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鳩山由紀夫とは?

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日本政治家
鳩山 由紀夫(鳩山 友紀夫)
はとやま ゆきお

内閣官房内閣広報室より
公表された肖像写真

【生年月日】
(1947-02-11) 1947年2月11日(72歳)
【出生地】
日本 東京都小石川区
(現・文京区)
【出身校】
東京大学工学部計数工学科卒業
東京大学大学院
工学部博士課程修了
【前職】
専修大学経営学部助教授
【現職】
東アジア共同体研究所理事長
アジアインフラ投資銀行国際諮問委員会委員
凱富能源集団名誉会長兼上席顧問
【所属政党】
(自由民主党→)
(新党さきがけ→)
(旧民主党→)
(民主党→)
無所属
【称号】
Ph.D.(スタンフォード大学・1976年)
名誉博士(釜山大・政治学・2018年)
【配偶者】
鳩山幸()
【親族】
鳩山和夫(曾祖父)
寺田栄(曾祖父)
鳩山一郎(祖父)
鳩山威一郎()
井上和子()
鳩山邦夫()
鳩山紀一郎(長男)
鳩山太郎()
鳩山二郎()
【公式サイト】
鳩山由紀夫ホームページ
第93代 内閣総理大臣

【内閣】
鳩山由紀夫内閣
【在任期間】
2009年9月16日 - 2010年6月8日
【天皇】
上皇(平成の天皇)
衆議院議員

【選挙区】
(旧北海道4区→)
北海道9区
【当選回数】
8回
【在任期間】
1986年7月7日 - 2012年11月16日

鳩山 由紀夫(はとやま ゆきお、1947年(昭和22年)2月11日 - )は、日本政治家経営工学者。一般財団法人東アジア共同体研究所理事長、中国西安交通大学名誉教授アジアインフラ投資銀行国際諮問委員会委員、凱富能源集団名誉会長兼上席顧問。学位Ph.D.(スタンフォード大学1976年)。

衆議院議員(8期)、内閣総理大臣(第93代)、内閣官房副長官(細川内閣)、新党さきがけ代表幹事(第2代)、旧民主党代表(初代)、旧民主党幹事長民主党幹事長代理(初代)、民主党代表(第2・7代)、民主党幹事長などを歴任した。2013年に「紀夫」に改名したことを明らかにし、文藝春秋ニコニコ動画などでこの名義での活動をしているが、公式ウェブサイトTwitterでは「由紀夫」のままである。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 自由民主党
    • 1.2 新党さきがけ
    • 1.3 民主党 (旧)
    • 1.4 民主党
      • 1.4.1 党代表
      • 1.4.2 党幹事長
      • 1.4.3 党代表
    • 1.5 内閣総理大臣
      • 1.5.1 在日米軍再編
    • 1.6 総理大臣辞任
    • 1.7 辞任後
      • 1.7.1 引退撤回と活動再開
    • 1.8 政界引退と民主党離党
    • 1.9 政界引退後
      • 1.9.1 訪中と尖閣問題に関する発言
      • 1.9.2 訪ロとクリミア問題に関する発言
      • 1.9.3 訪韓
      • 1.9.4 「民主党」の終焉と「民進党」結党について
  • 2 政策
    • 2.1 思想信条「友愛」
    • 2.2 経済・財政・税制
    • 2.3 夫婦同氏規定
    • 2.4 外交
    • 2.5 軍事・国防
    • 2.6 外国人への参政権付与
  • 3 人物
    • 3.1 資産家
    • 3.2 趣味
  • 4 評価
    • 4.1 政治家として
    • 4.2 科学者として
  • 5 政治資金
    • 5.1 個人献金虚偽記載
    • 5.2 事務所賃料
    • 5.3 株の売却益の記載漏れ
  • 6 選挙歴
  • 7 所属していた議員連盟や関係団体等
  • 8 役職
  • 9 家族・親族
    • 9.1 系譜
  • 10 著書など
    • 10.1 単著
    • 10.2 共著
    • 10.3 翻訳
  • 11 その他
  • 12 脚注
    • 12.1 注釈
    • 12.2 出典
  • 13 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

