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18世紀とは?

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出典検索: "18世紀"ニュース 書籍 スカラー CiNii J-STAGE NDL dlib.jp ジャパンサーチ TWL
(2012年3月)
千年紀: 2千年紀
世紀: 17世紀 - 18世紀 - 19世紀
十年紀: 1700年代 1710年代 1720年代 1730年代 1740年代
1750年代 1760年代 1770年代 1780年代 1790年代
フランス革命。1789年7月14日の「バスティーユ襲撃」から始まった革命はフランスのみならずヨーロッパ全域に大きな衝撃を与えた。画像はジャン・ピエール・ウエルが描いたバスティーユ襲撃(フランス国立図書館蔵)。
啓蒙の世紀(Siècle des Lumières)」。理性による進歩が広く信じられた時代で、多くの啓蒙思想家がサロンを舞台に活躍した。画像はジョフラン夫人のサロンに集まる啓蒙思想家たちを描いたシャルル・ガブリエル・ルモニエの絵画(国立マルメゾン城美術館蔵)。
科学的精神の広がり。イギリスでは科学者間の交流を深めるルナー・ソサエティ(月光協会)などの団体が生まれた。画像はこの協会に影響を受けたジョゼフ・ライト(ライト・オブ・ダービー)の「空気ポンプの実験」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)。
啓蒙時代の裏面。18世紀末になると楽天的な啓蒙思想には重大な疑義が付きつけられるようになる。画像はスペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤの版画集『ロス・カプリチョス』の「理性の眠りは怪物を生む」。

18世紀(じゅうはっせいき)は、西暦1701年から西暦1800年までの100年間を指す世紀

18世紀の歴史

産業革命。ジェームズ・ワットの蒸気機関。
有人飛行の成功。1783年にフランスではモンゴルフィエ兄弟が開発した気球により有人飛行が行われた。
「監禁」から「治療」へ。精神病理学の進展から「狂気」の位置づけが大きく変化した。画像は1795年に閉鎖病棟から精神疾患患者の開放を実現させたサルペトリエール病院の医師フィリップ・ピネルを描いた歴史画。


