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魁皇博之とは?

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【基礎情報】

【四股名】
魁皇 博之
【本名】
古賀 博之
【愛称】
キンタ、ゴリライモ
【生年月日】
(1972-07-24) 1972年7月24日(45歳)
【出身】
福岡県直方市
【身長】
185cm
【体重】
175kg
【BMI】
51.13
【所属部屋】
友綱部屋
【得意技】
左四つ、寄り、叩き、上手投げ、小手投げ
【成績】

【現在の番付】
引退
【最高位】
大関
【生涯戦歴】
1047勝700敗158休(140場所)
【幕内戦歴】
879勝581敗141休(107場所)
【優勝】
幕内最高優勝5回
幕下優勝1回
三段目優勝1回
【賞】
殊勲賞10回
敢闘賞5回
【データ】

【初土俵】
1988年3月場所
【入幕】
1993年5月場所
【引退】
2011年7月場所
【引退後】
浅香山親方
【趣味】
ラジコン
【備考】

金星6個(2個、貴乃花3個、若乃花1個)
2011年7月20日現在
テンプレート プロジェクト 相撲

魁皇 博之(かいおう ひろゆき、1972年(昭和47年)7月24日 - )は、福岡県直方市出身で友綱部屋所属の元大相撲力士。本名は古賀博之(こが ひろゆき)、愛称はキンタ、ゴリライモ身長185cm、体重175kg、血液型A型。得意手は左四つ、寄り、上手投げ、小手投げ。最高位は東大関。現在は年寄浅香山を名乗り、浅香山部屋師匠である。好物はステーキ

目次

  • 1 来歴
    • 1.1 相撲界入門
    • 1.2 入幕後・幕内初優勝達成
    • 1.3 大関時代
    • 1.4 幕内(808勝)・通算(1,046勝)各最多勝利更新
    • 1.5 現役引退
    • 1.6 年寄:浅香山として
  • 2 取り口
  • 3 逸話
  • 4 略歴
  • 5 主な成績
    • 5.1 通算成績
    • 5.2 各段優勝
    • 5.3 三賞・金星
    • 5.4 場所別成績
    • 5.5 主な力士との幕内対戦成績
  • 6 改名歴
  • 7 年寄名変遷
  • 8 著書
  • 9 脚注
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

来歴

相撲界入門

小学生のとき町内で行なわれた相撲大会に父親から出るように言われて出場したことで相撲へのかかわりを持つようになり、市立直方第二中学校時代に柔道をしていたところその巨体から、顧問の教師に相撲を勧められる。その魁皇のためにわざわざ「柔道・相撲部」を作った(それまでは柔道部のみだった)。またその顧問の教師と相撲を取ったところ、教師は片手で体を持ち上げられ非常に驚かされたという。またその相撲部時代にはほかの生徒たちが飲んだスチール缶の空き缶を片手で潰して片づけていた。中学生になっても町内の相撲大会には出場していたが、実力的にはまだまだ取り立てて強かったわけでもなく相撲を取るのが楽しかったという思い出もなかった。入門前の魁皇は自転車を好んでいたため競輪選手になりたいと考えていた。入幕前、寒い冬場で蛇口が凍って硬くて廻らないのを無理に回そうとした所、怪力のあまり壊してしまったことがある。入門前は、元大関北天佑の大ファンだったと言われている。北天佑も魁皇も、共に、上手からの強烈な投げ技が持ち味の「怪力大関」と言われた。

中学時代のあるときに友綱部屋の後援者が相撲大会を観戦しており、その時勧誘された ことで中学校卒業後に友綱部屋に入門し、1988年(昭和63年)3月場所で初土俵を踏んだ。同期には大海(後に64代横綱・曙、現プロレスラー)、貴花田(後に65代横綱・貴乃花、現貴乃花親方)、若花田(後に66代横綱・3代若乃花、現タレント)、和歌乃山(後に小結)、力櫻(後に幕内、プロレスラー)など有望な新弟子がおり、「花の六三組」とも称された。貴乃花・和歌乃山・力櫻とは同い年・同学年であった。

初めて番付に載った同年5月場所では負け越すなど滑り出しは良くなく、相撲嫌い と慣れない上京生活に苦しみ入門半年後に脱走を試みたが脱走先が後援者の家であったためすぐに連れ戻されてしまい、本人も脱走という行為に後悔を感じて部屋に戻る決心をした。 その後、花田兄弟や曙のような超特急の昇進とはいかないもののスピード出世を果たし、初土俵から4年足らずの1991年(平成3年)九州場所で5勝2敗と大勝ちした。この場所では当初から十両昇進を期待されており、勝ち越しを決めた日には幕下上位の結果紹介において『幕下19歳古賀勝ち越しました!』とアナウンスされ祝福された。1992年(平成4年)初場所で十両昇進、親方の「頂点を極めてほしい」との希望から四股名を「魁皇」と改名。1993年(平成5年)5月場所、20歳の若年での新入幕を果たし、若手の有望株として注目を集めるようになる。

