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龍驤_(空母)とは?

【基本情報】

【建造所】
進水まで:横浜船渠
艤装:横須賀海軍工廠
【運用者】
大日本帝国海軍
【艦種】
航空母艦
【前級】
加賀
【次級】
蒼龍
【母港】

【艦歴】

【計画】
昭和2年度(1927年)
【発注】
1929年5月29日製造訓令
【起工】
1929年11月26日
【進水】
1931年4月2日
【竣工】
1933年5月9日
【最期】
1942年8月24日沈没
【除籍】
1942年11月10日
【要目(竣工時)】

基準排水量
計画 8,000英トン
公試排水量
計画 10,150トン実際 11,733トン
満載排水量
実際 12,829トン
全長
180.0m
【水線長】
175.39m
【垂線間長】
167.2m
【水線幅】
20.32m
【深さ】
10.5m(上甲板まで)
20.60m(飛行甲板まで)
【飛行甲板】
158.6m x 23.0m エレベーター2基
吃水
計画 5.56m
ボイラー
ロ号艦本式重油専焼水管缶6基
【主機】
艦本式ギヤード・タービン(高低圧2組)2基
【推進】
2軸 x 275rpm
直径4.300m、ピッチ4.130m
【出力】
65,000馬力
【速力】
29.0ノット
燃料
重油:2,943トン
【航続距離】
10,000カイリ / 14ノット
【乗員】
竣工時定員 916名
【搭載能力】
飛行機用ガソリン 185トン
【兵装】
40口径八九式12.7cm高角砲 連装6基12門
九三式13mm機銃4連装6基24挺
【装甲】
舷側:46mmNVNC鋼
搭載艇
竣工時:10隻
改装後:11m内火艇1隻、10m内火艇1隻、11m内火ランチ3隻、9mカッター2隻、9m通船1隻、6m通船1隻
搭載機
計画(常用+補用)
九〇式艦上戦闘機 12+3機
八九式艦上攻撃機 24+9機
計 36機、補用12機
#搭載機も参照
【その他】
式転輪安定儀 1基

龍驤(りゅうじょう/りうじやう)は、大日本帝国海軍航空母艦

特徴

当初の計画では格納庫1段で航空機約24機を搭載、基準排水量7,400英トン、公試排水量9,800トン、速力30ノットを計画していた。要目値は「軍艦基本計画資料」で(公試)排水量9576.65トン、水線長175 m、水線幅18.5 m、吃水5.5 mの値もある。

しかし、建造中に格納庫を2段にして搭載機を36機に増し、復原性確保のために小型のバルジを装着した。竣工時には当初の計画よりだいぶ排水量を増し、公試状態で11,733トンになっていた。さらに公試中の転舵の際には船体が大きく傾き、救命艇が波に叩かれて破損した。安定性が問題にされたが直ちに改装されることはなく、重油の使用制限をするなどして一応就役した。

龍驤という名称は、瑞祥神獣の「龍」とアガルまたは疾行のとき勢い強く首の揚る貌を意味する「驤」を組み合わせて「龍の空に上ぼるが如く威勢がよい」を意味する中国語である。「龍驤虎視、苞括四海」や「龍驤麟振、前無堅敵」等の句に使われ、龍驤将軍の官位(南宋)もあった。日本海軍の軍艦としては、明治時代の装甲コルベット龍驤に続く2隻目。

構造

艦首方向から見た龍驤。
艦尾方向から見た龍驤。

航空母艦の船体は発着艦の際に高速が必要であり、搭載機数が多いことも望まれるので船体の規模もある程度の大きさが望まれる。駆逐艦は高速艦型であるが航空母艦としては船体が小さすぎ、戦艦のそれは規模に問題はないが速力が低かった。日本の航空母艦は巡洋艦の船体をベースに改良して発展していったと考えて良く、鳳翔の船体は5,500トン型軽巡洋艦の拡大型で、龍驤の船体は青葉型重巡洋艦に準じた船体とされた。