ドイツ観念論の形成。ケーニヒスベルク大学教授インマヌエル・カントは三批判書を通じて人間の主観性を重んじる道徳的で内省的な哲学を作り上げ、ドイツ観念論の先駆けとなった。
ロココ様式。画像は芸術の庇護者として知られるフランスのルイ15世の寵妃ポンパドゥール夫人の肖像画でフランソワ・ブーシェによるもの(アルテ・ピナコテーク蔵)。
オペラの隆盛。16世紀末に生まれたオペラはこの世紀までに広範な人気を得て専属の劇場も作られるようになった。画像はローマ最古のアルジェンティーナ劇場(1732年に完成)を描いたジョバンニ・パオロ・パンニーニの画。
魔笛」とフリーメイソン。神童ぶりを謳われたモーツァルトの作品の中でもオペラ「魔笛」はこの時代に影響を及ぼしたフリーメイソンの思想が強く反映している。画像はモーツァルト没後まもなく描かれたシェーファー兄弟による「魔笛」の舞台デザイン画でザラストロが到来する場面(1793年)。
グランド・ツアー」。古典教養の涵養や芸術品の蒐集なども兼ねて上流階級の旅行が盛んになった。画像はウフィツィ美術館のトリブーナを描いたヨハン・ゾッファニーの絵画。
美食の広がり。宮廷社会の洗練により人々はより美味なるものを求めるようになり、フランスでは「ガストロノミー」と呼ばれる美食学が成立した。画像は1735年に描かれたジャン=フランソワ・ド・トロワの「牡蠣の昼食(コンデ美術館蔵)」。
ヴェネツィア共和国の終焉。18世紀を通じてヴェネツィアは低落傾向を示し、フランス革命戦争のカンポ・フォルミオ条約でオーストリアに併合される。画像はジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロにより描かれた18世紀半ばのヴェネツィアのカーニバル
フリードリヒ大王。オーストリアとの戦いを通じプロイセンを強国に仕立て上げた啓蒙専制君主。画像はアドルフ・フォン・メンツェルによるフルートを吹く大王の歴史画。
マリア・テレジア。ハプスブルク家を支えオーストリア継承戦争や七年戦争ではプロイセンを向こうに回し戦い続けた。画像はマルティン・ファン・マイテンスによる家族の肖像画。
サンクトペテルブルクの建設。スウェーデンに勝利した皇帝ピョートル1世の改革によりロシアの首都は「西欧への窓」と呼ばれたサンクトペテルブルクに遷された。画像はサンクトペテルブルク近郊に造られた「ピョートル大帝の夏の宮殿(ペテルゴフ)」。
女帝エカチェリーナ2世。夫であるピョートル3世を政変で廃位し、代わってロシアの女帝として登位し、トルコとの戦いやポーランド分割を通じてロシアの強大化を図った。画像はドミトリー・レヴィツキーによる「正義の女神」に扮するエカチェリーナ2世の肖像画(モスクワトレチャコフ美術館蔵)。
ポーランド分割。東欧の啓蒙専制君主たちによりポーランド国家は消滅した。画像はポーランド分割を決議する国会への議員の入場を阻もうとするタデウシュ・レイタンを描いたヤン・マテイコの歴史画。
リスボン大地震。1755年11月1日の諸聖人の日に起きた惨劇でリスボン市街の80%以上が大破したと伝わる。この混乱を鎮めたのが、啓蒙主義的な宰相ポンバル侯爵で、危機に乗じて強権的な措置がとられた。画像はジョアン・グラマによるこの地震の寓意図。
ロバート・ウォルポールハノーヴァー朝歴代国王に信任され第一大蔵卿から首相となり任期は20年に及んだ。責任内閣制が固まり、ダウニング10番地が首相官邸となったのは彼の時代である。
ジャコバイト壊滅。名誉革命後もスコットランドではステュアート家再興を望むジャコバイトの反乱がたびたび起こった。1745年のカロデンの戦いでの大敗でこの動きは沈静化したが、イングランド側は民族衣装のキルトタータンを禁圧する強硬な同化政策を強いた。画像はタータンをまとったハイランド連隊の兵士たち。
英仏第二次百年戦争。ヨーロッパを越えて新大陸やインドにも植民地をめぐる戦争は拡大した。画像はベンジャミン・ウエストによる歴史画でフレンチ・インディアン戦争(エイブラハム平原の戦い)で戦死したウルフ将軍を描いたもの(カナダ国立美術館蔵)。
アメリカ独立戦争。この戦争の帰趨はヨーロッパの旧体制にも大きな影響を与えた。画像はエマヌエル・ロイツェによる歴史画「デラウェア川を渡るワシントン(メトロポリタン美術館蔵)」。
黒人奴隷貿易の最盛期。アフリカから多くの黒人が大西洋を越えて新大陸へ奴隷として運ばれた。画像はアゴスティーノ・ブルニアスの描いた「西インドにおけるリネン市場のリネン露店と野菜販売商」。
「ブラジルのミケランジェロ」。身体に障害を抱えながら優れた造形感覚により卓越した教会建築や彫刻を残したのがアレイジャディーニョである。画像はコンゴーニャスボン・ジェズス・デ・マトジーニョス聖堂にある「キリストの捕縛」の場面の群像。
「ジェームズ・クックの死」。イギリスの海軍士官クックは太平洋各地を探検し新しい知見を得た。しかし最後の航海ではハワイ島住民との争いから殺害された。画像はヨハン・ゾッファニーによる歴史画でロンドンの国立海洋博物館のもの。
イースター島ポリネシア系先住民が「ラパ・ヌイ」と呼んでいたこの太平洋の絶海の孤島がヨーロッパ人ヤコブ・ロッゲフェーンに「発見」されたのは1722年のイースター(復活祭)のことであった。画像は現在のイースター島にあるモアイ像。
ナポレオンのエジプト遠征。1798年に始まるフランス軍の襲来はイスラム世界全体を震撼させ、エジプトの近代化を促す端緒となった。画像はルイ・フランソワ・ルジェーヌが描いた「ピラミッドの戦い」。
チューリップ時代。18世紀初頭にオスマン帝国は安定期を迎え、西欧文化がスルタン周辺でも盛んに取り入れられた。画像はこの時代を代表するスルタン・アフメト3世の肖像画で細密画家レヴニーの作。
ワッハーブ派の発展。イスラム教の原点回帰を目指すワッハーブ運動を受け入れたのがアラビア半島の豪族であったサウード家のムハンマド・イブン・サウードであった。彼は周囲を征服しディルイーヤを都とする第一次サウード王国を建国することになる。画像はディルイーヤのサアド・イブン・サウード宮殿の遺跡。