入幕後・幕内初優勝達成

新入幕場所こそ4勝11敗と大きく負け越してしまい十両陥落となるものの、同年11月場所に再入幕し10勝を挙げるとその後は日の出の勢いで番付を上げ、1994年(平成6年)3月場所には対横綱戦初挑戦で曙を下し初金星を獲得、他若ノ花、武蔵丸の2大関を下すなどで初の三賞受賞(殊勲賞)、翌5月場所には早くも新小結となる。1995年(平成7年)1月場所の新関脇場所からは、実に13場所も連続して関脇に在位(豪栄道に次ぐ歴代2位)し、その後も度々三役に上がり、有力な大関候補として期待を寄せられた。しかし1997年(平成9年)5月場所11日目、貴ノ浪戦で左太股を大怪我してしまい、そのケガの回復が遅れて3場所連続休場するなど、足踏みする時期が長く続いた。それでも大関昇進までに2度の優勝同点、4度の優勝次点、史上3位の15回の三賞受賞などを記録し、強豪力士の一人として曙・貴乃花全盛の1990年代の土俵に在った。

小結で迎えた2000年(平成12年)5月場所、14勝1敗でついに自身念願の幕内初優勝を果たす。福岡県出身力士としての優勝は1932年(昭和7年)3月場所の小結沖ツ海(9勝1敗)以来2人目で、68年ぶりの快挙であった。次の翌7月場所通算7回目の大関獲りながら10日目で6勝4敗、またしても失敗に終わるかと思われたが、終盤戦は千秋楽まで5連勝し11勝4敗、三役3場所合計33勝の成績を挙げ、同7月場所後にようやく大関昇進となった。なお魁皇の関脇在位は21場所で、当時長谷川2代目琴錦(二人共元関脇)と並ぶ史上1位タイの記録であったが、のちに大関となった力士は魁皇のみ。また三役(関脇・小結)在位は32場所で、2代琴錦の34場所に次ぐ史上2位の記録である。

大関時代

大関獲りでは千代大海出島武双山雅山らに遅れをとったが、大関昇進後は豪快な相撲で地力の高さを見せ付け、大関としては合計4度の優勝を経験、横綱候補の1番手だった時期もあった。しかし、怪我の多さや精神的な脆さ(若貴兄弟や曙に注目が集まったおかげでプレッシャーに押しつぶされずに稽古に集中できたと本人が語っている) もあり、途中休場して綱取りのチャンスを無下にしてしまうことも多かった。2001年1月場所は5大関が2日目までに8敗、4日目までに10敗を喫する不甲斐ない有様で、唯一下位に対するの壁になっていた魁皇も4日目の栃乃洋戦で右上手を取りながら寄り切りに敗れた際には「前に出ればよかったけど、失敗した雰囲気が悪いね。大関陣がのろわれてる? 分からない」と話していた。

32歳となる2004年には円熟期を迎え、全場所で二桁勝利を記録。9月場所には13勝2敗で5回目の優勝を遂げた。4度目の綱取りとなる翌11月場所では、2003年3月場所から続く日本人横綱不在に終止符を打って欲しいという期待が集まった。しかし12日目に3敗を喫し優勝争いから脱落。それでも「千秋楽で横綱朝青龍を破っての優勝次点なら昇進の可能性がある」との発言が当時の押尾川(元大関大麒麟)審判部長からあり、千秋楽の結びの一番への期待が高まった。千秋楽では朝青龍を万全の相撲で下し12勝3敗、横綱昇進決定かと思われたが、結局昇進は見送られた。翌2005年1月場所までも綱取り場所とされたが、怪我で途中休場して失敗に終わった。

2005年1月場所から2006年3月場所までは、途中休場により翌場所大関角番・角番脱出の繰り返しが続き、大関の地位を辛うじて維持するという状況だった。特に9回目の大関角番となった2006年3月場所は、序盤から本来の相撲が取れず負けが先行すると引退を示唆、師匠の友綱親方(元関脇魁輝)と相談の上、もし負け越して大関陥落が決まれば引退する決意も固めていた。12日目朝青龍に敗れ5勝7敗と絶体絶命だったが、魁皇はそこから踏ん張って出島・琴光喜に連勝し14日目で7勝7敗に。そして千秋楽では朝青龍と優勝を争った白鵬(当時関脇)を寄り切って8勝7敗、辛うじて勝ち越しを決め角番を脱した。2006年5月場所以降は、千秋楽まで皆勤出場場所が増えたものの、成績は10勝すらままならず勝ち越しても8・9勝と1桁勝ち星がやっとの状態が多く、何度も引退の危機を迎えていた。

