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2002_FIFAワールドカップとは?

東京タワー・ジャパンブルーライトアップ(2002年5月25日)

2002 FIFAワールドカップ(: 2002 FIFA World Cup)は、2002年5月31日から6月30日にかけて開催された17回目で21世紀最初のFIFAワールドカップ

目次

  • 1 大会招致の経緯
    • 1.1 日本側の資金提供疑惑
  • 2 各国への影響
  • 3 予選
  • 4 出場国
  • 5 本大会
    • 5.1 概要
    • 5.2 大会呼称問題
    • 5.3 両国の開催都市選定
    • 5.4 大会運営資金
    • 5.5 キャンプ地誘致合戦
      • 5.5.1 キャンプ地一覧
    • 5.6 チケット・空席問題
    • 5.7 誤審・審判買収問題
    • 5.8 会場一覧
      • 5.8.1 日本
      • 5.8.2 韓国
  • 6 結果
    • 6.1 組み合わせ抽選
    • 6.2 グループリーグ
      • 6.2.1 グループ A
      • 6.2.2 グループ B
      • 6.2.3 グループ C
      • 6.2.4 グループ D
      • 6.2.5 グループ E
      • 6.2.6 グループ F
      • 6.2.7 グループ G
      • 6.2.8 グループ H
    • 6.3 決勝トーナメント
      • 6.3.1 1回戦
      • 6.3.2 準々決勝
      • 6.3.3 準決勝
      • 6.3.4 3位決定戦
      • 6.3.5 決勝
  • 7 優勝国
  • 8 得点ランキング
  • 9 表彰
    • 9.1 個人賞
    • 9.2 オールスターチーム
  • 10 FIFA ワールドカップ オフィシャル・コンサート
  • 11 記念発行物
  • 12 大会協賛
    • 12.1 オフィシャルパートナー
    • 12.2 オフィシャルサプライヤー
  • 13 その他
  • 14 脚注
    • 14.1 注釈
    • 14.2 出典
  • 15 関連項目
  • 16 外部リンク

大会招致の経緯

これまで、FIFAワールドカップ(以下W杯と略すことあり)は欧州南北アメリカ間で交互に行われてきたが、1986年国際サッカー連盟(FIFA)のジョアン・アヴェランジェ会長(当時)が「初のアジアアフリカ大陸による開催」案を打ち出した。その後、同会長から大会開催の打診を受けた日本サッカー協会が各国に先駆けて招致に名乗りをあげ、当時の低迷する日本国内のサッカー界の活性化も念頭に置いた上で1988年にFIFAワールドカップの日本開催を構想、1989年11月にFIFAにW杯開催国立候補の意思表示をし、招致活動を開始した。1991年6月に2002年W杯招致委員会が発足、翌年1992年3月24日にはW杯国会議員招致委員会(以下招致議連)が誕生し、W杯招致は日本の国家的事業となった。日本はFIFAワールドカップを「より平和の祭典」としてメッセージ性あるイベントにしようと提案し、トヨタカップなどの開催実績と「平和で安全」、「豊かな経済」、「政治的安定」、「自由と民主主義」、「世界の先進国」である点などを示し日本で開催する意義を謳った。また、「バーチャルスタジアム構想」(使用していないスタジアムに巨大なスクリーンを配置し3次元映像を投影。あたかも実際に目の前で選手がプレーしているように観客に観せる、最新映像技術を駆使した仮想のスタジアム観戦システム)を提案し、史上最大の計400万人がスタジアムで観戦することが可能な大会にすることを謳った。バーチャルスタジアム構想はその後、メガビジョンという大画面投影技術へ姿を変えた。しかし、放映権の問題があったため、実際にメガビジョンが使われたのは準決勝1試合だけであった。

