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黒柳徹子とは?

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くろやなぎ てつこ
黒柳 徹子
文化功労者顕彰に際して
公表された肖像写真

【本名】
黒柳 徹子
【別名義】
トットちゃん(愛称)
チャック(愛称)
【生年月日】
(1933-08-09) 1933年8月9日(86歳)
【出生地】
日本 東京府東京市赤坂区乃木坂(現・東京都港区乃木坂)
【血液型】
A型
【職業】
女優タレント声優司会者エッセイスト
【ジャンル】
ラジオドラマテレビドラマ映画舞台
【活動期間】
1953年 -
【配偶者】
独身(未婚)
【著名な家族】
黒柳守綱(父)
黒柳朝(母)
黒柳紀明(弟)
黒柳眞理(妹)
田口修治(伯父)
【事務所】
吉田名保美事務所
【公式サイト】
黒柳徹子 公式ホームページ トットちゃん
【主な作品】




黒柳 徹子(くろやなぎ てつこ、1933年(昭和8年)8月9日 - )は、日本女優タレント声優司会者エッセイストユニセフ親善大使平和運動家である。愛称はトットちゃんチャック

日本でのテレビ誕生と同時に生まれたテレビタレントの先駆けとして、長年に亘り第一線で活躍し、現在に至るまで唯一テレビ番組のレギュラーを継続して持ち続ける、テレビ放送史を代表する芸能人の1人である。現在、同一司会者によるトーク番組の最多放送世界記録保持者として、記録更新中である。

テレビ朝日徹子の部屋』の司会や、累計800万部を記録し、戦後最大のベストセラーとなっている『窓ぎわのトットちゃん』の著者、ユニセフ親善大使として知られる。所属事務所は(有)吉田名保美事務所。

略歴

生い立ち

東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)乃木坂に生まれ、父の練習場が洗足池近くに移ったため、旧東急目蒲線洗足駅に近い大森区(現・大田区)北千束町で育つ。名前は、両親が男の子が生まれると思い「徹」という名前を考えていたのだが、実際には女の子を出産したため「子」をつけて「徹子」とした。また、「黒柳」とサインを書くときには柳の異体字である「栁」(木偏に夘)を使う。

父は音楽家で、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスターも務めたヴァイオリニスト黒柳守綱(旧姓田口)、母はエッセイスト黒柳朝(旧姓門山)。弟には幼くして亡くなった黒柳明兒、ヴァイオリニストの黒柳紀明、妹にはバレリーナでエッセイストの黒柳眞理がいる。また、伯父には松竹蒲田撮影所の初代所長の田口桜村や、日本ニュースニューヨーク支社長やアメリカ・メトロニュース極東代表を務めた田口修治がいる。

幼少期は「問題児」とされたため、尋常小学校(現: 公立小学校)を1年生の時に退学させられ、トモエ学園1年生に転校する。第二次世界大戦中、東京大空襲をきっかけに、以前に北海道の母の実家から帰る汽車で青森の農家と隣り合わせた縁で青森県三戸郡(現・南部町)の諏訪ノ平に疎開する。

トモエ学園香蘭女学校、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科卒業。卒業後オペラ歌手にはなれないと分かり、「自分の子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになろう」と思い立って、「ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれない」と新聞で見かけたNHK放送劇団の俳優募集の広告に応募、約6,000人の応募者の中から第6次までの審査を経て13人の劇団員の1人として選ばれる。

女優として

若き頃の黒柳

テレビ放送の開始を翌月に控えた1953年(昭和28年)1月にテレビ女優第一号の一人としてNHK放送劇団の一員となる。NHK放送劇団の五期生で同期には友部光子里見京子横山道代幸田弘子ら。当初はラジオやテレビの通行人として出演しつつ、テレビの現場を学ぶ。NHK放送劇団文学座研究所を経てテレビ女優の第一号としてデビューし、放送劇団入社時の面接では「親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…」「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」などの失言を繰り返したのにもかかわらず、合格できたという。