青葉型の船体に比べて違いもあり艦首の前傾が強く、また舷側のフレアがいくぶん強くて艦尾まで続いている。格納庫を設けた中央部分はシアーがなくフラットで、日本の重巡に特徴的な波形甲板は艦首と艦尾にわずかに面影がある程度である。バルジ装着前の船体は水線幅18.5mに対し最大幅は上甲板の20mであり、1段目の格納庫側壁は舷側をそのまま延長したような傾斜が付いている。

龍驤の外観における最大の特徴は、比較的小型の船体に収まりきらないほどの大型の上部構造物を持つことである。正面から見た際には、細身の船体の両脇に取り付けられた高角砲の基部、二段の格納庫などから逆三角形の奇観を呈している。艦首と艦尾の乾舷が低く、穏やかな海面で艦首波を高く吹き上げる写真が残っている。特に艦尾の乾舷は著しく低く、第4艦隊事件の際には波浪により格納庫後端のを破壊され、一時は危機に瀕した。それ以外の特徴は、鳳翔以降の運用実績により何隻か建造されたフラッシュデッキ(全通式平甲板)型航空母艦と大して変わらない。 艦橋構造物は飛行甲板上にはなく、外洋航海に支障をきたさない飛行甲板最前部直下に設置されていた。飛行甲板前縁は艦橋までしか伸びておらず、それより前方は低い乾舷の船体となっている。飛行甲板長156.5 m、幅23 mと、航空母艦の中では飛行甲板が小さい。

エレベーターは2基で、前部エレベーターは長さ11.1m、幅15.7mの横長の長方形、後部のそれは長さ10.8m、幅8mの縦長の長方形だった。後部エレベーターには鳥居型の上部覆が設置された。後部のものは前部のものより小型であった。煙突は第二次改修後、右舷中央部に下向きに付けられた。無理な設計のため重心が高く、急旋回ないし波浪によって、飛行甲板のエレベーターの穴から水平線が見えるほど傾斜した。千葉県館山沖の公試においても、全速航行時にを切った際に大傾斜を起こした。 1938年(昭和13年)8月には当時の艦長が、運用上の不便点が多いため「飛行甲板の25m延長」「後部エレベーターを7.79m×10.75mから12m程度に拡大」という要望を出している。しかし復元力の問題もあり、簡単に実現できるものではなかった。90cm探照燈が前部エレベーターの直前に左右1基ずつ隠顕式に装備された。

機関は高雄型重巡洋艦の半分の機関を搭載した。つまり缶(ボイラー)6基、タービン2基を搭載し、蒸気圧力20kg/平方cmで温度は飽和蒸気、2軸推進だった。当初の計画では30ノットを予定した。

竣工時の煙突は飛行甲板よりだいぶ低い位置から舷側に出て、楕円柱の形状をひねりながら後上方を向く、独特な形状をしている。これは格納庫が1段だった初期計画時代の位置をそのまま継承したものという考察もある。後の改善工事で多くの日本の空母が装備した下向き煙突に変更された。

缶室と機械室の間に鳳翔と同型の須式転輪安定儀(ジャイロ・スタビライザー)1基を搭載、この安定儀は三菱長崎造船所で制作された。床面積を稼ぐ為に格納庫は甲板幅いっぱいになっており、前後交通用の舷外通路が設置された他、通風路などの艤装品も舷外に設置された。倉庫も高角砲支柱と舷側の間を囲って設置され、本艦独特の特異な支柱形状となっている。マストは左舷前部に1本の信号マスト、左舷後部に無線マスト1本、右舷は無線マストが前部、後部に各1本設置された。何れも起倒式になっている。装甲は弾火薬庫が1万トン型重巡洋艦と同様、機関室は駆逐艦搭載砲の防御とし、機関部舷側で46mmNVNC鋼が使われた。

設備

格納庫2段の平甲板型空母で羅針艦橋は飛行甲板最前の直下に置かれた。格納庫の後端は航空機搬入用に開放式になっていた。飛行甲板は長さ158.6m、最大幅23.0m。前端から29.9mの位置から前方に28.7mの長さで1度の下り傾斜が付けられ、中央付近には60.9mの長さで0.35度の上り傾斜が付けられていた。ただ、その傾斜はほとんど目立たない。