その一方で、FIFAが想定するアジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国は「アジア初」を賭けて日本に続く形で1993年11月に立候補を表明、1994年の初めに招致委員会を組織した。日本よりも招致活動に出遅れた韓国は、同1994年にFIFA副会長に選出された鄭夢準大韓サッカー協会会長(現代重工業大株主。元韓国国会議員)を先頭にして、現代財閥を中心に韓国国内の政財界をあげての招致活動に乗り出し、「南北朝鮮共同開催案」を持ち出すなどして日本の招致活動に激しく対抗した。そして、1995年2月、立候補すると表明していたメキシコが辞退し、日本と韓国の2国のみが正式に立候補を表明した。日韓以外に立候補した国はなく、招致活動は日韓の一騎討ちとなった。1995年9月28日に日本はFIFAワールドカップ開催提案書をFIFAに提出した。これを受けて、同年11月にFIFA視察団(インスペクショングループ)が日韓両国を訪問し、スタジアムや国内リーグ、インフラなどをチェックした。視察団は『日本は施設も、歓迎も(サポーターたちが視察団が立ち入りそうな場所に予め先回りして歓迎したり、その場に居合わせた一般人たちが歓迎した)、技術も素晴らしい』と日本を高く評価した。

開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本単独開催を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派とヨハンソンUEFA会長を次期FIFA会長にしたい欧州のFIFA理事派の勢力が次期会長職を巡って対立し始める。そして、アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進したが、南米の会長派はあくまでも日本による単独開催を支持した為にアフリカの理事らの動向が投票を左右することとなった。ただ、こうした状況の中で次第に日韓共催案が現実味を帯び始める事となる。朝日新聞の元主幹である若宮啓文は自身の著書「韓国と日本国」の中で、日韓共催を元外務大臣の河野洋平が推進していたことを知り、それに共感したことが朝日新聞の社説 において日本で初めて共催案を取り上げたきっかけだったと語っている。

直前になって欧州理事らが、欧州の各国サッカーリーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派(FIFA理事全21名中11名)となった。その為、開催国を決定する投票日前日の定例理事会前に行われたパーティー会場でアフリカ理事らとの歓談から敗北を悟ったアヴェランジェ会長は、会長としての権威を保つ為、それまで自身が強硬に反対していた日韓共催(当時の規則ではワールドカップは単独開催のみ)を自ら提案することを決断した。1996年5月30日午後、アヴェランジェ会長はFIFA事務局長のゼップ・ブラッターを通して、ヴィダーホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し、非公式に日韓共催案打診の電話をかけさせた。電話を受けたのは語学が堪能な岡野日本招致委員会実行委員長だった。なお、ブラッターの口ぶりは切羽詰まっており、打診というより要請だったという。岡野は電話では不正確として、FIFAの公式文書を求めた。午後3時過ぎ、ブラッターの署名入りのFIFA公式文書がFAXで届いた。その文書には、『既に韓国は1996年5月15日付の文書で日韓共催受け入れをFIFAに回答した。日本の立場をたずねたい』と書かれていた。2時間ほどの協議でも結論は出なかったが、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」になるのは必至だった。ブラッターへの返答刻限が迫る中、宮澤喜一招致議連会長が「日韓共催は政治にとって悪くない選択だ」と発言した。その発言をきっかけに長沼日本サッカー協会会長はやむを得ず、共同開催案受け入れを決断した。その後、ブラッターから二度目の電話が入り、長沼自身が共催受け入れを伝えた。翌日の5月31日午前7時すぎ、岡野が日本サッカー協会公式の共催受け入れ文書をブラッターに手渡した。そのわずか2時間後の午前9時の定例理事会で、アヴェランジェFIFA会長が日韓両国による共同開催案を提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じた。結局、投票を待たずして日韓共催が決定した。同日、午後4時過ぎ、FIFAと開催国に決定した日本と韓国による共同開催決定の会見が開かれた。独の当時サッカージャーナリスト(現バイエルン・ミュンヘン海外担当)マーティン・ヘーゲレらの警鐘(趨勢を悟ればアベランジェは日本を裏切る等)等の重要な情報を無視し、欧州やアフリカ理事らの動向を掴めず、日本単独開催を支持していたアヴェランジェ会長を最後まで盲信し続けた日本招致委員会の実質的な敗北であった。ちなみに、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」以外の案としては「開催国決定の延長」、「中国での開催」などといった諸案があった。