2007年9月場所4日目の小結安馬(現・日馬富士)戦で、幕内通算706勝を達成した。この記録は武蔵丸の706勝に並ぶもので、大関以下の力士としては1番、現役の力士としてももちろんダントツの記録。しかし、その2日後、右太腿の負傷を悪化させまたしても途中休場となった。翌11月場所は、2006年同様に再起をかける場所となったが、14日目で勝ち越して11度目の角番を脱出、引退の危機から免れた。勝ち越しが決まった瞬間には、観客はその日の結びの一番よりも大きな声援を魁皇に送った。

2008年8月のモンゴル巡業では、当時の両横綱朝青龍、白鵬などモンゴル出身力士以上の大人気ぶりだった。2008年11月場所前、大関琴欧洲との稽古で右足を痛め、休場が濃厚だったが強行出場した。しかし、3日目に前頭2枚目若の里との取組み中に左腕まで痛めてしまい途中休場した。

靖国神社奉納大相撲での大関魁皇関(2009年4月10日撮影)

2009年頃からは満足な稽古もままならない状態からぶっつけ本番での本場所の連続となり、千代大海と共に角番を繰り返す状況を見かねた横審が「累積5回の角番で降格や引退勧告」なる具体案まで出すほどの風当たりの厳しさとなってきた。 1月場所は千代大海と並んで1位タイとなる、12度目の大関角番となった。進退を賭けて場所入りし、12日目に前頭3枚目豪風を破って角番脱出、同時に引退危機も乗り越えた。その後3連敗したため場所を8勝7敗で終えた。その場所直後に虫垂炎で緊急入院、手術はせず薬で治療したが協会の公式行事は休場した。2009年11月場所で幕内在位が98場所となり、元関脇高見山の97場所を超える大相撲史上第1位の記録を達成した。同場所3日目に関脇把瑠都を破って史上3人目の通算800勝を果たし、九重親方(58代横綱・千代の富士)は「私の幕内807勝(史上1位)を超えて欲しい」とエールを送った。さらに同場所10日目、大関琴欧洲を押し倒しての勝利で幕内805勝を達成、55代横綱北の湖)の804勝を超えて幕内勝利数が単独第2位の記録となった。この年は2005年以降では最多となる年間48勝を記録した(2005年が39勝、2006年が40勝、2007年が44勝、2008年が43勝)。なお、この年は全6場所の成績がすべて8勝7敗という珍記録(ハチナナグランドスラム)を成し遂げ、「ハチナナ大関」を流行語とした。

幕内(808勝)・通算(1,046勝)各最多勝利更新

2010年1月場所2日目に前頭2枚目豪栄道に勝ち、19年ぶりに横綱・千代の富士の持つ幕内通算白星807勝に並んだが、この一番は魁皇得意の左四つ右上手だった。そして3日目には、奇しくも九重親方の愛弟子でかつ長年共に大関として支えあった千代大海(当時・関脇)に対し、豪快な送り投げで勝利、ついに幕内通算808勝を達成して史上単独1位になった。10日目には引き落としで日馬富士戦の連敗を8で止め、さらに13日目には2006年3月場所以来23場所ぶりに横綱白鵬を破り、白鵬戦での連敗を17で止めた。白鵬はこの敗北の翌日から63連勝を記録している。14日目には前頭3枚目稀勢の里上手投げで破って勝ち越し。そして千秋楽でも同4枚目垣添送り倒しで勝利、8場所ぶりの9勝6敗で終えた。
2010年3月場所で幕内通算在位が丁度100場所を迎え、この場所も8勝7敗と勝ち越した。3月30日、幕内在位100場所達成及び幕内通算勝利数を更新した功績を称え、日本政府内閣総理大臣顕彰を魁皇に授与することを決定し、4月26日総理大臣官邸で顕彰式が執り行われた。

2010年5月場所で十両以上の関取在位場所数が、史上単独1位である111場所となった。さらに千秋楽にて大関琴欧洲を破り、大相撲史上二人目となる通算1,000勝を達成した。2010年7月、場所前に大関琴光喜が解雇されたため大関以上の地位での日本人力士は魁皇のみとなった。同時に、幕内最高優勝の経験を持つ唯一の現役日本人力士ともなった。11日目から怪我のため途中休場、休場中の7月場所14日目(7月24日)に38歳の誕生日を迎えた。翌9月場所に13回目の大関角番を迎えたが14日目に勝ち越して角番を脱出。

2010年11月場所は初日に前頭2枚目安美錦に敗れるも、2日目から12日目まで11連勝の快進撃を続け優勝争いを演じた。13日目に1敗の白鵬、14日目に同じく1敗の同9枚目豊ノ島に敗れ優勝争いから脱落したが、千秋楽に大関把瑠都を破って2004年11月場所以来36場所ぶりの12勝3敗の好成績を挙げ、九州場所を盛り上げる一因となった。