遮風柵は前面遮風柵に加え、海軍航空本部の強い要請により側面遮風柵も装備した。

着艦制動装置の制動索は、呉海軍工廠広海軍工廠により1933年(昭和8年)に開発されたばかりの電磁式の呉式一型を竣工時に2本装備した。当時はまだ試行錯誤の時代であり、その後の1935年1月からは呉式一型3本を位置を変えて装備し、まもなく呉式滑走制止装置も1組装備した。同年5月からは呉式三型1本、呉式四型1本、フェー式1本を追加装備した。8月からは着艦制動装置は呉式一型1本、同三型1本、同四型1本、同四型改3本の計6本の制動索を装備、滑走制止装置は引き続き呉式1組を装備している。

対空兵装として12.7cm連装高角砲を6基を舷側スポンソンに搭載、12.7cm高角砲は空母として初めての搭載艦となった、機銃は九三式13mm4連装機銃を6基搭載、13mm4連装機銃を搭載した空母は龍驤のみだった。

搭載機

当初の計画では約24機、格納庫を2段にして九〇式艦戦12+3機、八九式艦攻24+9機、計常用36機+補用12機の計画になった。竣工から1935年(昭和10年)まで内令兵で定められた機種とその数は以下の表の通り。

【日付】
【艦戦】
【艦爆】
【艦攻】
【艦偵】
【計】
【備考】
出典
1933.4.27 | 三式艦戦6+2機 |  | 一三式三号艦攻9+3機 |  | 15+5機 |  | 
1933.10.15 | 三式艦戦6+2機
九〇式艦戦6+3機 |  | 一三式三号艦攻12+5機 | 九〇式艦偵二型6+2機 | 30+12機 |  | 
1934.6.26 | 九〇式艦戦9+3機 |  | 一三式三号艦攻12+5機 | 九〇式艦偵二型6+2機 | 30+12機 |  | 
1934.12.3 | 九〇式艦戦12+4機 |  | 九二式艦攻12+6機 | 九〇式二号艦偵三型6+2機 | 30+12機 |  | 
1935.5.7 | 九〇式艦戦12+4機 | 九四式艦上軽爆撃機15+5機 |  |  | 27+9機 |  | 

各文献による飛行機定数は以下の通り。

【日付】
【艦戦】
【艦爆】
【艦攻】
【艦偵】
【計】
【備考】
出典
1934.12.1 | 12+4機 | 6+2機 | 12+6機 |  | 30+12機 |  | 
1935.12.1 | 12+4機 | 18+6機 |  |  | 30+10機 |  | 
1937.10.7 | 12+4機 | 12+4機 | 3+1機 |  | 27+9機 |  | 
1939.9.30 | 九六式艦戦
10機 | 九六式艦爆
16機 | 九七式一号艦攻
8機 |  | 34機 |  | 
1939.11.1 | 9+3機 | 12+4機 | 6+2機 |  | 27+9機 |  | 
1940.11.15 | 9+3機 |  | 24+2機 |  | 33+5機 |  | 
1941.12.1 | 12機 |  |  |  | 12機 |  | 
1941.12.8 | 24+0機 |  | 9+0機 |  | 33+0機 |  | 
1941.12.31 | 18+4機 |  | 12+4機 |  | 30+8機 |  | 
1942.1.1 | 22機 |  | 16機 |  | 38機 |  | 
1942.4.1 | 16機 |  | 21機 |  | 37機 |  | 
1942.4.10 | 12+4機 |  | 18+2機 |  | 30+6機 | 艦戦は零戦 | 
1942.6.1 | 16機 |  | 20機 |  | 36機 |  | 
1942.7.14 | 24+0機 |  | 9+0機 |  | 33+0機 |  | 
1942.8.1 | 24機 |  | 9機 |  | 33機 |  | 

就役時に実際に搭載したのは九〇式艦戦12機、一三式艦攻6機、九〇式艦偵6機の計24機、補用8機。1934年12月に九〇式艦偵に代わって九四式艦爆6機を搭載した。1937年8月より日華事変に参加、9月より九六式艦戦を搭載した。