女優の志望動機は、母親になった時に子供に絵本を読み聞かせられるようになりたかったからだったが、1952年に翌年のNHKのテレビ放送に備え招かれていたアメリカ合衆国NBCプロデューサーのテッド・アレグレッティーの講演で「アメリカのテレビ局はスポンサーの影響でニュース教養番組はテレビ放送全体の15%だが、公共放送のNHKではニュース・教養番組が主になると聞いているので、世界の風俗・習慣・戦争を見る事が出来るので、永久的な平和がテレビによってもたらせる」を聞いて、プロとしての女優意識が目覚めたという。

1954年NHKラジオ第1で放送され、自身初の主演となったラジオドラマヤン坊ニン坊トン坊』(1954年 - 1957年)が開始した。同番組は日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じた番組である。「大人でも子どもの声を出せるはずだ」との劇作家・飯沢匡の発案により、NHK始まって以来のオーディションを経て、三男・トン坊役を演じて一躍有名になる。以降も『チロリン村とくるみの木』(1956年 - 1964年)、『ブーフーウー』(1960年 - 1967年)などに出演し、さまざまなキャラクターの声を演じる。

子ども番組に加えて『若い季節』(1961年 - 1964年)、『夢であいましょう』(1961年 - 1966年)などの人気番組にも出演し、週6、7本のレギュラー番組を抱えるなど多忙を極めるようになる。20代後半にはテレビとラジオのレギュラーが週に10本を数え、平均睡眠時間3時間という日が続いて、過労からすべてのレギュラー番組を降板し1か月の入院を余儀なくされる。

NHK専属女優時代の初めの頃、ディレクターは「私をずーっと降ろしていた」と述べている。

1958年の『第9回NHK紅白歌合戦』では、自身初となるNHK紅白歌合戦の紅組司会を務めた。それから22年の月日が経った1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』で紅組司会に復帰し、1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』まで4年連続、通算5回紅組司会を務めた。4年連続、通算5回の紅組司会という記録は、いずれも佐良直美に並び史上最多である。その32年後である2015年の『第66回NHK紅白歌合戦』では、総合司会として再度紅白の司会に復帰した。通算6度はNHKアナウンサー以外の女性の最多記録となっている。

1961年、第1回(昭和36年度)日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞した。

舞台出身の俳優との間に演技力の差を感じていたことから、慕っていた杉村春子文学座への入団を相談し、1961年に開設された文学座附属演劇研究所に3期生として入所し演技を学ぶ。江守徹高橋悦史らが同期。文学座の分裂後、1970年に出演した東宝ミュージカルスカーレット』(帝国劇場)でブロードウェイのスタッフとともに仕事をして親しくなり、作曲家ハロルド・ロームの夫人・フローレンスから「面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!」と招きを受けて、もっと勉強したいとニューヨークへの留学を決意する。

1971年9月から1年間ニューヨークへ留学し、セントラル・パーク西隣のワンルームに生活する。ローム夫妻がニューヨークでの身元引受人となり、フローレンス夫人を「ニューヨークのお母さん」と呼んだ。『スカーレット』演出家のジョー・レイトンの夫人で元女優のイブリン・ラッセルの紹介により、スタニスラフスキー・システムに基づいてプロの俳優に指導する「メアリーターサイ演劇学校」にて演技を学び、開校以来初の東洋人の生徒となる。また、同じ建物の中にある「ルイジ・ダンススクール」でモダン・ダンスを学ぶ。アフターファイブには振り袖を着てカクテルやディナーなど社交の場に足を運び、「着物と洋服、どちらにも似合う髪型を開発したい」との思いから、ニューヨークで知り合って友人となったアメリカで活躍中のヘアメイクアーティスト須賀勇介のアイディアを交えつつ、後にトレードマークとなる「タマネギヘア」を考案する。「あなたのように1人でぷらぷらしている人の目で世の中を見て、そのままの感性で好きに話してほしい」とのオファーを受けて日本初の女性司会者によるワイドショーで『徹子の部屋』の前身番組となる『13時ショー』(NETテレビ)の司会就任が決まり、放送開始前月の1972年9月に帰国する。

1976年の『徹子の部屋』の放送開始を機に、「役を演じながら司会もやると混乱を招く」「悪女役をしていたら、悪い人が話を聞いているみたいに思われる」との考えから、本人役などで出演した一部作品を除いてテレビでの女優活動を控えるようになる。

