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黒田孝高とは?

凡例
黒田孝高
(黒田如水 / 黒田官兵衛)
如水居士画像(崇福寺蔵)

【時代】
戦国時代 - 江戸時代初期
【生誕】
天文15年11月29日(1546年12月22日)
(グレゴリオ暦1547年1月1日)
【死没】
慶長9年3月20日(1604年4月19日)享年59
【改名】
小寺万吉(幼名)→祐隆→孝隆→黒田孝高→如水円清(法名)
【別名】
通称:官兵衛
略称:小官、黒官
号:如水軒
【神号】
水鏡権現
【戒名】
龍光院殿如水円清大居士
【霊名】
シメオン
【墓所】
崇福寺( 福岡市博多区千代)
大徳寺塔頭・龍光院(京都市北区)
高野山奥の院(和歌山県伊都郡高野町)
【官位】
従五位下勘解由次官、贈従三位
【主君】
小寺政職織田信長豊臣秀吉秀頼
【氏族】
小寺氏黒田氏(自称宇多源氏)
【父母】
父:黒田職隆
母:明石正風の娘(小寺政職の養女)
【兄弟】
孝高利高、香山妙春(三木清閑室)、虎(妙円尼尾上武則室、麻生某室)、利則直之、心誉春勢(一柳直末室)、浦上清宗室?
【妻】
正室:櫛橋伊定の娘・(幸円)
【子】
長政熊之助
養子:一成(加藤重徳の次男)、松寿丸(一柳直末の息子)

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。

(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をする。竹中重治(半兵衛)とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 出身
    • 1.2 播州時代
    • 1.3 織田家臣時代
    • 1.4 豊臣家臣時代
      • 1.4.1 豊前国主
    • 1.5 関ヶ原の戦い
    • 1.6 晩年と葬儀
  • 2 伝承・後世の俗説
  • 3 号
  • 4 人物
  • 5 人間関係
    • 5.1 秀吉との関係
    • 5.2 竹中重治との関係
    • 5.3 毛利家との関係
    • 5.4 その他の人間関係
  • 6 逸話
  • 7 遺品
  • 8 関連史跡等
  • 9 子孫
  • 10 その他
  • 11 関連作品
  • 12 脚注
    • 12.1 注釈
    • 12.2 出典
  • 13 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

生涯

出身

黒田氏は、『寛永諸家系図伝』などによれば、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)の出身とされるが、定かではない。 孝高の祖父・黒田重隆の代に備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り、龍野城主・赤松政秀、後に守護赤松晴政重臣で御着城(現在の姫路市東部)を中心に播磨平野に勢力を持っていた戦国大名小寺則職政職父子に仕えた。小寺氏は黒田氏を高く評価し、天文14年(1545年)に重隆を姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には政職の養女を嫁がせ、小寺姓を名乗らせた。

播州時代

天文15年11月29日(1546年12月22日)、孝高は黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれた。幼名は万吉。永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる。永禄4年(1561年)、小寺政職の近習となる。そして永禄5年(1562年)、父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る。この年から「小寺官兵衛」を名乗っている。永禄7年(1564年)、室津浦上清宗が、婚礼当日に敵対する赤松政秀に攻められ、父・政宗とともに討たれる事件があったが、清宗の妻を孝高の姉妹と見る向きもある。永禄10年(1567年)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。また、従兄弟の明石則実との同盟を結ぶ。

永禄11年(1568年)9月、放浪中の足利義昭織田信長美濃国で会見して上洛を要請し、三好三人衆を退けて室町幕府15代将軍となる。永禄12年(1569年)、3年前に山陰山陽に勢力を張る毛利元就により滅ぼされていた尼子氏の残党の立原久綱山中幸盛らが尼子勝久を擁し、但馬国山名祐豊浦上宗景らに後援され、大友宗麟多々良浜で交戦中であった元就の背後をつく形で出雲国で再興のために決起する(尼子再興軍の雲州侵攻)。元就は義昭に救援を要請した。

8月、祐豊に木下秀吉(後の羽柴(豊臣)秀吉)が率いる2万の兵が差し向けられる。更に義昭と誼を結んだ赤松政秀が、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくる。政職は池田勝正別所安治らに攻められ、宗景は宇喜多直家に離反され、孝高には300の兵しか無かったが、奇襲攻撃を仕掛けるなど、2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功する(青山・土器山の戦い)。政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。この後、三好三人衆が一旦は勢力を立て直し、信長包囲網が張られ、義昭と信長の関係も疎遠になり始める。