経歴

鳩山一郎(左)、鳩山由紀夫(中央)、鳩山邦夫(右)

東京都小石川区(現在の文京区)に大蔵官僚(のちに参議院議員)だった父・鳩山威一郎、母・安子の長男として生まれる。学習院初等科学習院中等科を経て1965年東京都立小石川高等学校卒業。

鳩山家の伝統に漏れず東大に進学したが、「これからはエンジニアリングの時代」と法学部でなく工学部を選んだ。当初から政治家志望で法学部を選んだ弟・邦夫のほうが成績は良く、自身は1年前の模試で「合格率5%」と言われ、腹を立てて2度と受けなかった。しかし猛勉強により巻き返しを図り、東大合格を果たした。なお息子の紀一郎も東大工学部出身である。1969年東京大学工学部計数工学科を卒業後、スタンフォード大学博士課程オペレーションズ・リサーチを専攻しPh.D.を取得(1976年 博士論文はシステムの信頼性解析に関するもの)。

1976年、東京工業大学助手に就任。1981年、専修大学の経営学部助教授に就任。前身の専修学校には曾祖父鳩山和夫が設立に大きく貢献している。1984年3月、政界入りを志して退職。

自由民主党

1986年の第38回衆議院議員総選挙で、自民党公認・田中派新人候補として、祖父の代からの地盤であった北海道旧4区から出馬した。鳩山事務所側は、「立候補の直接のきっかけは三枝三郎(福田派)の引退がきっかけ」と主張している。初の選挙スローガンは研究者の経歴をアピールした「政治を科学する」であった。得票数では同じ自民党の高橋辰夫(福田派)に次いで2番目の得票数で当選した。小選挙区になった1996年以降は、鳩山家が開拓した地域は鳩山の選挙区から外れた(中選挙区時代のライバルで民社党出身小平忠正が選出されている北海道10区内の栗山町)。なお、地方区分の選挙区自体は祖父と重複していないため、祖父の地盤を世襲していないと扱われた。弟・邦夫に遅れること10年での政界入りだったが、豊富な資金、祖父以来の人脈や名門出身の毛並みの良さに支えられ、短期間で頭角を現し、1990年代の政界再編期に、一躍中心的存在となっていく。

1987年7月、田中派を離脱し竹下登を領袖とする経世会旗揚げに参加。1988年には同期当選組を中心とした派閥横断的な政策集団として、のちの新党さきがけの母体となる「ユートピア政治研究会」を結成。リクルート事件に揺れる党内にあって、自民党の巨額の政治資金の実態を明らかにして反響を呼び、1990年代の「政治改革」運動の萌芽となった。

1990年第39回衆議院議員総選挙(旧北海道4区・自民党公認)2期目当選。1991年北海道知事選挙横路孝弘北海道知事への対抗馬に名前が挙がったが固辞した。

新党さきがけ

1993年6月18日、政治改革を巡り自民党を離党。1993年武村正義らと新党さきがけを結成。1993年6月21日、新党さきがけ代表幹事・事務局長に就任。第40回衆議院議員総選挙(旧北海道4区・さきがけ公認)3期目当選後、非自民・非共産連立政権で成立した細川護熙内閣では内閣官房副長官(政務)に就任し、新党さきがけ代表の武村官房長官、代表代行の田中秀征首相特別補佐、日本新党代表幹事で、のちに、新党さきがけに移籍する荒井聰とともに細川内閣を支えた。

日本社会党委員長村山富市を首班とする自社さ連立政権では、さきがけ初代代表幹事園田博之内閣官房副長官就任にともない、後任の幹事長として政権を支えた。

1994年秋、北海道経済界や保守陣営から翌春の新人対決の1995年北海道知事選挙に再度出馬がとりざたされ本人も乗り気だったが、村山と武村と井出正一の説得で断念。佐藤静雄の当時の所属政党自由連合と自民党の共同推薦候補伊東秀子平和・市民代表田英夫らと共に支持や支援したが横路後継で新進党日本社会党の推薦候補の前副知事堀達也に敗北した。

1995年7月、第17回参議院議員通常選挙で新党さきがけ代表幹事として山中あき子北海道選挙区で擁立を画策したが、山中は辞退した。

民主党 (旧)