2011年1月場所12日目に把瑠都を破って、大相撲史上初となる通算100場所勝ち越しを達成した。2011年5月技量審査場所12日目には、大相撲史上単独1位となる幕内出場回数・1,431回目を達成した。千秋楽では白鵬に右上手を掴んでの寄り切りで勝ち、通算勝ち星を1,044勝とした。

翌7月場所は、千代大海と並ぶ史上1位タイの大関在位数65場所目を迎えた。同場所では初日から3連敗し苦戦を強いられたものの、4日目で千代の富士の持つ通算1,045勝に並び、5日目に2勝目をあげて、通算勝星史上単独1位となる通算1,046勝の記録更新となった。その後は7日目に3勝目を挙げたが、この日の通算1,047勝目が現役最後の勝利となった。

現役引退

結果的に現役最後の相撲となった、2011年7月場所10日目の琴欧洲戦では、良い所無く押し出されて3勝7敗に。負け越しがほぼ確定的となった時点で、10日目の取組後記者懇談で「気力が出なくなった」と漏らし、宿舎に戻り師匠と話し合った末現役を引退することを決めた。師匠は場所の早い段階で、魁皇本人から引退の話が出るものと覚悟を決めていたという。翌11日目の引退会見での魁皇は「もう悔いも後悔も一切ありません」と安堵の笑みを浮かべながらインタビューに応えていた。

初土俵以来23年以上の長きに渡る現役生活、また2000年9月に大関に昇進して以来、10年以上に渡り関脇に一度も陥落することなく大関の座を守り続けた。また2007年9月場所の番付で、35歳の大関となり戦後最高齢記録を更新、2010年3月場所には昭和以降の最高齢大関在位記録をも更新した(2011年7月場所引退時で38歳11か月、従来は1932年10月場所、能代潟の37歳6か月)。2011年版ギネス・ワールド・レコーズに「幕内通算846勝」「幕内在位103場所」として掲載された。

福岡県知事小川洋は2011年8月20日に、魁皇の長年の功績を讃えて「福岡県民栄誉賞」を故郷の直方市で贈った。また直方市も魁皇に「特別市民文化栄誉賞」を贈った。

断髪式引退相撲2012年5月27日両国国技館で行われ、同期の貴乃花や曙ら、約340人がはさみを入れた。「正直に言えば、いろんなところでこみあげてくるものがあった。親の時は、がまんできなかった」と述べた。止め鋏の前には、史上単独1位となる通算1046勝目を挙げた取組の実況が再現され、約1万人の観衆でぎっしりと埋まった館内が“魁皇コール”に包まれると魁皇は「鳥肌が立った。最高の一日だった」と涙を流した。

年寄:浅香山として

引退相撲後の2013年3月からスポーツニッポン紙上で「我が道」を連載。また2013年2月の日本相撲協会役員改選に伴う人事異動では地元である九州場所担当年寄に指名された。

2013年10月には『2014年中に友綱部屋から独立して、東京都墨田区内に浅香山部屋を創設する』意向であることを明かした。

2014年1月30日の日本相撲協会理事会で2月1日付で友綱部屋より独立して浅香山部屋を設立することが認められ、部屋持ち師匠として新たなスタートを切った。

2014年4月に発表された新たな職務分掌では委員に昇進し、審判部に配属された。

2016年1月場所6日目、40度の熱が出たことにより2~3日休場する見通しと発表された。6日目は同じ伊勢ケ浜一門の高島審判委員(元関脇高望山)が代役を務めた。

取り口

握力・腕力が非常に強く、中学時代の体力測定で握力100キロを超え(握力計を振り切ったこともあった)、更に入幕した頃には既にリンゴを握りつぶせたほどであった。 左四つ右上手が絶対の形。 特に右上手を取った時の強さは他に例を見ない程で、相手が横綱であってもまず負ける事は無く、曙、貴乃花、若乃花、武蔵丸、朝青龍、白鵬いずれの横綱に対してもほとんど何もさせずに勝つ程であった。 腰をぶつけながら寄る型もあるが、最も得意としたのは右からの豪快な上手投げ小手投げ。 上手投げは魁皇の代名詞と言えるもので、体重230㎏を越える曙や武蔵丸ですら振り回し、それより軽い貴乃花や朝青龍に至っては土俵外へ吹き飛んでいく威力がある。小手投げに関しては、手繰りを活かして相手の肘を極めながら両手で抱え、力任せに横へ向かって打つのがやり方で、浪之花栃乃洋琴龍栃東玉乃島、豪栄道、豊ノ島ら多くの力士がこれを受け、それぞれ左の肩、肘を負傷した。中でも浪之花は引退の直接的な原因となるほど深い負傷であり、玉乃島は怪我をして以降左腕が泣き所となってしまい、長期に渡り苦しんだ。 数々の力士の腕を怪我させたことから、四股名をもじって「破壊王(魁皇)」と呼ばれ、重戦車と比喩されることも多かった。

