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6世紀とは?
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"6世紀"
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(
2013年6月
)
千年紀
:
1千年紀
世紀
:
5世紀
-
6世紀
-
7世紀
十年紀
:
500年代
510年代
520年代
530年代
540年代
550年代
560年代
570年代
580年代
590年代
地中海の再統一。ゲルマン系諸国家を滅ぼし、イタリアと北アフリカを回復して、東ローマ帝国の勢威は地中海周辺に轟いた。画像は
ラヴェンナ
の
サン・ヴィターレ聖堂
の東ローマ皇帝
ユスティニアヌス1世
と随臣のモザイク。
サーサーン朝の栄光。画像は
ホスロー1世
を描いたサーサーン朝時代の大皿で、パリの
フランス国立図書館
メダル陳列室(コイン・メダル博物館)
所蔵のもの。
無明時代
のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。
タミル文学の展開。南インドでは紀元前以来の伝統を持つタミル文学が体系化された。画像は インド南端
カンニヤークマリ
港に近年建てられた、箴言詩集『
ティルックラル
』でタミル文学を代表する
ティルヴァッルヴァル
の巨像。
前期チャールキヤ朝
。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。
禅宗
の祖師
達磨
。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は
雪舟等楊
の「慧可断臂図」(
愛知県
常滑市
斉年寺
蔵)。
六朝
の都
建康
。現在の
南京
であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟
蕭恢
の墓を守る辟邪の石刻。
隋
の
文帝
。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。
閻立本
の「歴代帝王図巻(
ボストン美術館
蔵)」に描かれた隋の文帝。
関東の人物
埴輪
。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「
国宝
武装男子立像(群馬県太田市出土)」で
東京国立博物館
蔵となっている。
九州の
装飾古墳
。古墳時代後期には九州で独特な古墳が展開した。画像は
福岡県
宮若市
諏訪神社の境内から発見された
竹原古墳
の
横穴式石室
に描かれた装飾絵画で、馬を引いた人物や竜が特徴的である。
モチェ文化
。ペルー北部海岸地帯に成立した文化で、紀元前1世紀から紀元後7世紀まで続くが、6世紀半ば以降には急速に衰退した。画像はトルヒーヨ近郊にある「太陽のワカ、月のワカ」の神殿基壇部レリーフに極彩色で描かれた最高神アイアパエクの像。
東ゴート王国
の盛衰。
オドアケル
を倒した東ゴート王
テオドリック
のもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像は
ラヴェンナ
にある
テオドリック廟
。
『
ロッサーノ
の福音書』。
古代末期
の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。
エジプトの
コプト正教会
。歴代東ローマ皇帝の妥協にもかかわらず、エジプトでは
単性論
とも呼ばれる
非カルケドン派
が主流派であり、この時期には帝国からの分離傾向が強まった。画像は6世紀に作られた
コプト織
でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。
アンティオキア
の繁栄と凋落。東ローマ帝国シリアの要衝であり、
総主教
座が置かれたのがアンティオキアである。しかしこの都市も526年の大地震で多数の死傷者が出て、以後かつての賑わいは戻らなかった。画像はこの世紀前半に作られた鍍金銀細工「
アンティオキアの聖杯
」(
メトロポリタン美術館
蔵)。
ベイト・アルファ遺跡
。現在のイスラエル北部にあるユダヤ教の
シナゴーグ
の遺跡。画像は東ローマ帝国支配の時代に作られた床面の
モザイク画
で黄道帯(ゾディアック)の輪が十二宮の象徴を伴って描かれている。
6世紀
(ろくせいき)とは、
西暦
501年
から西暦
600年
までの100年間を指す