開戦時は九六式艦戦18機、九七式艦攻12機の計30機を搭載した。最終時の搭載機は零戦24機、九七式艦攻9機の計33機と言われている。

尾翼マーキングは竣工時より飛行機呼称番号の「ホ」を使用、昭和12年頃以降は連合艦隊所属機が記入する飛行機識別符号で「R」を使用した。同じく1940年(昭和15年)11月から1941年(昭和16年)4月まで「GI」、1942年(昭和17年)7月まで「GIII」、最終時は「DIII」を使用した。

歴史

建造

下部格納庫外壁の取付とバルジを装着中(1931年10月20日、横須賀第4船渠)
竣工2ヶ月前、艤装工事中(1933年3月20日、横須賀第4船渠)

第一次世界大戦以降、列強各国の建艦競争は、日本の八八艦隊計画やアメリカダニエルズ・プラン等に代表される様に過熱化の一途を辿っていた。1921年(大正10年)11月11日イギリスの呼びかけによってワシントン会議で議決された海軍軍縮条約は、過熱化する列強の建艦ペースに一定の枠組みを与えることを目的とし、一応の成果を得ることに成功する。主力艦に対する枠組みと共に補助艦艇にも一定の枠組みを与えたのがこのワシントン海軍軍縮条約で、補助艦艇としての航空母艦もその例外ではなく、日本に割り当てられた排水量は80,000トンとなった。

そこで、大日本帝国海軍は同条約により廃艦予定だった天城型巡洋戦艦2隻(赤城天城)を空母への改装対象として割り当てた(天城は後に関東大震災での被災により竜骨が大破したため対象を加賀型戦艦1番艦加賀に変更)。そして排水量の大半を消費してしまったので、以降の空母は条約枠外である10,000トン未満の艦を戦力化する建造計画を立てた。その候補となったのが水上機母艦若宮の代艦として計画されていた新造水上機母艦だった。海軍軍令部海軍省に対し、水上機母艦を航空母艦として建造するよう計画の変更を要求した。第五十二帝国議会にて認められ、計画公試排水量9,800 t、搭載機数24機、速力30ノットの空母龍驤の建造が開始された。当初は1932年(昭和7年)3月末の完成を目指した。

1929年(昭和4年)11月26日、龍驤は起工される、前述の設計変更により建造に時間がかかった。詳細設計を担当した松本喜太郎は、改造指示のたびに重心点が上昇していくため、徐々に不安になっていったと回想している。

1930年(昭和5年)、ロンドン条約が締結され、10,000トン以下の航空母艦にも制限が課せられたため、10,000トン未満で建造する意味がなくなり、これまでの計画のうち排水量で制限されていた部分の見直しを図ることになった。そのため格納庫は一段から二段に拡張され、36機(+補用12機)の航空機が搭載可能になったが、その分の低下した浮力を補うためのバルジが増設された。武装も当初は鳳翔と同じく50口径三年式14cm砲4門の装備を予定していたが、重量軽減のため12.7cm高角砲に変更された。その後の性能改善工事の結果、基準排水量は10,000トンを上回ることとなった。

また、改修時に新設されたバルジ内に設けた予備の重油タンクバラスト代わりにしていたが、予備タンクから先に燃料を使用すると急旋回時に艦の傾斜が激しくなり転覆する危険性が出てきたので、結局はそのタンクから燃料を使用することはできなかった。その後の復原性能改善工事では上部の重量軽減策として高角砲の数を連装6基12門から連装4基8門に減らし、船底にとしてバラストキールを設けるなどの処置が施された。

第四艦隊事件

1931年(昭和6年)4月2日、進水。1933年(昭和8年)5月9日、竣工。艦の諸元は、全長167.2 m、全幅18.5 m、排水量7100トン、速力25ノットなど、実際に比べて少な目に発表している。呉鎮守府に所属。就役時の龍驤の搭載機は九〇式艦上戦闘機12機、一三式艦上攻撃機6機、九〇式二号艦上偵察機6機であった。後に偵察機の代わりに九四式艦上爆撃機6機を搭載した。