ただ力任せというわけではなく、相撲の基本的技能にも優れていた。突っ張りを手繰ることが上手く、比較的押し相撲には強いといえる。左四つの型の陰に隠れて目立たないが突き押しの威力もあった。一方で右四つを極端に苦手とし、この形になるとなにもできないことが多かったため、立合いでは左脇を徹底して固め、右四つを避けるようにしていた。

若手時代には横から食らいついて攻める厳しい戦法も多用していた。大関になってからは得意の右上手の引き付けがとれなくても、右からおっつけて寄る形に進境を見せていた。

強引な投げで鮮やかな勝ちを収める相撲スタイルの代償として、大関昇進後は腰痛など怪我に悩まされることが多くなった。場所ごとの好不調の波が激しく、好調な時は横綱をも負かしてしまうが、不調な時は平幕にあっけなく負けることもあった。また、若いころには精神的に脆い面があり連敗癖があって、上位に定着しながら大関になかなか上がれなかった理由の一つでもある。「気が優しくて力持ち」と言われる反面、「怪力だが気が弱い」「蚤の心臓」 と揶揄されることもあった。雑誌でのインタビューによれば、「過去に怪我をさせてしまった相手に対しては罪悪感があり、その時と同じような形になった場合には相手に怪我をさせる事を恐れて強引には攻められない事もある」と言う。

現役最晩年では怪我や加齢による衰えも顕著となり、立合いの鋭さ・重さに欠け、握力も70キロ台にまで落ちていた。左四つに組むことが難しくなり、組んでも左四つ得意の若手(稀勢の里琴奨菊など)や、もろ差しがうまい豊ノ島には分が悪くなっていた。太ももの故障を抱えてからは、左右の動きが激しい相手に対処できずあっけなく土俵を割ることが増え、また上手投げが難しくなり叩きが増える相撲も多かった。

30代も半ばを過ぎた2007年7月場所から2010年9月場所まで20場所連続で二桁勝利を上げられず、休場と角番が増えた。この頃には、両差しから体格を利して一気に寄るという相撲も見せてはいるが、一方で立合いの駆け引きや変化・引き技に頼り、長年の経験と勝負勘の貯金で取っている相撲も増え、「勝っても首を捻る」光景がしばしば見られた。それでも守勢に回った際、手繰りや小手投げでしのぎつつ、時折左四つや突き押しを放ち豪快な相撲も見せていた。右上手を掴んだ際に沸き起こる観客の声援は非常に大きく、魁皇の相撲の型が広く知られていることを示していた。

三賞受賞回数の多い力士は、殊勲賞、敢闘賞、技能賞の全てを満遍なく受賞していることが多い。魁皇の三賞受賞回数は15回(歴代3位)だが、技能賞は1度も受賞しなかった。

横綱朝青龍には12勝25敗と相性がやや悪かったが、朝青龍戦の12勝は白鵬(13勝)に次ぐ勝星である。そのうち2回は2連勝していた。横綱白鵬には全盛期を過ぎたせいもあって全く歯が立たず、対戦成績は6勝27敗と大きく負け越していた。特に白鵬が大関に昇進してからは連敗が続き、大関時代の取組では1勝も出来なかった。白鵬の横綱昇進後も長らく勝てないまま17連敗していたが、ようやく2010年1月場所に白星を挙げた。2011年5月技量審査場所の千秋楽、7場所ぶりに白鵬を寄り切って勝利し、これが横綱白鵬との現役最後の対戦となった。

土俵上で制限時間一杯になると、最後の塩を撒いて締め込みを3回叩いた後、柏手を打って、もう1回叩いて仕切っていた。

逸話

四股名に入っている「皇」の文字は出身の直方市がかつて「皇方」と表記されていたことに由来し、これをとって師匠の友綱がつけた。

大関昇進前の1999年結婚、子供はいない。5歳年上の妻・充子は元タレントであるが、それ以前は女子プロレスラーであった。そのためか、女子プロレス関係者の中にもファンを有した。また、妻との出会いは合同コンパであった。現役当時の力士の中では、高見盛(最高位・小結)を凌ぐほどの、一番人気の高い力士の一人であった。福岡県出身だけに、福岡市で開催される九州場所での館内での声援は絶大で、11月場所(九州場所)での声援は他の力士を圧倒していた。