世紀
。
目次
1 できごと
1.1 500年代
1.2 510年代
1.3 520年代
1.4 530年代
1.5 540年代
1.6 550年代
1.7 560年代
1.8 570年代
1.9 580年代
1.10 590年代
1.11 600年代
2 伝説・フィクションのできごと
3 時代の動向
3.1 東アジア
3.1.1 大陸
3.1.2 朝鮮半島
3.1.3 日本
3.2 西アジア
3.3 南アジア
3.4 東南アジア
3.5 ヨーロッパ
4 人物
4.1 地中海世界とヨーロッパ
4.1.1 イタリア(東ゴート王国からランゴバルド王国まで)
4.1.2 フランク王国
4.1.3 イングランド・アイルランド
4.1.4 西ゴート王国
4.1.5 東ローマ帝国
4.2 西アジア
4.3 中央アジア
4.4 南アジア
4.5 東アジア
4.5.1 南朝
4.5.2 北朝
4.5.3 隋
4.5.4 朝鮮
4.5.5 日本
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
できごと
500年代
詳細は「
500年代
」を参照
502年 -
南朝
の
斉
に代わり
蕭衍
(武帝)が
梁
を建てる。
503年 - 「癸未年八月」の
干支
銘をもつ
人物画像鏡
が
和歌山県
橋本市
の
隅田八幡神社
に伝わる(癸未年を
443年
とする説もある)。
504年 -
東ゴート国王
テオドリック
が
ゲピド族
をカルパティア山脈周辺から放逐する。
506年 -
アルメニア教会
の全司教会議により、
カルケドン信条
の不採択が決定される(アルメニア教会の独立)。
507年
男大迹王が
河内国
樟葉宮にて
治天下大王
に即位。後に
奈良時代
に至り
継体天皇
の
漢風諡号
が撰進される。
鍾離の戦い
で、梁が北魏に勝利する。
ブイエの戦いでフランク王国が西ゴート王国に勝利。西ゴート王国は南ガリアの領土を喪失。
507年-511年頃 - フランク国王
クロヴィス1世
のもとで「
サリカ法典
」が編纂される。
507年頃 -
バーミヤンの大仏(東大仏)
が建造される(西大仏は551年頃)。
510年代
詳細は「
510年代
」を参照
510年代 -
エフタル
のトラマーナ王と続くミヒラクラ王が
インド
にたびたび侵入する。
511年
フランク国王クロヴィス1世が死去し、領土は
ソワソン
・
パリ
・
ランス
・
オルレアン
の各王国に分割される。
西ゴート国王
アマラリック
が即位。外祖父の東ゴート王
テオドリック
が摂政となり、両ゴート王国を統治。
512年 - 『
ウィーン写本
』が作成される。
古代ローマの医師
ディオスコリデス
が著した『薬物誌』の
写本
のひとつで、
西ローマ
帝国の皇女であった貴婦人
アニキア・ユリアナ
(462年 - 527/528年)に献上されたもの。
513年 - 百済から
五経博士
の
段楊爾
が来日する(日本最古の五経博士の記録)。
515年 -
北魏
で
大乗の乱
が起こる。
518年 -
ガリラヤ湖
畔の
ベト・アルファ
の
シナゴーグ
の床モザイク壁画が作成される( - 527年)。
520年代
詳細は「
520年代
」を参照
520年
インドの
グプタ朝
が分裂し統一王朝は崩壊。グプタ朝の版図は北ベンガルとビハールに限定される。
北魏の使者である
宋雲
と恵生がバダフシャン付近でエフタル王ミヒラクラに謁見する。
インド出身の
達磨
が海路を通って
広州
に到着する。
ラヴェンナ
に東ゴート国王のための
テオドリック廟
が建立される。
520年頃
スウェーデン・
ウプサラ大学
カロリーネ図書館所蔵の
ゴート語
訳『
コデックス・アルゲンティウス
(銀文字聖書)』が作成される。
523年
北魏で
六鎮の乱
が起こる。
百済の
武寧王
が死去し、
聖王
が即位。
武寧王は
忠清南道
公州市
(
熊津
)の宋山里古墳群の
武寧王陵
に葬られる
南アラビアの
ヒムヤル国王
ズー・ヌワースがユダヤ教に改宗し、キリスト教徒を弾圧(
ナジュラーン
の迫害)。
524年頃 - 東ゴート王国の執政官であった
ボエティウス
が処刑される。この時期までに『
哲学の慰め
』が執筆される。
525年
東ローマ帝国の援助を得た
アクスム王国
がヒムヤル王国を滅ぼす。
東ローマ帝国の
エデッサ
で大洪水の被害、後にユスティノポリスと改名し再建される。
城壁の再建の途中でキリストの「
自印聖像
(マンディリオン)」が発見される。
525年頃
ナスカの地上絵
が作成される(
コロンビア大学