アフシャール朝の君主ナーディル・シャーの肖像。イランのサファヴィー朝を滅ぼし、インドのムガル帝国を急襲し一時的にデリーを制圧するなど「第二のアレクサンドロス」の異名をとる活躍を見せた。
カージャール朝の勃興。初代君主アーガー・モハンマド・シャーテヘランを根拠地として一族をまとめあげザンド朝を倒してペルシアに新王朝を設立した。画像はアーガーが勝敗を決めたケルマーンの征服を描いた図。
マラータ同盟。ムガル帝国が衰退したインドではデカンを根拠地とするマラータ同盟の勢力が拡大した。画像はこの同盟を率いてムガル帝国を翻弄した宰相(ペーシュワー)バージー・ラーオ
ラージプート絵画。ムガル帝国の衰退とともに各地のヒンドゥー勢力による芸術の振興が図られ、地方の特色を生かした作品が多く生み出された。画像はラージャスターン地方のブーンディーで1700年代に描かれた宮廷の女性たちの細密画。
インド木綿の流行と衰退。ヨーロッパ諸国の需要増大によりインドの木綿産業は18世紀半ばまでに絶頂を迎えた。白綿布はキャラコと、染めた綿布はチンツ(インド更紗)と呼ばれ人気を博した。しかし18世紀の後半には産業革命によるイギリス綿織物業の追い上げがあり、次第に衰勢に向かうことになる。
「マイソールの虎」ティプー・スルターン。マイソールの君主としてティプー・スルターンは第四次マイソール戦争ではイギリス軍を相手に壮絶な最期を遂げた。画像は彼が所有していた「ティプーの虎」と呼ばれた自動楽器で白人に飛びかかる虎のデザインが印象的である。
ワット・プラケーオ(エメラルド寺院)。チャクリー朝初代のラーマ1世によって建立された仏教寺院。正式名称はワット・シーラッタナーサーサダーラーム。
ネパールの統一。ゴルカプリトビ・ナラヤン・シャハ王によりマッラ朝の三都体制は崩壊し、カトマンズを中心とするゴルカ朝ネパール王国が成立した。画像はカトマンズを代表するスワヤンブナート寺院の仏塔と「仏陀の目」。
清朝の繁栄。乾隆帝はおよそ60年間の治世で「十全武功」を誇り、東アジアの大帝国の君主として君臨した。画像はイエズス会ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)によって描かれたもの。
蘇州古典園林。五代から清にかけて蘇州では美しい庭園が数多く作られた。画像はその一つ「獅子林」で造営は元代に遡るが、六度の南巡を行った乾隆帝は蘇州に来ると必ず立ち寄り詩を詠むほどの愛好ぶりを示した。
乾嘉の学。乾隆帝と次の嘉慶帝の時代にかけて考証学は大きく花開いた。とりわけ乾隆帝による「四庫全書」の編纂には総編集の紀昀を始め戴震ら考証学者の多くが参加した。画像は西湖博物館所蔵の「四庫全書」文瀾閣本複製。
『紅楼夢』。没落した漢人八旗の家に生まれた曹雪芹により描かれた長編小説で、男女の情愛の細かな機微をとらえていることで定評がある。当時の皇帝乾隆帝も目を通したと言われ、身分の上下を問わず「紅迷」と呼ばれる熱狂的なファンも生み出した。画像は徐宝篆の挿絵。
清朝陶磁器の精華。乾隆帝の時代までに西洋の七宝焼の技術が導入され、官窯陶磁の絵付けは写実的なものとなり、技巧は極限まで追求された。画像は「粉彩桃文天球瓶」(クリーブランド美術館蔵)。
中国趣味(シノワズリ)。イエズス会士らの報告による清朝の繁栄ぶりは西欧諸国の人々に「幻想の東洋」のイメージを膨らまさせた。画像はフランス人フランソワ・ブーシェによる「中国の庭園(部分 ブザンソン美術館蔵)」。
マカートニーの来訪。イギリス全権使節として派遣されたマカートニーは熱河離宮にて既に80歳を超えていた乾隆帝と貿易拡大の交渉を行った。交渉は不調で中国に対する視線は一方的な賛美から批判的なものへと変わっていった。画像はマカートニー使節団を描いたジェイムズ・ギルレイの風刺画(ロンドン・ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵)。
元禄文化。17世紀末から18世紀の初めの将軍徳川綱吉の時代に上方を中心に豪華で活気ある文化が花開いた。画像は尾形光琳の「燕子花図屏風」(東京根津美術館蔵)。
忠臣蔵大石良雄率いる赤穂浪士が吉良義央を襲撃した「赤穂事件」は、1748年には『仮名手本忠臣蔵』として舞台化され大当たりをとったばかりでなく、日本人の倫理観や美意識にも大きな影響を与えた。画像は幕末の浮世絵師歌川国芳による浪士討ち入りの図。
正徳の治。6代将軍家宣と7代将軍家継の治世に文治政治を進めたのが学者政治家新井白石である。8代将軍吉宗にその政策の多くは否定されたが、『西洋紀聞』や『采覧異言』など重要な著作を残している。画像は新井白石の肖像。
享保の改革。この改革は8代将軍徳川吉宗により始められた。これを範として、18世紀半ば以降、復古的な倹約令と綱紀粛正を軸とした幕藩体制維持のため様々な改革が断続して行われることになる。画像は徳川記念財団所蔵の徳川吉宗の肖像。
歌舞伎の発展。この時代には成人男性のみが演じ手となる演劇となり、民衆の娯楽として定着した。画像は奥村政信の「芝居狂言浮絵根元」で寛保3年(1743年)上演の『艤貢太平記』を描いた浮世絵。
鎖国」の中の国際交流。将軍吉宗が漢訳洋書の輸入を緩和したことで「蘭学」が一世を風靡した。画像は蘭学や海外事情にも詳しかった銅版画家司馬江漢による日本人、中国人、西洋人の対談の図。
田沼時代田沼意次は将軍家治のもとで老中となり株仲間の奨励など重商主義的な政策を行った。蝦夷地の開発やロシアとの交易を計画するなど時代に先んじた目を持っていたが、反対派からは賄賂政治と誹謗されていた。画像は田沼意次の肖像。
錦絵から大首絵へ。町人によって育まれた浮世絵宝暦・天明年間には江戸を代表する文化として成長していた。画像は喜多川歌麿の「当時三美人(寛政三美人)」。
国学の展開。幕府の官学となった儒学に対し、国学とは江戸中期以降に日本の古典研究を通じて「古道」を究めようとした学問を指す。画像は「国学四大人」の一人である「本居宣長六十一歳自画自賛像(1790年)」。
夷酋列像」。1789年に起きたクナシリ・メナシの戦い松前藩に協力したアイヌの人々を画家蠣崎波響が記録したもの。画像は列伝に記録されたクナシリ惣乙名ツキノエの肖像画(ブザンソン美術館蔵)。