1934年(昭和9年)3月、水雷艇が転覆する友鶴事件が発生し、龍驤も呉海軍工廠で同年5月26日から8月20日まで、以下の工事が行われた。

1935年(昭和10年)9月、第四艦隊事件に遭遇、艦橋を初めとして大きな被害を受けた。復原性能改善工事で艦首の乾舷が減少しており、艦橋前面が波に叩かれて艦橋前壁が大破、前面にあった1.5m測距儀も流失した。また舷外通路が波に叩かれて破損した。後甲板から浸入した波浪が龍驤の格納庫後端の扉を屈曲破壊し、格納庫が浸水して危機に瀕した。

1935年10月11日から翌1936年(昭和11年)5月31日まで損傷復旧工事を呉海軍工廠で行った。

後甲板も艦首と同様に甲板を1層あげる必要があったが、復原性能維持の観点から難しく、また短艇の運用のためには格納庫を含む大改造が必要となることからも断念された。

支那事変

1935年頃の龍驤。性能改善後は12.7 cm 連装高角砲は片舷2基ずつとなった。
九四式艦上爆撃機と龍驤(1938年)

1937年(昭和12年)7月、支那事変が発生。8月、龍驤も参加。AP通信は日本軍空母3隻(加賀、鳳翔、龍驤)の活動を世界に報じた。艦載機を九五式艦上戦闘機九六式艦上爆撃機九六式艦上攻撃機に更新しつつ、青島攻略作戦、厦門攻略作戦等、各方面の作戦に従事する。また空母赤城、加賀の改装や補修に合せ、随時第一航空戦隊第二航空戦隊に編入されて行動した。 当時三等航空兵として乗艦した前田勲によれば、龍驤は勤務状況が激しく厳しい艦であり、「赤鬼、青鬼でさえ龍驤と聞いただけで後ずさりする」と噂されていたという。1939年(昭和14年)4月当時に龍驤の機関科に配属されていた上村嵐によれば、猛烈な夜間の発着艦訓練により、毎月殉職者を出していたという。

1941年(昭和16年)4月、第四航空戦隊に編入され、司令部からは「小型だが搭載機数も多く使い勝手が良い」という好評価をされている。だが、対米戦争を目前にして空母に配属する搭乗員が不足し、連合艦隊と軍令部は第三航空戦隊(鳳翔)・第四航空戦隊(龍驤、春日丸)から熟練搭乗員を引き抜き、第一航空戦隊と第二航空戦隊に配備、第三、第四航空戦隊には補充しなくても差しつかえないと判断した。

太平洋戦争

フィリピンの戦い

1941年12月、太平洋戦争開戦、龍驤は春日丸級特設空母(大鷹型空母)春日丸(大鷹)、駆逐艦汐風と共に第四航空戦隊に所属していた。旗艦龍驤には司令官角田覚治少将が乗艦していた。龍驤航空隊・春日丸航空隊には零式艦上戦闘機(零戦)の配備が間に合わず、旧式の九六式艦上戦闘機(九六艦戦)を搭載している。開戦時の龍驤航空戦力は九六艦戦18機、九七式艦上攻撃機(九七艦攻)12機であった。主力空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)は真珠湾攻撃に投入され、第三航空戦隊の空母2隻(鳳翔、瑞鳳)は主力戦艦部隊(長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城)護衛のため内地待機、春日丸は低速のため実戦運用はできず、南方方面最前線に投入された空母は龍驤1隻のみであった。

第四航空戦隊(「龍驤」、「汐風」)は比島部隊南比支援隊の一部として緒戦のフィリピンの戦いに参加した。 「龍驤」は12月6日にパラオから出撃し、12月8日にダバオを空襲した。空襲は九六式艦上戦闘機9機と九七式艦上攻撃機13機によって行われた。攻撃隊はまずダバオの飛行場を爆撃し、次いでマララグ湾で水上機母艦「ウィリアム・B・プレストン」と飛行艇を攻撃してPBYカタリナ飛行艇2機を破壊。攻撃機1機が不時着水し、搭乗員は駆逐艦「黒潮」に救助された。続いて攻撃機2機、戦闘機3機からなる第二次攻撃隊がダバオの油タンクおよび商船1隻を攻撃。戦闘機1機が失われた。「龍驤」による空襲はフィリピンに対する日本軍の空襲で最初に行われたものであった。12月12日に「龍驤」はレガスピー上陸を支援し、その際商船1隻を爆撃した。12月14日にパラオに帰投した。