一方で、舞台女優として1989年より「海外コメディ・シリーズ」の上演を開始。劇作家・演出家の飯沢匡の発案により黒柳の主演で毎年秋に海外の喜劇を紹介する企画で、1994年に飯沢が死去した後は主に高橋昌也が演出を手掛けて、2016年秋で30回目を数えた。1997年には『幸せの背くらべ(英語: Three Tall Women)』および『マスタークラス(英語: Master Class)』での演技により第38回毎日芸術賞ならびに第4回読売演劇大賞の大賞・最優秀女優賞を受賞、2013年には「永年の翻訳劇に対する情熱と功績に対して」の受賞理由により第38回菊田一夫演劇賞特別賞を受賞している。2017年秋の『想い出のカルテット〜もう一度唄わせて〜』では、同年8月末の右大腿骨骨折と手術を経て、設定を変更して車椅子で舞台を務めた。ライフワークとして30年間で32作品を上演し、2018年秋に上演の『ライオンのあとで』で幕を下ろした。継続を希望するファンの声を受けて、2019年10月には朗読劇『ラヴ・レターズ』の舞台に上る。

マルチタレントとして

2012年7月5日外務省にて外務大臣玄葉光一郎(左)を表敬訪問
2013年9月12日外務省にて外務大臣岸田文雄(左)を表敬訪問

1976年にはテレビ朝日で自身の冠番組徹子の部屋』が開始。長寿番組となっている。2011年4月27日放送分(35周年記念SP第2弾『出張!徹子の部屋』)を以って放送8961回を迎え、「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録に認定された。2015年5月27日には放送回数が通算10000回となり、上記の「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」を自ら更新し、再びギネス世界記録を受賞した。1995年には「橋田賞」を、1997年には「第23回放送文化基金賞」を受賞している。2006年には黒柳と『徹子の部屋』が第54回菊池寛賞を受賞した。受賞理由は「30年間休むことなく良質な対談番組を送り続けている努力」に対してである。

『徹子の部屋』開始と同じ1976年には、「主婦の選んだテレビパーソナリティーNO.1」に初めて選出され、1989年まで14年連続で選出された。

1978年からは、最高視聴率41.9%を記録する大ヒットになったTBS音楽番組ザ・ベストテン』が放送を開始し、黒柳は初回から1989年の最終回まで司会を務めた(なお、初期からコンビを組んでいた久米宏は1985年で降板した)。1978年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞する。

1970年代には『音楽の広場』『おしゃべりオーケストラ』などのNHKクラシック音楽番組の司会も大きな比重を占めた。ユーモラスな早口は同種番組としては異色だったが、芥川也寸志、尾高忠明らソフトな語り口の専門家たちとのコンビネーションも好評で、賑々しいが訊き上手でもあるというのお茶の間イメージを定着させている。

1981年、自身の著書『窓ぎわのトットちゃん』が出版された。単行本・文庫本を合わせて累計800万部を発行し、世界35カ国で翻訳された。累計770万部という発行部数は、日本国内において「戦後最大のベストセラー」となり、「トットちゃんブーム」が起こった。また、黒柳は同作で、「第5回路傍の石文学賞」やポーランド文学賞ヤヌシュ・コルチャック賞」などを受賞した。

1981年から1985年までの5年間と1987年には、高額納税者番付の俳優・タレント部門で、森繁久彌大橋巨泉石原裕次郎三船敏郎三田佳子ら時代を代表するタレントを抑えて1位となった。1985年には、タレントとしては珍しく政府の税制調査会に参考人として招かれ、その場で「現在の私の収入の90%が税金。1時間の番組の何分か話したらあとは全部税金。原稿用紙400字詰めの2行書いたら、あとの18行は全部税金。勤労意欲を失うことが無きにしもあらず。最高税率を10%下げて欲しい。」と発言した。この発言が影響を及ぼしたかは不明だが、2年後には最高税率が60%まで下げられている。