元亀4年(1573年)、包囲網は甲斐国武田信玄の発病などにより弱体化し、信長が勢力を盛り返す。4月、東播磨の三木城主・別所長治(安治の子)が攻めこんでくる(印南野の戦い)。7月、内紛により三好氏の篠原長房が討死。9月、信長が浅井長政を討ち、義昭を追放。12月、浦上宗景が信長と和睦。天正2年(1574年)、義昭は毛利輝元(元就の嫡孫)の領内の鞆の浦へ逃れた。

天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に長篠の戦い武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言。7月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見し、信長から名刀「圧切長谷部」を授かる。さらに年明けには政職にも、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らと揃って京で謁見させる(『信長公記』)。一方で9月には、浦上宗景が宇喜多直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。

天正4年(1576年)1月、丹波国波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃(黒井城の戦い)して信長より離反。4月、信長と本願寺の和睦が決裂。7月、輝元の叔父・小早川隆景配下の水軍の将・浦宗勝が、信長の水軍を破る(第一次木津川口の戦い)。天正5年(1577年)5月、毛利氏は本願寺勢力に属していた播磨の三木通秋と同盟し、浦宗勝を通秋の所領である英賀に上陸させた。孝高は500の兵で逆に奇襲をし、5,000の兵を退ける(英賀合戦)。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。

10月、信長は信貴山城の戦い松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで姫路城の南西に位置する飾東郡国府山城に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。月末には秀吉は、弟の羽柴秀長但馬国生野銀山を管轄する太田垣景近竹田城攻めに向かわせる(11月4日落城)。孝高は秀吉本隊の上月城攻めに従い、佐用城攻めでは竹中重治らと共に先陣を務めている。上月城は、以前に浦上宗景と共に毛利氏と戦っていた尼子勝久、山中幸盛ら尼子遺臣団が城代を任される。

織田家臣時代

ところが天正6年(1578年)3月、別所長治がほとんどの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し(三木合戦)、これに毛利氏が呼応する。4月、海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退ける。しかし、7月に秀吉本隊は信長の指示に従い、尼子遺臣団を残して上月城を放棄し、書写山まで撤退した。

双方の調略も激しさを増し、9月に孝高は宇喜多直家を調略することに成功する。しかし、今度は織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城籠城した(有岡城の戦い)。この時、主君の小寺政職も村重に呼応しようとしたために、10月、孝高は村重を翻意させるために有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に土牢に幽閉される。1年後の天正7年(1579年)10月19日、本丸を残すのみとなっていた有岡城は開城し、孝高は栗山利安に救出された。

天正8年(1580年)1月、秀吉は2年間の難攻の末にようやく別所長治の三木城を陥とした。小寺政職も、信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて鞆の浦へ逃がれ、大名としての小寺氏は滅んだ。織田家臣として秀吉の与力となり、名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている。 秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言して謝絶する。7月、秀吉より姫路城普請を命じられる。9月、孝高は揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石を与えられる。

天正9年(1581年)6月、前年に降伏した山名豊国を追放して3月に吉川経家を城主に迎え入れていた因幡国鳥取城へ、秀吉は再び出兵(第二次鳥取城攻め)し、これに孝高も加わる。策略により若狭国などの商人が周辺の米を買い占めた上で包囲して補給路を絶ち、更に城周辺の人家を孝高らの隊が襲撃、住民の多くを鳥取城に避難させた上で兵糧攻めを行ったため、城内の兵糧は短期間で枯渇、飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇(かつ)え殺し)、3ヶ月で降伏を余儀なくされた。天正8~10年頃に孝高は、毛利氏と結んだとされる淡路島由良城主・安宅河内守攻め、志知城から信長側に付いた阿波国の三好氏の支援などに、小西行長らとともに関わっている。

また天正10年(1582年)、毛利氏の武将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる。

豊臣家臣時代

高松城攻めの最中の6月2日、京都で明智光秀により本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたという逸話がある。 山崎の戦いでは天王山に布陣し、裾野の中川清秀隊を追い落とそうとする明智軍と戦闘を繰り広げた。9月頃より、毛利氏・宇喜多氏の国境線確定交渉を行い、蜂須賀正勝ととも毛利側の安国寺恵瓊と交渉した。

天正11年(1583年)、大坂城縄張りに当たる。秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の攻撃に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが守り抜いた。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの当初においては、大坂城で留守居役を務めている。黒田長政らは岸和田の戦い根来盛重鈴木重意長宗我部元親らの兵を破った。中入りの時期には、蜂須賀正勝らとともに本営の備えとして召喚され、小牧山包囲からの撤退戦となった5月1日の織田信雄徳川家康連合軍との二重堀砦の戦いで、木村重茲らと殿軍を務めている。7月、二重堀砦の戦いの最中の無断離脱を問われ改易された神子田正治山崎城を含む播磨国宍粟郡を与えられ5万石の大名となっている。