続いてダバオ攻略に参加。攻略参加艦船は12月16日から18日にパラオから出撃した。12月18日、「龍驤」の艦攻は飛行艇と共にアメリカ潜水艦「スキップジャック」を制圧した。12月19日、艦攻6機でサンオーガスチン岬灯台の見張所と倉庫を爆撃した。12月20日、上陸が行われた。「龍驤」機はセレベス海の索敵を行い、発見したタンカーに対して攻撃機延12機による攻撃を行ったが沈めるには至らなかった。翌日、このタンカーはミンダナオ島南端チナカ岬で座礁しているのが確認された。12月24日、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻がマニラ湾から出撃したとの情報がもたらされた。巡洋艦捜索中、「龍驤」の索敵機はホロ島南方150海里付近で大型貨物船を発見攻撃し、炎上させた。12月25日、パラオへ帰投途中の「龍驤」と「汐風」は「スキップジャック」からの攻撃を受けた。「スキップジャック」は魚雷3本発射したが命中しなかった。12月26日、「龍驤」はパラオに帰投した。

スマトラ、ジャワ攻略

第四航空戦隊は12月26日にいったん南方部隊本隊に編入された後1942年1月3日に馬来部隊に編入され、マレー方面の作戦に参加した。12月31日、春日丸は連合艦隊直属となり、第四航空戦隊から外れた。「龍驤」、「汐風」は第三航空部隊となった。1月7日、「龍驤」はカムラン湾に入港した。

1月23日、第三航空部隊はカムラン湾から出撃。第三航空部隊には駆逐艦「敷波」が加わり、アナンバス基地占領を支援した。「龍驤」搭載機は索敵などを行なった他、1月24日には艦攻4機でテランパ無電所を爆撃した。また、1月28日には「龍驤」の艦攻は北ボルネオのクチンへ進出する零戦の誘導を行なった。1月30日、カムラン湾に帰投。第三航空部隊(「龍驤」、「汐風」、「敷波」)は次はバンカ島およびパレンバン攻略作戦(L作戦)に参加することとなった。

攻略部隊は2月9日から2月11日にかけてカムラン湾から出撃。第三航空部隊は主隊(重巡洋艦「鳥海」、第七戦隊など)とともに2月10日に出撃した。 「龍驤」は艦攻によるバンカ海峡方面での攻撃で、2月13日には商船1隻撃沈、2隻炎上、1隻大破、1隻中破、1隻擱座、2隻小破を、2月14日には魚雷艇母艦1隻撃沈(「最上」水偵と協力)、特務艦1隻撃沈、砲艦1撃沈、敷設艦1隻撃破、商船1隻撃沈、1隻擱座を報じた。『日本空母戦史』には2月13日に「龍驤」艦攻はパレンバンからバタビアへ逃走中のタンカー船団を攻撃し、タンカー「メルーラ (Merula)」(8228トン)と「マンバンタラ (Manvantara)」(8237トン)が被弾炎上し沈没、弾薬船「デリーモアー」も沈んだ、とある。

2月15日、「鳥海」搭載機がガスパル海峡を北上する戦艦1隻を含む艦隊発見を報告。これを受け、搭乗員の練度が低かったことから角田少将は反復攻撃をおこなうため敵艦隊の方向へ接近し、4次に渡って艦攻による爆撃を行なった。未帰還機はなかった。龍驤艦攻が魚雷攻撃ではなく水平爆撃を実施した理由について、吉富茂馬(四航戦航空参謀)は、魚雷の調整が間に合わなかった事、爆撃には自信がなかったが雷撃は更に自信がなかった事を挙げている。角田少将は敵巡洋艦2隻が火災を起こした、と報告した。また、基地航空隊も攻撃を行った。攻撃した敵艦隊は重巡洋艦「エクセター」、軽巡洋艦「デ・ロイテル」、「ジャワ」、「トロンプ」、「ホバート」、駆逐艦8隻からなるもの(指揮官カレル・ドールマン少将)であった、一連の攻撃ではアメリカ駆逐艦「バーカー」と「バルマー」が至近弾で損傷したのみであったが、ドールマン少将は日本軍攻撃を断念しバタビアへ向かった。