1983年には、「新鮮な発想と円熟した話術で視聴者の共感を呼び、新しい健全な娯楽番組の定着・充実に寄与した」として、第35回NHK放送文化賞を受賞した。

1984年より、国際連合傘下のユニセフ(国際連合児童基金)親善大使を務めており、現在でも精力的に活動している(詳細は後述)。

1986年にはTBS『世界・ふしぎ発見!』が放送を開始し、こちらも長寿番組になっており、黒柳は初回から毎回出演している。また、初回から毎回出演している人物は黒柳の他には司会の草野仁のみである(野々村真板東英二は最初準レギュラーであった。なお、板東は2012年に降板している)。

1991年には「第7回東京都文化賞」および「外務大臣賞」を受賞している。

2000年代後半以降の活躍

2010年に「放送ウーマン賞」の日本女性放送者懇談会40周年特別賞を受賞。同年には、平成27年度文化功労者に選ばれた。2015年5月27日には『徹子の部屋』が放送回数通算10000回を達成した。

2017年にはこれまでの活躍が評価されて名誉都民に選ばれる。以後もテレビ番組『徹子の部屋』と『世界・ふしぎ発見!』にレギュラー出演するほか、声優や女優、司会者、国際連合児童基金の親善大使として幅広く活躍している。また、ほぼ毎年舞台に立ち続けている。

社会貢献活動・福祉活動

ユニセフ親善大使

2006年8月25日外務省にて外務大臣麻生太郎(左)にコートジボワールの情勢を報告
2013年9月12日外務省にて外務大臣岸田文雄(左)に南スーダンの情勢を報告

芸能活動以外にも、国際連合傘下のUNICEF(ユニセフ、国際連合児童基金)親善大使としての活動が特に知られる。親善大使には1984年アジアの人物として初めて就任し、その後最古参のメンバーになった。当時のユニセフ事務局長ジェームス・グラントは、任命理由として黒柳の子どもへの愛と、障害を持つ人々や環境への黒柳の広範囲な活動と実績を挙げている。以後、アフリカアジアなどの途上国を毎年欠かさず訪問し、現在までの訪問国数は30ヶ国に上る。親善大使としての活動に対して、ユニセフからは、1985年に「第1回ユニセフこども生存賞」、2000年に「第1回ユニセフ子どものためのリーダシップ賞」を受賞。また日本政府からは、2003年に勲三等瑞宝章(現:瑞宝中綬章)を授与された。

黒柳がユニセフ親善大使に就任することになったきっかけは、当時ユニセフ事務局長だったジェームス・グラントが『窓ぎわのトットちゃん』を緒方貞子の紹介により読んだことである。

これらの視察の模様は日本国内や視察した国々の中で広く報道され、2002年に黒柳がアフガニスタンソマリアを訪問した際には、同行した日本のTVチームによって、視察の様子を撮影した90分間のドキュメンタリー番組が2本放送された。また、テレビ朝日ニュースステーション』でも視察報告を行い、広範囲に亘る黒柳の現地視察は、他の報道番組や『徹子の部屋』、多数の新聞雑誌の記事の中で伝えられている。黒柳の活動が広く報道されたことでアフガニスタンやソマリアにおける子どもと母親を支援するための資金提供を呼びかけることにもつながった。

黒柳は個人で募金活動を行っており、黒柳のもとへ寄せられた募金総額は2014年現在50億円以上に上る。黒柳のもとへ寄せられた募金は事務費用などには一切使われず、100%がユニセフの本部へ送られ、子どものために使われている。

1996年5月28日にユニセフ活動のためテレビ朝日取材班とともに訪れたボスニア・ヘルツェボニアで、クロアチア人警察に軍事基地を撮影したという嫌疑で3時間ほど拘束されている。真相がわかるまで日本ではスパイ容疑で逮捕、身柄拘束と誤報された。

1997年にユニセフの政府拠出金が削られそうになった時、黒柳は親善大使として自ら新聞に投書して政府拠出金の維持を訴えかけた。黒柳の投書を読んで当時外務大臣だった小渕恵三が黒柳に直接電話し、「今日予算のことなんで、ユニセフのために頑張るからね」と話した。そして、黒柳の尽力もあってその年はユニセフの政府拠出金は削られなかった。