結局、日韓共催はアヴェランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物であったが、アヴェランジェ会長は程なくしてFIFAの会長職から引退する形で退いた。また、当ワールドカップ組織委員会委員長には、FIFA副会長の鄭夢準大韓サッカー協会会長が就任した(この件に関してマーティン・ヘーゲレは「各国の担当者に高価な物を贈ったり、娼婦を抱かせようとした」「ヘーゲレへ圧力をかけるよう鄭本人がフランツ・ベッケンバウアー(現ドイツサッカー連盟副会長)に依頼したものの、一蹴された」と主張している。

その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機に巻き込まれてデフォルト寸前の不況に陥り、国際通貨基金(IMF)の管理下に入った。IMF経由の日本を中心とした金融支援やIMFによる米国式経済の導入によって大量の失業者を生みながらも経済はV字回復した為に最後まで日本単独開催には至らなかった。しかし、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年アメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し、試合会場となるスタジアム建設が滞る事態となった。そこで、国際協力銀行(旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった。結局、韓国でのスタジアム建設は続けられて日韓共催はようやく実現した。

なお、鄭夢準大韓サッカー協会会長は、韓国へのワールドカップ誘致と韓国代表ベスト4に導いた業績を背景に2002年大韓民国大統領選挙への立候補を表明している(投票日前日に盧武鉉との取引に応じて立候補取り止め)。

日本側の資金提供疑惑

2015年5月27日、アメリカ合衆国司法省国際サッカー連盟(FIFA)の幹部や関係者ら計14人を起訴 して以降、FIFAの不正に対する追及が活発化している。フランクフルター・アルゲマイネの記者であるジャン・フランソワ・タンダは、電通(当時の会長は成田豊)が、1995年11月16日にISL(インターナショナル・スポーツ&レジャー)と「サービス合意書」を締結し、電通がISLに巨額資金を支払う見返りとしてISLがW杯選出投票での日本への投票を働きかけていたと主張。また、6月19日にスペインのスポーツ紙「AS (新聞)」は、長沼健が開催地決定の投票に対する謝礼として南米サッカー連盟に150万ドルを支払ったと報道した。ただし、開催地決定に際して投票は行われていない。

各国への影響

日本国内には、1993年(平成5年)にJリーグが開幕した時以上の影響がこの大会の開催によってもたらされた。当時の日本サッカー界は前回大会で史上初めての出場を果たしたものの、この頃のJリーグには平成不況とブームの沈静化の影響が直撃していた。その結果、それらの影響で資金繰りに行き詰るJリーグクラブが急激に増え始め、それまでのずさんな各クラブの経営実態を浮き彫りにすることとなった。

しかしその状況を一変させたのが本大会の開催だった。それまでは日本国内でサッカー人気の再度の盛り上がりがあまり強くなかったものの、本大会の開幕が近づくに連れてマスコミを中心にして、次第にサッカー人気が再び盛り上がっていった。

本大会が開幕すると、日本代表が出場しない他国同士の試合でも、強豪国を中心にテレビの視聴率は軒並み30%以上を記録、日本各地で「ワールドカップフィーバー」が巻き起こり、一躍国民的な関心事になった。その一方で、試合以外でも大会期間中には日本人女性の間でイングランド代表デビッド・ベッカムトルコ代表イルハン・マンスズに対して注目が集まって熱狂的なブームが巻き起こり、若い日本人男性の間では大会期間中にベッカムがセットしていたソフトモヒカンの髪型を真似た「ベッカムヘアー」が流行った。また、カメルーン代表の合宿地である大分県日田郡中津江村(現在の日田市中津江村)が、カメルーン代表の本大会前の来日遅刻騒動によって、全国から注目を集めるなどの珍事も起きた。

この影響は大会終了後も約4年間程は続いた。日本代表の試合は毎試合ごとに満員の観客席で埋まり、日本代表関連の試合中継も毎試合ごとに高視聴率を記録、試合の前後はメディアが毎回派手に扱った。また、若者を中心に欧州のプロサッカーリーグやフットサルなどへの注目を向けるきっかけも作った。Jリーグでも大会開幕を控えた2001年(平成13年)頃から観客動員数が急激に好転し、その後も徐々に増加を始めた。本大会の影響はそれだけに留まらず、Jリーグ加盟を目標として標榜するアマチュアのサッカークラブが多数誕生するきっかけも作った。