世界

ヨーロッパの躍進とアジア大帝国の弱体化

18世紀には、農業生産の飛躍的向上により人口の増加をもたらした農業革命に続き、世界初の工業化である産業革命が起こったことにより、イギリスの生産力が飛躍的に向上した。産業革命の原動力のひとつに大西洋三角貿易(奴隷貿易)に支えられた砂糖綿花プランテーション、そしてそこでの労働力となった黒人奴隷の存在がある。重商主義によりヨーロッパ各国で激しい貿易競争がおこなわれた。オランダ自由貿易は衰え、イギリスとフランスが台頭し両国は、激しい植民地戦争を繰り広げた。一方、18世紀後半のヨーロッパでは、啓蒙主義思想が広がった。

アジアの大帝国の腐敗、弱体化が始まり、それに乗じて西欧諸国のアジア進出が始まった。インドでは、アウラングゼーブのもとムガル帝国が最大領土を実現したが、その死後における数次の継承戦争とマラーター王国を中心とするマラーター同盟の台頭より、19世紀には弱体化した。そして、デリー周辺をかろうじて支配する一勢力に転落し、各地に地方政権が割拠するようになり、イギリス、フランスの進出を許した。オスマン帝国は改革がおこなわれたが大きな成果はなく、腐敗と弱体化がいっそう進んだ。は乾隆帝の治世で最盛期にあたり人口が増えたため華僑が登場した。内政面で充実し、経済力も増したが、18世紀後期には腐敗

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出典:wikipedia
2020/09/25 03:53

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