1996年の春頃から新党さきがけの党名を発案した簗瀬進や簗瀬の宇都宮高校の後輩で中選挙区時代からのライバルで同じく栃木1区出馬予定の新進党幹部船田元と新党構想を打ち上げる。船田との新党作りは挫折したが、さきがけを離党し、横路、簗瀬、菅直人、弟の邦夫と共に旧民主党を結党し、菅直人と党共同代表になる。結成の際、自民党時代からの盟友であった武村正義を、住専問題などで世論から厳しい追及を受けていたことから熟考の末に切り捨てた。この「排除の論理」は「友愛」と共にこの年の新語・流行語大賞に選ばれた。

第41回衆議院議員総選挙(北海道9区・旧民主党公認)4期目当選。1997年民主党幹事長就任。

民主党

1998年民主党を再編結成。幹事長代理に就任。

1999年2月26日の千葉市内での講演では、「あと数分とか数秒で日本を攻撃するミサイルが発射されるという状況が自明のとき、撃たれるままで手をこまねいていなければならないかというと、必ずしも憲法ではそうではない。自衛のために行動することは禁止されていないと理解している」と憲法上では先制攻撃が許される場合もありうるとの見方を示した。

1999年4月の札幌市長選挙では、民主党は現職桂信雄を推薦していたが、民主党を離党した中尾則幸を応援。しかし党からは一切処分を受けなかった。

党代表

1999年9月の民主党代表選挙菅直人横路孝弘に勝利し、民主党代表就任。

改憲論

公約として憲法改正を前面に掲げて話題となった。新憲法制定議員同盟顧問を務め、憲法改正を推進した。2000年に「2年で改正試案を各党が出して、速やかに憲法改正の結論をつけよう」と呼びかけ、自らも憲法試案を作成した。また2005年には『新憲法試案―尊厳ある日本を創る』としてPHP研究所より出版している。

恒久平和調査局設置法案

満州事変から日本の敗戦までの間に行われた日本による戦争被害を明らかにすることに強い意欲を示し、「恒久平和調査局設置法案」を議員立法として提出した。なお鳩山は同法案の成立を目指す恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟の呼びかけ人である。日本の戦争責任資料センター代表の荒井信一戦争被害調査会法を実現する市民会議代表西川重則が主催する「恒久平和調査局設置を求める院内集会」にも参加していた。

2000年6月の衆院選(北海道9区)5期目当選するが、自民党新人の岩倉博文に追い上げられ当時、党代表でありながら当確も当選も小選挙区で300番目(最終)に打たれた。(重複立候補していたが北海道で民主党の比例単独候補は上位に中沢健次金田誠一三井辨雄、他に1名おり当選者数は3人、鳩山自身は5位)

2001年7月の参院選など、国政選挙の度に党勢を拡大させ、2002年9月の代表選でも勝利したが、直後の人事で中野寛成を幹事長に起用すると、露骨な論功行賞であると批判を浴びて求心力が低下、2002年12月統一補選での惨敗と自由党との統一会派騒動をめぐる党内混乱の責任を取る形で代表を辞任。

その後、民主党内で最大派閥であった(民主党は「派閥」ではなく「グループ」としている)鳩山グループ(政権公約を実現する会)をひきいて、憲法問題や北朝鮮による日本人拉致問題などについて積極的に発言するなど影響力を維持していた。

歴史教科書問題

歴史教科書問題について2001年、訪問した韓国ソウルでの記者会見扶桑社発行の中学歴史教科書について「歴史というものの事実を日本側にとって美化しようとしたことは明らか」「偏狭なナショナリズムを持った教科書が採用されることはあってはならない」と指摘し、「各地域の教育委員会で採択され、どんどん使用されていくことは望ましいことではない」と述べた。

鈴木宗男疑惑

鈴木宗男を非難しており、鈴木がいわゆるムネオハウス問題で自民党を離党すると「比例代表選出議員は離党したら議員を辞職すべき」と議員辞職を求めた。

2002年8月、友人とともに居酒屋「トモト」を新橋駅で開店、民由合併にも一役買った。しかし、価格を安く抑えたこともあって経営が厳しくなった事や共同経営者平山誠が立候補した事もあり、2005年12月28日閉店。