のストロングによる
C14法
年代測定では誤差は±80年)。
コンスタンティノポリスで象牙製の
二連板
浮き彫り「
大天使ミカエルの像
(
大英博物館
蔵)」が作成される( -
550年
頃)。
526年
東ローマ帝国の
アンティオキア
で被害者25万人以上の大地震が発生。
東ゴート王テオドリックが死去。テオドリックの娘
アマラスンタ
の息子
アタラリック
が即位。
526年 - 539年
南朝梁の武帝の王子
蕭繹
(後の梁の元帝)が『
梁職貢図
』の原本を作成させる。
527年
筑紫国造磐井の乱
起こる(『
日本書紀
』継体天皇21年)。磐井の墓は
福岡県
八女市
吉田の
岩戸山古墳
に比定される。
梁の
武帝
が
建康
の
同泰寺
で最初の捨身を行う。
東ローマ
皇帝
ユスティニアヌス1世
が即位( -
565年
)。
527年 - 565年頃
皇帝ユスティニアヌス1世の命令で
シナイ山
に
聖カタリナ修道院
が建てられる
528年
筑紫国造
磐井
斬殺される(『日本書紀』継体天皇22年)。
新羅
法興王
が仏教を公認。
河陰の変
で、北魏の
爾朱栄
が
霊太后
を倒し
孝荘帝
を擁立。
マールワー
王ヤショーダルマンが
エフタル
王ミヒラクラを破って、
カシミール
に敗走させる。
529年
東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が
アテネ
の
アカデメイア
を閉鎖し非キリスト教の哲学者を追放する。
追放された哲学者たち(ダマスキオス、シンプリキオス、プリスキアノスら)は
サーサーン朝
ペルシア
帝国へ亡命する。
ベネディクトゥス
が
イタリア
の
モンテ・カッシーノ
に修道院を創設。
530年代
詳細は「
530年代
」を参照
530年 - ユスティニアヌス1世が古代
ローマ法
の集大成である『
ローマ法大全
』編纂を命じる(533年完成)。
531年
フランク王
テウデリク1世
とザクセン族の連合が
テューリンゲン
族を攻撃( -
533年
)。
サーサーン朝ペルシア帝国で
ホスロー1世
が即位( - 579年)し、サーサーン朝が最盛期を迎える。
継体天皇死去、
安閑天皇
即位。
継体天皇の陵墓として宮内庁は
大阪府
茨木市
の
太田茶臼山古墳
を指定しているが、近年の考古学界では
淀川
水系に位置する
今城塚古墳
が有力視されている。
532年 - 東ローマ帝国で
ニカの乱
。
皇帝ユスティニアヌス1世は退位逃亡寸前まで追いこまれるが、皇后
テオドラ
の助力で反徒を武力鎮圧。
この後コンスタンティノポリス市街の再建が進められ、巨大な
地下貯水池
(バシリカ・シスタン)もこの時期に造られる。
532年 - 東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」が結ばれ国境が固定化される。
533年 - 東ローマ帝国が北アフリカの
ヴァンダル王国
を征服。
534年
フランク王国(パリ・ソワソン)が
ブルグント王国
を征服。
東ゴート王国女王
アマラスンタ
が廃位される。
北魏が
東魏
と
西魏
に分裂。
西魏の
宇文泰
が郷兵を結集し、
府兵制
が成立する。
これに伴い十二大将軍・八柱国の軍団が整備され、
武川鎮軍閥
(関隴集団)が結集する。
535年
インドネシア
の
クラカタウ
火山の爆発による地球規模の大異変が起きる。
世界各地の古文書・年代記・伝承などに異常寒波・自然災害・飢饉・疫病が発生し、その結果政変や文明の崩壊がおきたことが記されている。
東ゴート元女王アマラスンタが殺害され、東ローマ帝国が軍事介入を開始(
ゴート戦争
)。
536年 - 安閑天皇死去、
宣化天皇
即位。
537年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によりニカの乱で焼失した
ハギア・ソフィア大聖堂
が再建される。
現存する
イスタンブール
の「アヤソフィア」は再建されたこの3代目の建物を指す。
538年
日本に
仏教伝来
(『
上宮聖徳法王帝説
』による)。
百済の
聖王
が都を
熊津
から
泗沘
(現・忠清南道
扶余郡
)に遷す。
539年 - 宣化天皇死去、
欽明天皇
即位。
540年代
詳細は「
540年代
」を参照
540年 -
メキシコ
の
エルチチョン
火山の爆発。
541年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世がローマ共和政以来の
執政官
(コンスル)を廃止する。
542年 - 570年 -