2月17日正午、最上艦載機(水偵)はガスパル海峡南方に駆逐艦1隻・大型商船1隻を発見する。陸攻部隊が商船スロエト・ヴァン・ベレルを、龍驤艦攻10機がヴァン・ガレン級駆逐艦のヴァン・ネスを撃沈した。他に商船1隻擱座、1隻大破、PBYカタリナ飛行艇1機撃墜を報じたのち、18日に龍驤は北へ反転しベトナムサンジャックへ向かった。

2月中旬、今村均陸軍中将率いる陸軍第16軍主力が乗船した輸送船56隻の大船団がカムラン湾を出撃。これを迎撃すべく、再びドールマン少将率いるABDA連合艦隊が出撃した。陸軍大船団を護衛する第五水雷戦隊司令官(司令官原顕三郎少将:旗艦名取)が指揮する第三護衛隊は第七戦隊をはじめ附近の部隊に掩護を要請し、第四航空戦隊も「尚龍驤モ出来得レバ敵艦艇攻撃可能ナル如ク機宜行動協力ヲ得度」と協力を求められている。 第十一航空艦隊(基地航空隊)のジャワ方面航空攻撃は不調におわったため、2月27日、南方部隊指揮官近藤信竹中将(第二艦隊司令長官、旗艦愛宕)は馬来部隊指揮官小沢中将に龍驤および第七戦隊の蘭印部隊編入を命じた。小沢中将は第七戦隊・第三水雷戦隊・龍驤の分派を了承、第三護衛部隊に協力させた。これを受けて蘭印部隊指揮官高橋伊望中将(第三艦隊司令長官:旗艦足柄)は第七戦隊(司令官栗田健男少将:最上型重巡洋艦4隻)と龍驤をバダビヤ攻略部隊に編入した。カムラン湾で待機していた龍驤は27日午後サンジャックを出発して南下した。

2月下旬、第五戦隊・第二水雷戦隊・第四水雷戦隊とABDA艦隊の間にスラバヤ沖海戦が生起。同海戦終盤の3月1日、龍驤の攻撃隊(九七艦攻6機)は逃走する米駆逐艦ポープに水平爆撃を実施、ポープを航行不能にさせ46時間続いた海戦に終止符を打った。夕刻には艦攻6機がジャワ島中部セマラン港を爆撃し、1万トン級商船1隻を炎上・擱座させた。3月2日、「龍驤」搭載機はオランダ船「Sinabang」(1799トン)を沈めた。また、同日連合軍哨戒艇を高射砲の水平射撃により撃沈した。

インド洋での作戦

ジャワ島・スマトラ島・インドネシア方面各島の攻略成功後、龍驤は再び馬来部隊として行動した。この頃の小沢中将は馬来部隊独自の艦隊行動を計画しており、山本長官や近藤長官の許可を得て、南雲機動部隊のセイロン方面機動作戦に呼応させることにした(ベンガル湾機動作戦)。4月1日、龍驤を中核とする馬来部隊機動部隊はマレー半島西岸メルギー(en:Myeik, Burma)を出撃。同機動部隊は中央隊(鳥海、由良、龍驤、夕霧、朝霧)、北方隊(熊野、鈴谷、白雲)、南方隊(三隈、最上、天霧)、補給隊(綾波、汐風、日栄丸)、警戒隊(川内、第11駆逐隊)という編制であった。4月5日以降、龍驤は艦隊前方に進出して索敵攻撃を実施する。4月6日以降、龍驤航空隊は大型商船1隻・中型商船1隻撃沈、大型商船4隻大破炎上または航行不能(漂流後の1隻を北方隊が撃沈)、小型商船2隻大破、地上施設空襲により油槽2個爆破、倉庫2棟爆破を記録。また龍驤の高角砲による敵輸送船への砲撃を実施。由良、龍驤、夕霧は蘭輸送船2隻、英武装商船1隻(6000トン)を共同で撃沈した。 4月10日附で鳥海、第七戦隊、第三水雷戦隊、第四航空戦隊は馬来部隊から外され、内地帰投を命じられた(12日、第一南遣艦隊旗艦は鳥海から香椎へ変更)。各隊各艦は4月13日にシンガポールを出発、22日にそれぞれの母港へ帰投した。