党幹事長

2003年民由合併尽力し第43回衆議院議員総選挙(北海道9区)6期目当選。

2004年の自民党議員の年金未納問題を追及していた際に自分も8年9か月間未納であったことが判明した。

2005年9月11日投開票の第44回衆議院議員総選挙7期目当選。しかしこの総選挙で民主党が敗北したことを受け岡田克也が代表を辞任すると、後継を争う代表選挙では、小沢一郎、菅直人らと後継代表の一本化を図るが、中堅・若手の代表格である前原誠司が立候補を表明したため水泡に帰した。17日発足の前原執行部幹事長に就任。2005年、同志社大学客員教授

2006年2月に発生した堀江メール問題では、当時幹事長にもかかわらず、ことの発端となったメールに関し、永田・前原両議員から事前にほとんど何の相談も受けていなかったとされる。3月、前原執行部が総辞職すると幹事長を引責辞任することを表明するが、同年4月7日に行なわれた前原誠司民主党代表辞任に伴う代表選で小沢一郎が当選すると、幹事長に留任した。新潟県中越沖地震発生当時、新潟市での演説を予定していたが、高崎駅で下車し、自動車柏崎市入りした。党新潟県中越沖地震対策本部長に就任。

2007年7月の第21回参議院議員通常選挙大勝を受けての党役員人事で引き続き、党幹事長に留任。

2007年11月23日民主党の幹事長だった鳩山はダライ・ラマ14世と会談し、ダライ・ラマ14世が、チベット問題について「高度な自治を求め、右手を中国政府に差し出しているが何も得られていない。左手で欧米日本に協力を求めたい」と述べたのに対し、「力強くサポートさせていただく」と応えた。

2008年4月1日、駐日アメリカ合衆国大使ジョン・トーマス・シーファー(中央)、公明党代表太田昭宏(右から1人目)と

2009年1月14日、日本教職員組合(日教組)新春の集いに参加し民主党支援に感謝の言葉を述べるとともに「日教組とともにこの国を担う覚悟だ」と挨拶した。

2009年1月29日の通常国会における衆院代表質問において、自民党本部の国有地賃貸問題を追及したが、同時期同理由で当時同じく賃貸で国有地に党本部を置いていた社民党から追及への不満を述べられると共に、鳩山自身も「社民党に言ったわけではない」等と釈明した。

2009年3月、小沢一郎民主党代表の秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕された際、「国策捜査」であると検察を批判。また2009年4月24日、SMAPメンバーの草彅剛が公然猥褻で逮捕されると「そこまでやるか」と警察を批判した。しかし、その後鳩山自身に政治資金規正法違反疑惑の捜査が及ぶと、「以前『国策捜査』と述べたことは感情論で述べたものであり、二度とは申していない」と述べた。

2009年5月9日の講演にて、平成21年度補正予算案に計上された「国立メディア芸術総合センター」(仮称、117億円)について「アニメが好きなのは麻生太郎首相だ。首相が好きだから、官僚が作ってやろうと。簡単にいえば国立の漫画喫茶だ。大変な浪費で、ばかばかしい」と非難した(実際にはアニメだけでなく、漫画、映画などといった広範囲の作品が展示される予定)。同5月27日の党首討論にて「いわゆる漫画喫茶の民業圧迫になる」と批判した。

党代表

2009年5月16日、小沢一郎代表の辞任を受け、党幹事長を辞職。同日に行われた党代表選挙で岡田克也を破り、代表に返り咲いた。

2009年6月、党議拘束が外された臓器移植法改正法案の採決に関し、「脳死は人の死」とする案(A案)を、小沢一郎菅直人岡田克也などほかの民主党幹部が賛成するなか、反対票を投じた。

内閣総理大臣

2009年8月30日、民主党代表代行小沢一郎(右)と
2009年9月23日、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ(右)と
2009年9月24日、第3回20か国・地域首脳会合
詳細は「鳩山由紀夫内閣」を参照