天正13年(1585年)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家軍に軍監として加わり、先鋒として諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退・降伏した。この頃に、孝高は高山右近蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信し、「シメオン」の洗礼名を与えられている。

天正14年(1586年)、従五位下勘解由次官に叙任された。10月、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として豊前国に上陸し、長野鎮辰の馬ヶ岳城他、時枝鎮継時枝城などを収容。宇留津城香春岳城などを陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。戦後は石田三成と共に博多の復興(太閤町割り)を監督している。

豊前国主

九州平定後の天正15年(1587年)7月3日、馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石(太閤検地後17万石以上)を与えられ、中津城の築城を開始。7月に佐々成政肥後国の統治に失敗し、隈部親永らによる国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前国でも野中鎮兼国人勢力が肥後国人に呼応し、伊予国への転封を拒否し3万石を改易されていた城井鎮房が挙兵して居城であった城井谷城を占拠するなど、大規模な反乱となる。長政が一旦は鎮圧に失敗する(岩丸山の戦い)などしたため、黒田氏は持久戦策をとり、兵站を断ち徐々に鎮圧する。天正16年(1588年)1月頃、中津城が完成。同年4月、嫡男・城井朝房と娘・鶴姫を人質に出して降伏するも城井谷城からの退去に応じなかった鎮房を、秀吉の指示もあり、長政が中津城で謀殺、郎党を攻め滅ぼす。

天正17年(1589年)5月、家督を嫡男の長政に譲り、孝高は秀吉の側近として引き続き仕える。中津城はほとんど長政に任せ、孝高は猪熊、伏見の京屋敷や天満の大坂屋敷を拠点とする。

天正18年(1590年)の小田原征伐では北条氏政氏直父子を小田原城に入って説得し、無血開城させる功績を立てた。秀吉は中津で留守居役をしていた長政に宛てた7月10日付の朱印状にて「小田原の儀、北条一類首を刎ねられ、御本意残所なく仰せ付けられ候、今度の首尾、勘解由、渕底候条、委曲申し遣わすべく候」と、孝高の活躍により戦いは終結したと、功績を称えている。この時、北条氏直から名刀「日光一文字」などの家宝を与えられている。

文禄元年(1592年)からの文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、加藤清正、小西行長などの暴走で思ったような指揮を執れず、病を理由に帰国した。文禄2年(1593年)3月15日、孝高は再び朝鮮に渡ったが、秀吉が画策した晋州城攻略計画に反対して石田三成、増田長盛らと対立し、秀吉を直接説得するために5月21日に東莱城より名護屋城へ帰国したといわれる(『フロイス日本史』)。しかし秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされ、朝鮮に追い返されている(『益田孝氏所蔵文書』)。同年6月の第二次晋州城攻防戦においての後藤基次らが用いた亀甲車の設計や、和式城郭の縄張りなどに携わっている。8月、剃髪して「如水軒円清」と号し、死罪を覚悟して長政らに遺書を残していたが、秀吉によって赦免されている。

慶長2年(1597年)からの慶長の役では総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣。第一次蔚山城の戦いにおいて、加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際、救援に駆けつけ1,500の兵で退けたといわれる(『黒田家譜』)が、過大宣伝であるという指摘もある。勝利した日本軍が戦線縮小を図ると、秀吉は軍令に従わず全羅道攻略を放棄したと見なして、黒田長政、蜂須賀家政、加藤清正、小西行長など、多くの武将が叱責や処罰を受けた(『看羊録』)。

関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。この頃、如水が上方の情勢を知らせてきた吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想した内容の書状が残されている。12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。

明くる慶長4年(1599年)1月、生前の秀吉が『大坂城中壁書』にて制限した大名間の婚姻と私的な交流に徳川家康や福島正則らが抵触すると、それを詰問した前田利家・石田三成ら大老・奉行衆との間に緊張が高まる。この時、如水は蜂須賀家政や藤堂高虎らと共に、家康方に参じる。3月、利家が病死すると、利家方であった加藤清正や細川忠興らを引き込んだ長政らが三成襲撃事件を起こす。家康の仲裁により、三成は領国の佐和山城に退去し、長政や家政の朝鮮での罪科は誤審と裁定された。

慶長5年(1600年)6月2日、家康が会津上杉景勝討伐を諸大名に命じる。6月6日、長政は家康の養女・栄姫と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。7月17日(8月25日)、石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前もって味方として中津城の留守居を務める密約を結び、行動した。石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日(10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後国に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之有吉立行は如水に援軍を要請。同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。

道中の諸城を攻略した後、9月13日(10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した(石垣原の戦い)。