2001年、黒柳が「朝日社会福祉賞」を受賞した。受賞理由は「ユニセフ親善大使として活躍し、『トット基金』を通じてろう者の社会参加も支援した功績」である。

旱魃・内戦・殺戮・地雷がある状況で、「なぜそこまでして行くのか? 怖いとかためらうとかの気持ちはないのか」との質問に、「ユニセフ親善大使として少しでも皆様に知ってもらう。(だから)あまり大変と思わない。何かあったら、その時はその時でね。戦争を通してきた人間って、そういう所が有りますよ。だって、いつ死ぬか分からなかったんですから、小学生の時から。飢えた事も親のいない寂しさも(疎開経験で)分かり合えますから」といい、やってあげる支援ではなく、トモエ学園の「皆、一緒に行う」の思想がユニセフ活動のもとになっていると答えていた。

ちなみに、ユニセフ親善大使としての黒柳への年間報酬は、1米ドルである。

過去に大使として訪問した地域

パンダ保護

2011年12月22日総理大臣官邸にてジャニーズ事務所取締役近藤真彦(中央)と内閣総理大臣野田佳彦(右)にパンダ誘致を要請

子供の頃、叔父アメリカからのおみやげにパンダのぬいぐるみを持って帰ってきたことをきっかけにパンダの研究を始めた。パンダの研究は70年以上に及び、日本パンダ保護協会名誉会長を務めている。

黒柳がテレビ出演をするようになってからは、当時日本では知られていなかったパンダを紹介した。そして、黒柳の尽力もあって1972年には、日中国交正常化の記念に2匹のパンダ「カンカン・ランラン」が日本に初上陸。上野動物園に展示され、一大パンダ・ブームが起こった。

黒柳は「日中の国交が回復(実際には国交成立)したので、パンダをお願いして欲しい」と首相官邸に電話をしようと思っていたという。また、パンダ初来日の日には、仕事のリハーサルを抜け出して上野動物園の裏口でパンダを乗せたトラックの到着を長時間待っていたが、パンダはコンテナの中で外からは全く見ることが出来なかった。さらに、それを中継していたニュース番組に、見学している黒柳の姿が映った、というエピソードがある。また、1986年に初めてパンダの名前の公募が始まった際は、当時の鈴木俊一東京都知事とともに選考委員を務めた。

長年に亘るジャイアントパンダ保護活動への功績から、中華人民共和国四川省の成都パンダ繁育研究基地より、今年生まれたパンダの命名権が初めて無償で与えられたことが2012年9月放送の『世界・ふしぎ発見』内で伝えられた(通常は一定金額の寄付などで期間限定の命名権が与えられる場合がある)。2012年に命名式が行われた。

その他活動

2012年7月5日外務省にて外務大臣玄葉光一郎(左)に東北地方太平洋沖地震被災地に対する支援活動について報告

1981年には、自身の大ベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の印税を寄附して、社会福祉法人トット基金」を設立し、黒柳自身が理事長に就任している。また、同年には「国際障害者年障害関係功労者内閣総理大臣賞」を、翌1982年には「全日本ろうあ連盟厚生文化賞」を受賞している。

その他にも、社会福祉法人「あゆみの箱」理事、日本ペンクラブ会員、世界自然保護基金ジャパン顧問、ちひろ美術館・東京館長、東京フィルハーモニー交響楽団副理事長、日本チャップリン協会名誉会長、日本パンダ保護協会名誉会長、としても活躍している。1985年に、ポーランド政府からコルチャック賞を贈られた。

『窓ぎわのトットちゃん』の印税で、アメリカの聾学校の生徒たちによる劇団「デフシアター」の日本公演を経済的に支えたことが知られている。黒柳自身も手話を使うことができ、本人役で特別出演した映画アイ・ラヴ・ユー』でも手話を披露している。

また、これらの関係から大阪ジェネリック医薬品メーカー・東和薬品のテレビCMが制作される際にCMイメージキャラクターに抜擢され、継続して出演している(広告には黒柳を模した人形が登場している)。

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出典:wikipedia
2020/06/05 21:31

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