その人気はとどまることを知らず、2001年10月に九州旅客鉄道(JR九州)筑豊本線篠栗線(福北ゆたか線)博多駅 - 直方駅間で運行を開始した特急列車の名称「かいおう」にも採用された。力士の四股名に限らず、人名、しかも存命中の人物の名前がJRグループの列車名に採用されることは極めて異例。その特急「かいおう」の出発式には魁皇本人も出席し、テープカットも行った。「かいおう」の運行決定は、魁皇が3度目の優勝をした2001年7月場所後だったが、翌9月場所は途中休場していた。前述の通り魁皇本人は2011年7月場所で現役引退したが、JR九州は「かいおう」の名称について「(現時点では)改称の予定はない」とコメントしている。

2002年9月10日、友綱親方の次男、西野秀昭が20歳で病死した時、友綱に「今はあの子のそばにいてあげて下さい」と労りの言葉を述べた(この日は9月場所3日目だった)。

魁皇の現役時代、地元の直方市では魁皇が勝利した場合、取り組みが終わった直後に花火が打ち上げられていた。当初は花火の打ち上げ免許を持つ男性が花火の打ち上げを担当していたが、2011年1月にその男性が亡くなってからは、地元の魁皇後援会の若者たちが花火の打ち上げを引き継いでいた(最後には、魁皇が引退した翌日の2011年7月20日に、魁皇と花火の打ち上げを行っていた男性に向けた感謝の花火打ち上げが行われた)。また、直方市の銘菓「成金饅頭」でも、地元出身の力士である魁皇を応援するため、11月場所の時には魁皇の焼印を押したものが販売されることもあった。

高砂部屋の弓取り力士に、「弓取り関取」で話題となった皇牙(元十両、2007年5月場所直前に引退。十両昇進後も引退直前まで弓取り式を務めた)がいたが、皇牙も直方市出身でしかも出身中学校(直方第二中学校)の5学年後輩であり、四股名は魁皇から一字拝借したものである。さらに、鳴戸部屋出身の元前頭・力櫻が、プロレス転向後「力皇」と改名したきっかけも、大相撲では同期入門だった魁皇にあやかったものと言われた。

俳優の堺雅人は同じ九州出身ということで、好きな力士に「魁皇」を挙げており、NHK大相撲中継にゲストで呼ばれた際にも「魁皇を応援している」とコメントした。

明治時代以降、最高位が大関だった力士の中では、魁皇が史上最多の幕内最高優勝5回を誇っている。なお横綱昇進を果たした力士の大関以下での幕内優勝は、同期の貴乃花が優勝22回中7回、同期の若乃花が5回(横綱では優勝なし)、武蔵丸が優勝12回中5回をそれぞれ記録し、同世代の横綱に多かった(これは元横綱双羽黒が優勝ゼロのまま廃業して以降、横綱昇進の規定が厳密になり『原則として大関の地位で2場所連続優勝が絶対条件』となったため)。さらに、優勝力士からの白星も最も多く、地力の高さも示していた。

2003年9月場所5日目の高見盛戦、左差しを使われ、あっさり土俵外へ出されてしまう(決まり手は押し出し)。魁皇は同年5月場所に11勝(次点)、7月場所に12勝(優勝)を挙げており9月場所に綱取りをかけていたが、結果的には7勝8敗で終え、綱取りから一転角番に追い込まれた。魁皇は高見盛が普段から稽古場で手抜きをしていることに対して批判している立場であったため、この結果に激怒。敗戦の直後憮然としながら土俵を下り、直後のインタビューで「けいこ場では力を出さないのに、こんな時だけ力を出す。あいつは相撲取りとして、許せない」という意味のコメントを、声を荒らげながら口にした。

2004年9月場所に13勝2敗で5回目の幕内優勝、次の11月場所は12勝3敗の優勝次点で、横綱昇進の基準である「大関の地位で2場所連続優勝、又はそれに準ずる成績」に充分当てはめる成績を挙げていた。しかし日本相撲協会は11月場所千秋楽終了後、大関・魁皇の横綱昇進問題については当時「『2場所連覇』の内規を満たしていない 」の理由で、横綱審議委員会への諮問は却下されてしまう。翌2005年1月場所、再び綱獲りにチャレンジした魁皇であったが途中休場に終わり、以降横綱挑戦の場所は二度と巡らなかった。それでも大関在位65場所と長期間「名大関」として君臨、39歳になる寸前まで多くの大相撲ファンを沸かせた。魁皇自身は引退後著書で「もし自分が横綱に昇進していれば、通算1047勝の記録は達成出来なかったと思う」「横綱の地位に求められる成績を自分は残せなかった、というのが本音。だから全く後悔はない」と記している。

大関昇進前、優勝決定戦にも2度出場(いずれも敗退)しているが、5人の決定戦と、4人の決定戦であった。ここに記した貴乃花、曙、武蔵丸、若乃花、貴ノ浪という横綱大関陣は古今有数の強力布陣との評価もあり、千代大海がチャンスをうまく掴んで大関に昇進したが、魁皇・武双山栃東らはこの5人衆+千代大海の影響で大関昇進に苦労した。

