したが、崔瑩鄭世雲李芳實李成桂らが率いる高麗軍は10万人にも及ぶ紅巾軍を撃退し開京の奪回に成功する。1359年には、李承慶・李芳實が西京(平壌)で、1361年には李成桂・鄭世雲が黄州で、紅巾軍に大勝した。

倭寇についても、崔瑩・李成桂・羅世鄭地朴葳らの有力武将は、次第に倭寇に打撃を与えて行き、1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣・羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で大勝利を収め、1389年の朴葳による対馬攻撃以降、倭寇の侵入は激減する(詳細は倭寇を参照)。1368年に中国でが成立し、同年中に元の都大都を陥落させると、高麗は1370年に明へ朝貢してその冊封を受けた。しかしこのとき明は「遼東どころかせっかく高麗が元から取り戻した双城総管府の割譲まで要求したため、さすがに高麗側も激怒して、禑王は再び元と結んで明と対抗しようと考えるようになり、国内では親明派と親元派の抗争が起こった。

この間に遼陽行省の制圧戦や紅巾賊、倭寇などとの一連の戦いで功績をあげ、台頭していた武人李成桂は、1388年に当時北元が明軍の攻勢を受けて危機に陥っていた隙を狙って遼東を占拠するため満州に向けて派遣されたが、鴨緑江の威化島で軍を引き返させてクーデターを起こし(→威化島回軍)て政権を掌握。1389年恭譲王を擁立すると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、1392年に恭譲王を廃して自ら国王に即位し、朝鮮王朝(李氏朝鮮)を興す。ここに高麗は建国474年で滅びた。

1394年、旧高麗勢力の叛乱を懸念した李成桂は、恭譲王はじめ主だった高麗王族を殺害した上で、宗室や末裔など王姓を名乗る者の身の安全を保証して一ヶ所に集め、移住先へ移動させるとして船に乗せ、それを沈めて全員を溺死させた。生き残った者は、王の姓を玉、全、田などに改めて逃げのびたという伝承がある。李氏朝鮮の体制が盤石になった後も王姓弾圧の方針は形骸化しながらも続き、17世紀になって中国系の済南王氏が帰化するまで解かれなかったとされる。

社会・経済・国際関係

高麗青磁(香炉)

帰化人

高麗時代前時期にかけて異民族が帰化し、23万8000人に達するという説もある。あるいは、が滅亡して契丹人が各地に散る時に、高麗に入って来て暮らした契丹人は100万に達するという記録もある。帰化した異民族のうち、漢族は国際情勢に明るく、文芸に長けていて多くは官僚となった。渤海人契丹との戦争に参加して大きい功績を立てた。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国江南地方出身の帰化人である。女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい。

政権

王朝成立の初期には、まだ地方豪族に対する統制も十分ではなく、王権も確立されるに至らなかったので、政治情勢は不安定であった。しかし、やがて第6代成宗の即位(981)とともに、王権の強化と支配体制の整備が本格的に開始された。おりから東アジアの国際情勢の変化により、11世紀初めにかけて三度契丹の侵略を被り属国となったが、それをも政治的、文化的発展、強化の機会や契機として積極的に取り込みつつ、その努力は続けられた。その過程で地方豪族の勢力は、一方では中央の官僚として、また一方では在地の地方行政実務担当者の郷吏として、高麗の支配体制内に吸収されていった。こうして、第11代文宗のとき(11世紀末)までの約1世紀間に、宋(および宋を介しての唐)の制度に倣いながら、各種の制度が整備され、国王を頂点とする中央集権的官僚制国家として確立された。 高麗の支配体制の中枢を占めたのは文武の官僚で、両班と総称されたが、国家の発展・安定とともに、文臣が重んじられるようになり、また門閥の形成とともに、高位高官を占める家柄がしだいに固定化していった。彼らは有力門閥との通婚、とくに王室の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/08/13 11:53

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