共同開催国であった大韓民国との関係や、日本人の韓国に対する観点もこの大会を前後に大きく変化した。共同開催決定後の1998年、韓国政府は日本文化の開放を認め、歌謡曲やアニメーションなどを徐々に解禁していった(しかし2010年代になっても依然として制限はある)。また大会開幕前から日本における韓国についての報道が増え、大会期間中は韓国代表ベスト4進出の快進撃や、街頭での熱狂的な応援の光景などが伝えられ、これらは2000年代にドラマ、音楽などの韓国文化が日本に浸透していく契機の一つとなった。しかし韓国代表に対する判定などが問題視され、マスコミやインターネットで審判の買収疑惑などが論議された上に、共催に至る経緯が疑問視されるなど、その後の嫌韓感情の台頭の契機ともなった。

予選

詳細は「2002 FIFAワールドカップ・予選」を参照

本大会に出場できるのは32か国で、各地域の出場国の出場枠数は、アジア:2.5、アフリカ:5、北中米カリブ海:3、南米:4.5、オセアニア:0.5、ヨーロッパ:13.5であった。これに、予選を免除された前回大会優勝国のフランスと開催国の日本、韓国が加わる(なお、2001年に2006年大会からの前回優勝国枠廃止が決まったため、フランスは最後の前回優勝による予選免除国となった)。

南米予選では過去最多の優勝を誇るブラジルが予選でなかなか本来の力が発揮できずに苦しむものの、終わってみれば過去の優勝国が勢揃いしたように、順当な結果が多かった。ただ、死のグループに入っていたとはいえ、オランダが予選落ちしたのが最大の波乱とされる。大の飛行機嫌いで知られるデニス・ベルカンプが早々に代表から引退した影響がなかったとはいえない。なお、これがオランダ人の映画プロデューサー、ヨハン・クレマーによる世界最弱代表チーム同士の対戦、アザー・ファイナル構想のきっかけとなった。

日本と韓国が抜けたアジア予選では、サウジアラビアと中国が勝ち抜いた。中国代表にとっては初出場で、ユーゴスラビア出身のボラ・ミルティノヴィッチ監督は5大会連続で別の国から本大会に参加する記録を作った。また、イラン代表は2大会連続で大陸間プレーオフに回ったが、アイルランド代表に敗れ、連続出場を逃した。オセアニア予選1位のオーストラリアは南米予選5位のウルグアイとの大陸間プレーオフに敗れた。

本大会前には、ロベルト・バッジョロマーリオらが代表に選ばれなかったことがトピックの一つとされた。

出場国

出場選手は2002 FIFAワールドカップ参加チームを参照。

【大陸連盟】
【出場
枠数】
【予選】
【組
予選順位】
【出場国・地域】
【出場回数】
備考
AFC | 2+2.5 | 開催国 |  日本 | 2大会連続2回目 | 
韓国 | 5大会連続6回目 | 
最終予選 | 1組 | 1位 |  サウジアラビア | 3大会連続3回目 | 
2組 | 1位 |  中国 | 初出場 | 
UEFA | 1+13.5 | 前回優勝国 |  フランス | 2大会連続11回目 | 
欧州予選 | 1組 | 1位 |  ロシア | 2大会ぶり9回目 | 
2位 |  スロベニア | 初出場 | ☆
2組 | 1位 |  ポルトガル | 4大会ぶり3回目 | 
2位 |  アイルランド | 2大会ぶり3回目 | ○
3組 | 1位 |  デンマーク | 2大会連続3回目 | 
4組 | 1位 |  スウェーデン | 2大会ぶり10回目 | 
2位 |  トルコ | 12大会ぶり2回目 | ☆
5組 | 1位 |  ポーランド | 4大会ぶり6回目 | 
6組 | 1位 |  クロアチア | 2大会連続2回目 | 
2位 |  ベルギー | 6大会連続11回目 | ☆
7組 | 1位 |  スペイン | 7大会連続11回目 | 
8組 | 1位 |  イタリア | 11大会連続15回目 | 
9組 | 1位 |  イングランド | 2大会連続11回目 | 
2位 |  ドイツ | 13大会連続15回目 | ☆
CONMEBOL | 4.5 | 南米予選 | 1位 |  アルゼンチン | 8大会連続13回目 | 
2位 |  エクアドル | 初出場 | 
3位 |  ブラジル | 17大会連続17回目 | 
4位 |  パラグアイ | 2大会連続6回目 | 
5位 |  ウルグアイ | 3大会ぶり10回目 | ○
CONCACAF | 3 | 最終予選 | 1位 |  コスタリカ | 3大会ぶり2回目 | 
2位 |  メキシコ | 3大会連続12回目 | 
3位 |  アメリカ合衆国 | 4大会連続7回目 | 
CAF | 5 | 最終予選 | A組 | 1位 |  カメルーン | 4大会連続5回目 | 
B組 | 1位 |  ナイジェリア | 3大会連続3回目 | 
C組 | 1位 |  セネガル | 初出場 | 
D組 | 1位 |  チュニジア | 2大会連続3回目 | 
E組 | 1位 |  南アフリカ共和国 | 2大会連続2回目 | 
OFC | 0.5 | 地区予選 | 出場国無し