さらに、2007年(平成19年)1月場所で、小結以上在位71場所の新記録を樹立した。これも魁皇の実力を裏打ちするものであり、「もしタイムマシーンがあれば、魁皇を、江戸時代の古今無双大関雷電爲右エ門と対戦させてみたい」という声も聞かれたことがあった。

現在の大相撲の一大勢力となりつつあるモンゴルでも人気が高く、特にジグジドゥ・ムンフバト(横綱白鵬の父)が魁皇の大ファンらしく、白鵬を通じて魁皇に薬膳料理の食材を贈ろうとしたことがあるらしい。魁皇は、仕切り中に咳をすることが多いが、それを見た白鵬の父が魁皇を心配してのことらしい。白鵬は、それを託された当時はまだ関脇で、「大関の魁皇関に対して、ワシが関脇の分際でそんなことをすれば失礼になる」と言って、難色を示したそうである。なおのちに「平成の大横綱」となった白鵬は、魁皇の引退に「まさかだよね。場所前はそういう雰囲気ではなかった」と驚きながらも「名大関と対戦した事を誇りに思う。一番横綱に近い大関だった」と振り返っていた。

2009年6月2日に日本外国特派員協会に招かれ、「いつ引退するのか?」との質問に「いつそういう時がきてもおかしくない状況だけど、自分は相撲が大好き。死ぬまで現役にこだわりたい」と答えた。実際に魁皇が引退を表明したのは、それから2年後の2011年7月19日であった。

2009年11月9日に自伝「怪力」(ベースボール・マガジン社)が発売された。発売前々日の7日には紀伊国屋書店福岡本店でサイン会が行われた。同年12月18日には、文化放送の正月特番「新春スポーツスペシャル 工藤公康・魁皇 新春ビッグ対談〜生涯現役!」で、埼玉西武ライオンズに復帰した工藤公康との対談に臨み、「生涯現役」にこだわることを宣言。魁皇と工藤はこのとき初対面だった。対談の様子は翌年1月2日に放送された。

引退記者会見で魁皇は思い出の取組に、2000年1月場所千秋楽で当時関脇の武双山(現・藤島親方)に敗れて7勝8敗と負け越し、また武双山の幕内初優勝も献上した一番を挙げ「その時の悔しさがあったから、自分も大関に上がれた」とコメント。さらに「意識した対戦相手は?」との質問には「武双山は年も近いしライバルと言われていたので、常に負けたくないと思っていた。最近では千代大海(現・14代九重親方)。同じように怪我で苦しんでお互い引き際を無くして、どうしようかと話したこともある」と語っていた。

それに対して藤島親方は「一緒に刺激し合った特別な存在だった。休場して来場所もと思っていたが、勝てなければ辞めるしかない。魁皇本人が最もほっとしているのでは」と、大親友でもある魁皇の引退を労っていた。なお武双山とは同じ1972年生まれ(学年は魁皇が1年後輩)で、武双山が引退の2004年11月場所まで、奇しくも魁皇と幕内在位場所数(68場所)が全く一緒だった。武双山とは幕内で48回対戦し、成績は魁皇の31勝17敗(内2勝は不戦勝)。なお、魁皇と武双山共に大関昇進が遅かった事もあり、この両者には、「前頭在位・10場所、小結在位・11場所」(前頭在位場所数より小結在位場所数の方が多い)という珍記録もある。

さらに20代佐ノ山当時の千代大海も「古い戦友としてお疲れさまと言いたい。この日の一番と雰囲気を見て最後になると感じたが、ファンのために一日でも長く土俵に上がる姿勢には感動していた。今まで本当に立派だった」と称賛している。なお千代大海と幕内での取組は通算で54回も対戦したが、これは当時で大相撲史上2位 の記録だった。対戦成績は魁皇の34勝20敗(内1勝は不戦勝)。2010年1月場所、大関から関脇に陥落した千代大海は、同場所の3日目で魁皇に敗れたこの一番(魁皇の勝利で史上最多の幕内808勝を記録)が現役最後の相撲となり、翌4日目に千代大海は引退を表明した。

また、同期生(花の六三組)の中で最大の好敵手だった横綱貴乃花とは、一時期は共に人気を2分割した大相撲の2枚看板でも有った。魁皇自身幕内初優勝した場所も貴乃花の優勝の可能性が消えた直後、同期で同じく優勝を争っていた横綱曙を下し援護射撃をする形になる等、様々な深い縁がある。魁皇の初優勝時の貴乃花は「魁皇にはおめでとうと言うしかない。悔しさは無い」と潔く祝福の言葉を述べている。なお魁皇自身が獲得した通算の金星の内、最多の3個は貴乃花からである。ただし、大関時代の貴乃花からの勝ち星は一度もなかった。貴乃花が引退した2003年の1月場所以降、日本人横綱不在を解消する意味で期待を掛けられていたが、綱取りは失敗に。魁皇の引退はそれから8年半も経った2011年7月場所で、それに際して貴乃花親方は「正に横綱みたいな大関。同期として一番尊敬する力士だった。長い間本当によく頑張ってくれたと思う」と労っていた。