献金問題の追求が進展するなか同年8月30日投開票の第45回衆議院議員総選挙にて、民主党は単独政党として史上最多の308議席を獲得。2009年9月16日、衆参両院の内閣総理大臣指名選挙国民新党社会民主党連立与党として、第93代内閣総理大臣に就任。戦後の首相としては、初の理系学部出身で、国立大学出身の首相は、宮澤喜一以来16年振りであった。また、新制大学としての東京大学卒の総理大臣は史上初だった。なお理系出身首相には中央工学校卒業の田中角栄水産講習所(現東京海洋大学)卒業の鈴木善幸がいる。政権は高支持率でスタートした。2009年の流行語大賞には「政権交代」が大賞に選ばれ、表彰式には代理の小川敏夫が出席した。

2010年4月には米誌『タイム』が「世界で最も影響力のある100人」リーダー部門で鳩山を6位に選出し、鳩山は「革新的には見えない」が「(自民党による)事実上の一党支配体制を、機能する民主主義に変わる手助けをした」と評価した。

環境問題
鳩山イニシアチブ」も参照

環境問題については地球温暖化防止に強い関心を見せており、日本2020年までの温室効果ガスの削減目標(中期目標)について、「1990年比25%削減を目指す」ことを国際社会に約束した。この構想を鳩山は「鳩山イニシアチブ」と名づけた。しかしこの目標について中国は「うぬぼれ・まやかし」と批判した。鳩山イニシアチブなどの環境政策は海外で評価され、2010年2月5日にはデリー持続可能な開発サミット2010における「持続可能な開発リーダーシップ賞」を受賞した。鳩山は授賞式のビデオメッセージでコペンハーゲン合意への参加の重要性等を述べた。

年次改革要望書廃止

政権交代後、鳩山は総理就任早々にアメリカから日本に通達される拒否できない内政干渉リストとも言われる年次改革要望書を廃止した。アメリカ依存からの脱却と対等な日米関係を構築する第一歩としての取り組みであったが、年次改革要望書で15年間、半ば思い通りに日本の規制を緩和してきたアメリカ政府はこの対応に対し強い不快感を抱き、鳩山政権に対するアメリカからの強い反発を招く要因になったとも言われる。

雇用政策

雇用に関しては小泉政権が推進していた規制緩和による構造改革を基本的に支持していた。しかし改革の過渡期に派遣や請負などの非正規労働者が急増し、物流業界での価格引下げによる過当競争が発生するなどの急激な変化によってもたらされた負の側面に対する是正処置や救済措置が行わなかったことには批判的であった。鳩山は総理就任時に、小泉政権による改革路線の方向性は支持しつつも、急速な規制緩和による負の側面を直視し、場合によっては一部の規制は再度設ける可能性も示唆した。首相就任後の2009年末に政府の緊急雇用対策の一環として「公設派遣村」を設置した。

また官僚人事に関して上層部の人事権は政治に帰属すべきだと主張し、首相就任時に公務員制度改革の一つとして掲げたが実現は叶わなかった。

日中首脳会談

2009年9月21日、内閣総理大臣に就任した鳩山は中国の胡錦濤国家主席と会談し、チベット問題は「中国の内政の問題と理解している」と述べ、内政問題という認識を示した上で、「それだけに対話を通じて見事に解決することを期待したい」として、中国側による平和的な解決を期待した。

韓国

韓国との歴史認識問題に関しては歴史的事実を直視する姿勢を示し、外交姿勢が危ういと批判された。また東アジア共同体の構築に向け韓国を第一義のパートナーとし、安全保障分野でも連携を深める必要があるとした。

2009年11月8日、タイ王国首相アピシット・ウェーチャチーワ(左)と
鳩山論文

鳩山は『Voice』(2009年9月号)に寄稿した論文私の政治哲学(2009年8月14日時点のアーカイブ)のなかで、アメリカの経済政策や日米関係の現状を批判し、『ニューヨーク・タイムズ』が8月27日に論文の抄訳を掲載したところ、アメリカや台湾で「反米的」と報じられた。鳩山は後日、「反米ではない」と述べている。

ほか、2009年11月18日午前の会談で鳩山は北方領土にて日露首脳会談を行う案を検討すると語った。しかし、同日夕方の記者団に真意を問いただされると、あくまで意気込みを語ったものと述べ、軽薄と批判された。

在日米軍再編