本大会

日本×ベルギー戦 (埼玉スタジアム) 2002年6月4日

概要

21世紀に入って初となるFIFAワールドカップは、大会史上初めて日本と韓国の2か国による共同開催となったが、アジアで開催された事も初めてであった。さらに日本は初の本大会未経験国(1996年(平成8年)の時点)での開催地決定であった(1998年のフランス大会で初出場を決めている)。

2002年(平成14年)5月31日から6月30日の31日間に、日本と韓国それぞれ10か所、計20都市で64試合を行った。ブラジルが5度目の優勝を遂げた。開催国である日本は決勝トーナメント進出(ベスト16)の成績を残した。

大会の開催期間は通常より約10日から2週間程度早まり、末日ではあるが珍しく5月からの開催となった(当初は6月1日開幕、6月30日決勝予定であったが、開幕まで2年を切った2000年6月6日のチューリッヒにおけるFIFA理事会で、大会期間を1日増やす形で開幕日を5月31日に繰り上げることにした)。 これは、欧州南米とは異なる日韓の気候、つまり梅雨を考慮したためと言われている。大会前は、フーリガン暴動などを危惧する声が聞かれたが、大きなトラブルはなく終わった。日本では当初寄付金が集まらずに赤字が懸念されたが、円安の影響などで大幅な黒字となった。また高円宮夫妻が韓国を公式訪問し、開会式に出席した。皇族の韓国訪問は第二次世界大戦後初である。

ソウルで行われた開幕戦では、前回優勝国のフランスが初出場のセネガルと対戦。この試合でセネガルが1対0で勝利し、波乱の大会の幕開けとなった。EURO2000コンフェデ杯2001で優勝して前評判が高く優勝候補筆頭と目されていたフランスは結局、事前の対韓国の親善試合で負傷したジダンの抜けた穴を埋めることができず、アンリトレゼゲシセと3か国のリーグ得点王を擁しながらグループリーグで1得点もあげられずに敗退した。

開催国の日本は、初戦でベルギーと2対2で引き分け、ワールドカップで初の勝ち点を獲得すると、次戦のロシア戦に1対0で勝ち、ワールドカップ初勝利を挙げる。そして、次のチュニジア戦も2対0で危なげなく勝利し、グループリーグ1位通過で、初のノックアウトステージ(ベスト16以上)進出も決める。

もう一つの開催国の韓国もまた、ポーランドポルトガルから勝利をあげ、グループリーグ1位で通過した。フィーゴなどの有力選手をそろえ前評判が高かったポルトガルが韓国とアメリカに連敗してグループリーグで敗退するという波乱があった。

アルゼンチンvsイングランド
試合を決めたベッカムのPK

アルゼンチンナイジェリアスウェーデンイングランドが集まり「死のグループ」と呼ばれたグループFでは、両国の歴史的背景や前回大会の遺恨から「因縁の対決」と言われているアルゼンチン対イングランド戦が日本の札幌会場の札幌ドームで実現して大きく注目された。南米予選を1位で通過して、フランスに次ぐ優勝候補と目されていたアルゼンチンがグループリーグで敗退するという波乱があった。