引退相撲を控えた2012年4月4日・11日に放送されたNHK鶴瓶の家族に乾杯』に出演し、笑福亭鶴瓶とともに熊本県人吉市を訪れた。行き先の店でかつて昭和初期に双葉山らが人吉で巡業を行ったときの板番付が勧進元の人物の孫が経営する和菓子店に今も残されているのを聞き、現物を見て驚きを見せた。また、同行していた枝川親方も同じく驚いていた。

2014年には地元直方市の直方駅前に銅像が設置され、同年10月26日に除幕式が行われた。この銅像は除幕2日後に落書きが見つかり、同年10月から11月にかけてにさがり2本が計7回折られるなど相次ぐいたずらに見舞われ、これを受けて市は被害届を提出し、12月に防犯カメラ2台を設置するという対応に追われた

2015年6月20日、先輩大関だった貴ノ浪こと19代音羽山親方が43歳で急病死。学年は魁皇が1年後輩で、幕内では51回対戦した(魁皇の24勝27敗、優勝決定戦で1敗)。青森県出身の貴ノ浪は、かつて現役時代の九州場所について「魁皇にとってはホームゲーム、こちらはアウェーゲームみたいなものだ」と発言していた。一方魁皇は貴ノ浪を「スケールが大きくて豪快」と振り返り、「明るく周りを和ませてくれる人柄だった」とコメント。「心臓が悪いと聞いていたが、最近は元気だと思っていたからまだ信じられない。体調が悪くても人に見せなかったから、本当はしんどかったのかも。これからお互い協会の為に頑張ろうと思っていたのに…」と早過ぎる死を惜しんでいた。

さらに1年後の2016年7月31日、「昭和の大横綱」こと千代の富士・13代九重親方が61歳で逝去。「九重親方の1000勝は私と比べるものではない。あの体で大きな相手を倒したのは凄いしレベルが違う。本当に悲しい」と追悼のコメントを述べていた。

略歴

  • 1988年
  • 1992年
    • 1月場所 - 新十両四股名を本名の古賀から魁皇(読みは最初「かいこう」とする予定だったが、師匠に力強さがないと言われ、「かいおう」)に改名
  • 1993年
    • 5月場所 - 同期の曙、貴花田、若花田にやや出遅れたが20歳の若さで新入幕、しかし負け越して翌場所十両へ陥落(4勝11敗)
    • 11月場所 - 再入幕、二桁勝利を挙げるも三賞ならず(10勝5敗)
  • 1994年
    • 3月場所 - 中日・横綱曙に勝利し自身初の金星を獲得、及び初の三賞を受賞(殊勲賞・9勝6敗)
    • 5月場所 - 新三役(小結昇進)
  • 1995年
    • 1月場所 - 新関脇、以降13場所連続で関脇在位
  • 1996年
    • 11月場所 - 優勝同点(11勝4敗)、曙・若乃花・武蔵丸・貴ノ浪ら5人で自身初の幕内優勝決定戦に出場
  • 1997年
    • 1月場所 - 15場所振りに負け越し(6勝9敗)、13場所守り続けた関脇から陥落
    • 3月場所 - 2度目の優勝同点(12勝3敗)、貴乃花・曙・武蔵丸ら4人で優勝決定戦に出場
    • 5月場所 - 左腸腰筋及び恥骨筋筋挫傷で12日目から自身初の幕内での途中休場
    • 7月場所 - 公傷で全休
    • 9月場所 - 左腸腰筋及び恥骨筋筋挫傷の回復が遅れ11日目から再び途中休場
  • 1998年
    • 5月場所-9月場所 - 自身初の幕内での3場所連続皆勤での負け越し
  • 1999年
    • 6月12日 - 元女子プロレスラー充子夫人と結婚
    • 7月場所 - 10日目を終えて3勝7敗と不調であったが、終盤5連勝して勝ち越し。大関昇進への挑戦権を辛うじて継続した。
  • 2000年
    • 1月場所 - 7勝7敗で迎えた千秋楽で、自身が最も印象に残ると振り返る武双山との一番、立合い変化が失敗し一方的に押し倒されて負け越してしまう。継続してきた大関昇進への挑戦権が振り出しに戻った。かたや武双山はこの一番で初の幕内優勝が決定し、明暗を分けた。
    • 2月21日 - ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/05/24 00:13

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