アリューシャン作戦

詳細は「アリューシャン攻略作戦」を参照

4月、従来の九六艦上戦闘機にかわり零式艦上戦闘機が配備され、龍驤の航空戦力は零戦16機、九七艦攻21機となった。5月、飛鷹型航空母艦隼鷹が第四航空戦隊に編入された。また5月20日附で、第四航空戦隊(龍驤、隼鷹)、第四戦隊第2小隊(摩耶、高雄)、第一水雷戦隊(旗艦阿武隈、第6駆逐隊《響、暁、雷、電》、第21駆逐隊《若葉、初霜、子日、初春》、第7駆逐隊《潮、曙、漣》)は北方部隊に編入される。龍驤の所属は第二機動部隊で、引き続き角田司令官のもと、四航戦(隼鷹)、重巡洋艦2隻(摩耶高雄)、駆逐艦3隻()、補給船帝洋丸と行動を共にした。5月26日、第二機動部隊は大湊を出港して北方海域に進出した。

1942年(昭和17年)6月、アリューシャン攻略作戦に参加した。各艦・各部隊は第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将:旗艦那智)の指揮下で行動した。6月5日、龍驤の零戦隊がウナラスカ島ダッチハーバーを空襲、四航戦は零戦1、艦爆4を失った。

詳細は「アクタン・ゼロ」を参照

この時、龍驤の航空隊第二小隊二番機の零戦(古賀忠義一飛曹)が被弾し未帰還となった。古賀は不時着地点に指定されていたアクタン島の湿地に不時着したが衝撃で死亡、僚機は零戦の残骸を破壊せずに帰艦した。後日、古賀の零戦(製造番号4593)はアクタン・ゼロと呼ばれ、アメリカ軍に回収されて徹底的に解析される。アクタン・ゼロの研究は、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機の対ゼロ戦戦術確立に大きく貢献した。

同時に実行されたミッドウェー作戦に従事していた南雲忠一中将率いる南雲機動部隊はアメリカ軍機動部隊(空母エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウン基幹)と交戦、主力空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)及び重巡三隈が撃沈され敗北した。6月9日、ミッドウェー作戦に従事していた攻略部隊主隊(指揮官近藤信竹中将)の大部分が北方部隊に編入され、アリューシャン方面に向かった。6月14日、第四航空戦隊(龍驤、隼鷹)は、編入された空母瑞鳳と合流した。15日には本土で待機していた第五航空戦隊の空母瑞鶴と駆逐艦浦風も呉を出港、23日大湊に到着した。

6月24日、龍驤は大湊に入港し28日には他部隊と共に再出撃した。北方部隊各艦はアメリカ軍機動部隊の出現に備えて北方海域を哨戒。しかしアメリカ軍機動部隊は来襲せず、逆にアメリカ潜水艦の行動は活発化する一方だった。7月5日にはアメリカの潜水艦グロウラーの雷撃により第18駆逐隊の3隻が一挙に戦闘不能となった(が沈没、不知火が大破航行不能)。さらに第21駆逐隊の駆逐艦子日もアメリカの潜水艦トライトンの雷撃で撃沈され、北方部隊は駆逐艦2隻沈没・駆逐艦2隻大破という損害を受けた。危機感を覚えた第五艦隊は増援部隊に本土回航を指示し、各艦・

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出典:wikipedia
2020/08/13 14:55

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