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17世紀とは?

この項目「17世紀」は途中まで翻訳されたものです。(原文:英語版 "17th century" 09:56, 16 January 2016 (UTC))
翻訳作業に協力して下さる方を求めています。ノートページ履歴、翻訳のガイドラインも参照してください。要約欄への翻訳情報の記入をお忘れなく。(2016年1月)
千年紀: 2千年紀
世紀: 16世紀 - 17世紀 - 18世紀
十年紀: 1600年代 1610年代 1620年代 1630年代 1640年代
1650年代 1660年代 1670年代 1680年代 1690年代
ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。
スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。
ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。
アイザック・ニュートン。主著『プリンキピア』で万有引力絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。
レンブラント・ファン・レインの「テュルプ博士の解剖学講義」。この時代はオランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。
チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。
三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。
ピューリタン革命。国王と議会の対立はイングランドを巻き込んだ内乱となり、その渦中で国王は処刑された。近年ではスコットランドアイルランドを含めた三王国戦争の名でも知られる。画像はヴァン・ダイクによる「国王チャールズ1世の三面肖像画」。
ロンドン大火1666年9月1日に起こった火事はロンドン市内の8割を炎上させる惨事となった。画像は炎に包まれた市内を描いた記録画で、左手にロンドン橋、右手にロンドン塔、そして遠方にセント・ポール大聖堂が見える。
バロックの栄光。対抗宗教改革でカトリック教会は宗教的感情に訴える総合芸術「バロック」を作り出した。画像はローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会コルナロ礼拝堂に置かれたベルニーニの「聖テレジアの法悦」。
ピーテル・パウル・ルーベンスフランドル出身の画家で壮大なスケールと肉感のある迫真の描写により王侯たちに愛され「王の画家、画家の王」と呼ばれた。画像は「フランス王妃マリー・ド・メディシスの生涯」の連作から王妃がマルセイユ港に到着した場面(ルーヴル美術館蔵)。
第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。
モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。
スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。
ロシア皇帝ピョートル1世の大使節団。西欧の科学技術導入のために派遣したもので皇帝自らが随行員として参加している。画像はムスチスラフ・ドブジンスキーが1910年に描いたオランダのアムステルダムで船大工の仕事に勤しむピョートル1世の歴史画。
旅行家エヴリヤ・チェレビ。首都イスタンブール生まれのチェレビはその生涯を通じてオスマン帝国各地を訪ね歩き、17世紀の帝国最盛期の風俗や習慣を『旅行記』で克明に記録している。画像はハンガリーのエゲル城に再現されたチェレビの彫像。
エスファハーンの栄華。サファヴィー朝シャーアッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。
イスラム国家間の平和。シ-ア派とスンナ派という立場はあれど、隣接するサファヴィー朝とムガル朝の関係はおおむね良好であった。画像はムガル皇帝ジャハーンーギルに歓待されるサファヴィー朝のシャー・アッバース1世。
タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。
絶頂から衰退に向かうムガル帝国。皇帝アウラングゼーブの長い治世にこの帝国の領土は最大に拡がった。しかしイスラム教徒優先の政治は不満や衝突を惹起し、早くもこの皇帝の晩年には衰退の兆しが見え始めた。画像は孔雀の玉座に座るアウラングゼーブ帝。
アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。
ラサポタラ宮。ラサにチベット仏教の教主ダライ・ラマ5世を頂点とするガンデンポタン体制が成立し、アジア各地にチベット仏教の信仰が拡がった。
イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓
清初三大師。明朝から異民族である清朝の支配交代は漢人士大夫に大きな衝撃を与えた。この状況で黄宗羲顧炎武王夫之は清朝に仕えることなく経世致用を探り考証学の基礎を築いて三大師と呼ばれた。画像は「東洋のルソー」とも呼ばれた黄宗羲の肖像画。
康熙帝。この皇帝の時代までに清は南明政権を倒し、三藩の乱も制圧して満州人の中国支配を確立した。康熙帝は賢君英主として知られ、近侍したイエズス会士ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。
紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。
台湾鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。
江戸幕府の成立。徳川家康関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。
日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。
歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。
新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。
海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。
海賊の黄金時代西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。
スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。
ケープ植民地。オランダ人ヤン・ファン・リーベックがこの地に到達して以来、白人系による植民地が形成された。画像は1683年にテーブルマウンテンを背後に広がるケープタウンを描いたもので、港には国旗を掲げるオランダ船が見える。