次回開催が決まっているドイツは、世界一のGKと評されたカーンや新星FWクローゼの活躍に、恵まれた組み合わせにも味方され決勝まで進出した。

ノックアウトステージでは、日本はラウンドオブ16でトルコと対戦し0対1で敗れ、初のベスト8進出はならなかった。韓国はイタリアスペインに勝利し、アジア勢として初の準決勝に進出した。韓国国内がこの快進撃に熱狂する一方、韓国選手のラフプレーに審判が笛を吹かないなどの審判の誤審が問題となった。横浜国際総合競技場で行われた決勝は、地区予選で大苦戦して前評判が決して高いとは言えなかったドイツとブラジルの戦いとなった。優勝回数1位と2位の国同士であるにもかかわらず、ワールドカップでは初対戦となった。この試合を2対0で勝利したブラジルが5度目の優勝に輝いた。大会の得点王はブラジル代表FWのロナウド(8ゴール)。

大会呼称問題

1996年11月、FIFA本部で行われた共催検討委員会で、大会の呼称を慣例に従ったアルファベット順で「2002 FIFA World Cup Japan/Korea」とする提案がなされたが、鄭夢準大韓サッカー協会会長が強硬に反対した。会議は紛糾したが、最終的に国名表示順を「Korea/Japan」とする一方で決勝戦を日本で行うことで決着とした。尚、この際、日本側は日本国内で大会名を呼称する時は日本/韓国で構わないとの確約を得ていたが、検討会が非公開だった為に、FIFAに公的な議事録を残すことを求めなかった。これが後に大きな問題になる。

日本語の表記は、当初「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」と表記していた。その後、5年ほどは何事もなかったが、2001年1月、日本の教科書検定問題で、かつて日本に併合されていた朝鮮半島にある韓国の対日感情が悪化し、韓国マスコミに追い込まれる形で鄭大韓サッカー協会会長は、「日本国内であっても大会名を「日本・韓国」と表記するのは正式名称(Korea/Japan)と異なっており、開催合意に背く」として抗議した。その為、2001年(平成13年)3月15日の「FIFAのW杯組織委員会」で大会呼称問題について話し合われることになった。岡野は1996年11月の共催検討会での大会名の決定事項を詳しく説明したが、FIFAのW杯組織委員長であるヨハンソンが「大会名決定から長い時間が経っており、しかもその時の議事録もない。大切なのはW杯の成功。国名を入れない大会名の使用を認めるということでどうだろうか」と提案、日韓双方ともこの案を受け入れた。これ以降、日本国内では、国名部分を省略して「2002 FIFAワールドカップ」との表記で統一されることになった。(注:W杯組織委員会は2種類あり、W杯開催国内の『開催国のワールドカップ組織委員会』とそれとは別にFIFA内に設けられる『FIFAのワールドカップ組織委員会』(FIFA関係者及び外部の有識者で構成)がある)。

また、これはあくまでも正式名称の問題であるために、日本では多くの場所で「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」という表記も見ることができた。大会終了後の現在でも日本国内では「日韓ワールドカップ」などと表記することが多い。

両国の開催都市選定

日本では当初、日本による単独開催を視野に大会開催の準備を進めていたために1993年(平成5年)1月に最初の国内開催都市候補地を選定した。候補の15か所(札幌市青森県宮城県茨城県埼玉県千葉県横浜市新潟県静岡県愛知県京都府大阪市神戸市広島市大分県)の中、この時点で開催予定施設が完成していたのは1994年アジア競技大会のために整備されていた広島市の広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)のみ、小幅な改修で対応可能だったのは大阪市の長居スタジアムのみで、あとは各自治体がスタジアムを新設する予定になっていた。

ただ、東京都は立候補を見合わせた。これは、トヨタカップや1964年東京オリンピックの会場として世界的に知名度の高い新宿区国立霞ヶ丘競技場が観客席への屋根設置(スタジアムの観客席の4分の3が屋根に覆われている事)などの改修条件を満たせなかった上に、2013年(平成25年)に開催予定の「多摩国体」用のメインスタジアムの整備計画もまだ確定していなかったからである(多摩国体用のメインスタジアムは後に東京スタジアムとして整備された)。そのため、もしもこの時点で日本開催が実現した場合、世界有数の人口を抱えながらも1974年(昭和49年)の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/08/15 02:11

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