9月19日(10月25日)、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。その後、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉臼杵城(佐賀関の戦い)などの諸城を落としていった。国東半島沖の豊後水道付近では水軍が、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い、焼き沈めている。10月14日、如水は兵5,000を柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ向かう。鍋島直茂勝茂父子が32,000の兵を率いて久留米城攻めに参戦する。10月16日、柳川城の支城である海津城を落とす。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し如水軍に加わる。そして11月に入り如水は宗茂、直茂、清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後国の水俣まで進軍したとき、家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。

晩年と葬儀

関ヶ原の合戦の後、徳川家康はまず長政に勲功として豊前国中津12万石から筑前国名島(福岡)52万石への大幅加増移封をした後、井伊直政や藤堂高虎の勧めもあり、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示するが如水はこれを辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、太宰府天満宮内に草庵を構えている。また、上方と福岡を行き来し、亡くなる半年前には所縁の摂津国有馬温泉に、療養滞在している。

慶長9年3月20日(1604年4月19日)の辰の刻、京都伏見藩邸(現在の京都市伏見区深草大亀谷敦賀町近辺)にて死去した。享年59。辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。死の間際、如水は自分の「神の小羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置いた。そして、

を遺言した。また、家臣の殉死を禁止している。

4月のある夜、午後10時半頃、博多の教会の宣教師たちは如水の遺骸を、博多の町の郊外にあって、キリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政がつきそった。如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が十字架を掲げ、直之の息子と、徳永宗也の甥が松明を持ち、ペロ・ラモン神父とマトス神父は祭服を、修道士たちは白衣を着ていた。墓穴は人が200も入るほどの大きなもので、その中に着いたのち宣教師たちは儀式を行い、それから如水を埋葬した。同じ夜、長政は宣教師のもとを訪れ、葬儀の労に謝し、翌日には米500石を贈った。その15日か20日後、長政は仏式の葬儀もおこなっている。

如水の死から2年後、如水の追悼記念聖堂が完成し、慶長11年3月21日(1606年4月28日)からその翌日にかけて宣教師たちは荘厳な式典を行った。それは聖堂の献堂式に始まり、2日目には如水の追悼ミサが執り行われ、これには長政や重臣たちも参列した。ミサの後、長政は宣教師たちを福岡城に招いて宴を設け、如水の妻・照福院(光)は教会のための特別な寄付をしたという。

後に長政は京都の臨済宗大徳寺に、父・如水を弔う為に塔頭・龍光院を建立。法要が行われた。同院は当初、大徳寺最大の塔頭で如水の霊廟の他、大阪天満の如水屋敷にあった書院、茶室等を移築。これが国宝茶席三名席の一つの密庵である。

また、如水の晩年の伝承に基づいた墓碑が各地に残存し、近年盛んに研究されている。

明治35年(1902年)11月13日 、従三位を追贈された。

伝承・後世の俗説

孝高に関する話は、ルイス・フロイスなどの宣教師、菩提寺の崇福寺住職・景轍玄蘇といった直接面識のあった人物の記述の他、『川角太閤記』、『常山紀談』、『故郷物語』、『名将言行録』、『黒田如水伝』(金子堅太郎著、1916年)などによる、伝聞を記述された物も多く知られる。備中高松城水攻め中国大返しは孝高の献策などといった話は、三代福岡藩主・黒田光之の命において寛文11年(1671年)に編纂を開始された『黒田家譜』(貝原益軒著、1688年)以降の逸話である。

また慶長5年(1600年)10月の吉川広家に宛てた書状に、「関ヶ原の戦いがあともう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しい戦いをするつもりであったが、家康の勝利が早々と確定したために何もできなかった」とある。現代に於ける「天下を狙った野心家・黒田如水」との俗説はここからきていると思われる。

孝高の隠居後の号である如水の由来について、ルイス・フロイスは次のように記している。

官兵衛は剃髪し、予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、

それらすべては今や水泡が消え去るように去って行ったと言いながら、ジョスイ、すなわち水の如し、と自ら名乗った。

— フロイス日本史
黒田如水の印章。

他にも『老子道徳経』の有名な一節である「上善如水」から引用されたという説もある。手柄を立てながらも、過度に報酬を要求しなかった姿勢などから老子の思想の鱗片が伺える。

孝高が用いた印章には、「IOSUI SIMEON/SIMEON IOSUI」と読めるものと、「QVAN」(または「QVÃN」)とも読めるものがあり、いずれも当時用いられていたポルトガル語式ローマ字表記による「シメオン じょすい/じょすい シメオン」、「くゎん(ひゃうゑ/びゃうゑ)」と考えられる。 なお当時、大文字のJとUを欠き、Iがiとjの、Vがuとvの大文字として兼ね用いられていた。

人物

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出典:wikipedia
2018/11/27 01:48

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