17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀

目次

  • 1 17世紀の歴史
    • 1.1 17世紀の科学革命
    • 1.2 魔女狩りのピークと衰退
  • 2 できごと
    • 2.1 1600年代
    • 2.2 1610年代
    • 2.3 1620年代
    • 2.4 1630年代
    • 2.5 1640年代
    • 2.6 1650年代
    • 2.7 1660年代
    • 2.8 1670年代
    • 2.9 1680年代
    • 2.10 1690年代
    • 2.11 1700年代
  • 3 人物
    • 3.1 ヨーロッパ
      • 3.1.1 スペイン・ポルトガル
      • 3.1.2 イングランド・スコットランド
      • 3.1.3 イタリア
      • 3.1.4 神聖ローマ帝国とドイツ領邦
      • 3.1.5 フランス
      • 3.1.6 フランドル・オランダ
      • 3.1.7 北欧
      • 3.1.8 東欧
      • 3.1.9 ロシア
    • 3.2 南北アメリカ
    • 3.3 サハラ以南のアフリカ
    • 3.4 北アフリカ・西アジア・中央アジア
    • 3.5 インド・東南アジア
    • 3.6 オセアニア
    • 3.7 東アジア
      • 3.7.1 明・清
      • 3.7.2 ジュンガル
      • 3.7.3 チベット
      • 3.7.4 モンゴル
    • 3.8 日本
  • 4 フィクションのできごと
  • 5 脚注
  • 6 関連項目
  • 7 外部リンク

17世紀の歴史

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年4月)

この時代のヨーロッパでは小氷期による世界レベルでの寒冷化が原因で17世紀の危機と呼ばれる混乱が生じ、各国で飢饉戦争内乱が相次いだ。この結果、イギリスでは清教徒革命名誉革命が起きて議会政治が、フランスではルイ13世によって絶対王政が確立された。この混乱を免れたオランダ自由貿易により大いに栄えた。ロシア帝国の前身となるロシア・ツァーリ国は未だ西欧化を受けていなかったが、旧宗主国のモンゴル帝国の後継政権諸国を下しつつ東方に勢力を伸ばし、本格的にシベリアで世界最大の版図を築いた。東欧ポーランド・リトアニア共和国が未だ強勢を保ったが、ロシア・ツァーリ国はこの圧力を次第に跳ね返し、ウクライナを奪うことになる。やがてこの動きはスウェーデンとロシアの挟撃によって東欧が西欧とロシアの従属的な地位に転落していく流れを生む。

ヨーロッパから現在における北アメリカ大陸への永久移民が入植した。また、西インド諸島でのプランテーション経営に多くの労働力を必要としたことから、北アフリカ諸地域から黒人奴隷が盛んに連れて来られるようになった(奴隷貿易三角貿易)。さらに、イギリス・オランダなどが東インド会社を設立するなど、ヨーロッパ諸国はアジア新大陸である現南北米地域との間で交易を活発にした。

アジアでは西アジア(トルコ)のオスマン帝国南アジア(インド)のムガル帝国と大帝国が繁栄し、後者では皇帝シャー・ジャハーン文化を保護し、壮麗なタージ・マハルが建設された。だが、17世後半、オスマン帝国は第二次ウィーン包囲に失敗し、その後に続く大トルコ戦争でもヨーロッパ諸国に敗れ、1699年カルロヴィッツ条約でヨーロッパ側の領土の大規模割譲を強いられた。一方、ムガル帝国は皇帝アウラングゼーブのもと、それまでの融和路線を事実上打破する形で厳格な宗教政策を取り帝国を統治しようとしたが、マラーターの英雄シヴァージーに幾度となく抵抗された。シヴァージーの死後、アウラングゼーブはデカン戦争で帝国の最大領土を実現したが、マラーター王国との泥沼の戦いに入り、諸地方の反乱が起きるなど帝国は分裂の傾向を隠せずにいた。

東アジアでは建州女直から出たヌルハチ女真系諸国を統一して後金を興し、次のホンタイジの代で北元を征服して国号を大清国(ダイチン・グルン)と改め、さらに次代の順治帝は内紛で自壊したを接収しての北帰以来続いていたモンゴル高原中国本土の対立する一種の南北朝時代を解消した。大清国は17世紀後半には康熙帝の登場により最盛期を迎えた。日本では16世紀末の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康による江戸幕府が開かれ、第2代将軍秀忠の頃になると鎖国政策がとられるようになった。この政策は約240年に渡り続くことになる。

17世紀の科学革命

微分積分学光学万有引力などの諸法則・定理を発見したアイザック・ニュートン望遠鏡を使用しての表面に凸凹があることや木星衛星があること、天の川が無数のの集合であることなど天体に関する様々な発見により天文学に大きく貢献したガリレオ・ガリレイ惑星軌道楕円であることなど天体の運行法則に関するケプラーの法則の提唱やルドルフ表を作り地動説のほうが精密に惑星の運行を計算できることを明示したヨハネス・ケプラーなど科学的な発見が相次ぎ、科学哲学上にも大きな影響を与えたことから科学革命と呼ばれている。 誰にでも検証可能な方法によって自説の正しさを証明するという、科学的方法が用いられるようになったのもこの時期からである。

魔女狩りのピークと衰退

ヨーロッパで15世紀から広がり始めた魔女狩りが、16世紀の終わりから17世紀の中頃にかけてピークを迎えた。一方で、17世紀末には急速に衰退しており、魔女裁判で極刑を科すケースもほとんど見られなくなっている。魔女狩りにより、ヨーロッパ全体で15世紀から18世紀までの間に最大4万人が処刑されたものと考えられている。その他の地域では、北アメリカの植民地でも数は少ないが魔女狩りの例がある(セイラム魔女裁判など)。

できごと

1600年代

詳細は「1600年代」を参照

1610年代

詳細は「1610年代」を参照
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