ヨルダン
西部
マダバ
の
聖ゲオルギオス
教会の床
モザイク
に中東地域の地図が描かれる(
マダバ地図
)。
543年
東ローマ帝国で「
ユスティニアヌスのペスト
」が大流行。
東ゴート国王
トーティラ
がヌルシアのベネディクトゥスを訪問。
543年頃
デカン高原
に
前期チャールキヤ朝
が成立する。
546年
東ゴート国王トーティラの軍勢が
ローマを略奪
。
修道士コルンバがアイルランドのダロウ修道院を創設。
546年頃 -
ラヴェンナ
の
サン・ヴィターレ聖堂
が献堂される。
548年 - 梁で
侯景の乱
。翌年には
建康
が陥落し梁の武帝が憤死。
549年 - ラヴェンナ近郊の
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂
が献堂される。
550年代
詳細は「
550年代
」を参照
550年
北斉
が東魏を滅ぼす。
エジプトの
フィラエ神殿
が東ローマ皇帝ユスティニアヌスの命により閉鎖される。
550年頃
インドでグプタ朝が完全に滅亡。
ネストリウス派
の修道士により中央アジアから東ローマ帝国に
絹
の製法が伝えられる(
東ローマ帝国の養蚕伝来
)。
552年
北アジアで
柔然
が分裂する。
突厥
が建国される。
日本に
仏教伝来
(『
日本書紀
』による)、
疫病
の流行、
崇仏論争
が起きる。
553年 -
第2コンスタンティノポリス公会議
で「三章問題」が討議されその著作が排斥される。
554年
東ローマ帝国がイタリアの
東ゴート王国
を征服。
東ローマ帝国が西ゴート王国領イスパニア南部に進軍。
ドゥヴィン教会会議で、
アルメニア
がキリスト
両性論
を拒否し、
非カルケドン派
を宣明する。
西魏が
江陵
を陥落させ、梁の
元帝
を殺害。
管山城の戦いで新羅の
真興王
が百済の聖王を倒す。
555年
北斉の
文宣帝
が柔然を撃破。西魏に亡命した一派も
突厥
により殲滅される。
アギラ1世
を倒して
アタナギルド
が西ゴート王に即位。
この王位継承争いで東ローマ帝国軍が
カルタゴ・ノヴァ
や
マラガ
そして
コルドバ
を征服。
557年
西魏に代わり
北周
がおこる。
梁に代わり
陳
がおこる。
558年 - サーサーン朝ペルシアのホスロー1世が突厥の
室点蜜
(イステミ)と同盟し、
ブハラ
の戦いで
エフタル
を滅ぼす。
560年代
詳細は「
560年代
」を参照
560年 - 西ゴート国王
アタナギルド
が
トレド
に遷都。
562年
カラクムル
の「空を見る者」王が
ティカル
のワク・チャン・カウィール王を倒し
マヤ
の覇権を握る。
任那
地方を含む
加羅
諸国が新羅の支配下におかれ,日本の勢力は後退する。
563年 - 修道士
コルンバ
が
スコットランド
西海の
ヘブリディーズ諸島
アイオナ島
に新たな
アイオナ修道院
を創建する。
564年 -
大英博物館
所蔵の
トゥルム
遺跡出土の「
トゥルム石碑1
」に刻まれている年はこの年のもの。
565年 - 東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が死去。
567年 -
ゲピド王国
がランゴバルド人に征服され、国王クニムンドが殺害される。
568年
ランゴバルド人がイタリアに侵入し、
アルボイン
を王とする
ランゴバルド王国
を建国。
この年以降、ランゴバルド系の
スポレート公国
・
ベネヴェント公国
も成立し、東ローマ帝国領南イタリアと拮抗する。
突厥の室点蜜が東ローマ帝国にソグド人首領マニアクの使節団を派遣する。
570年代
詳細は「
570年代
」を参照
570年
福岡県元岡古墳群で出土した「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の銘文を持つ鉄製大刀が作られる。
北斉の軍人
婁叡
の墓が
山西省
太原
に作られる。
571年 - 北斉の高官
徐顕秀の墓
が山西省太原に作られる。
572年 -
欽明天皇
死去、
敏達天皇
が即位。
574年 - 北周の
武帝
の廃仏が始まる(建徳の廃仏、
三武一宗の法難
の一つ)。
577年 - 北周が北斉を滅ぼし華北を統一する。
580年代
詳細は「
580年代
」を参照
580年頃 -
スラヴ人
が北ギリシャに侵入する。
581年
中国で
楊堅
(文帝)が北周を滅ぼして
隋
を建国。「開皇律令」が公布される。
突厥の
菴羅可汗
が
ソグド語
による
ブグト碑文
を建立。
582年
隋で都の
大興城
が整備され、
仏教治国策
として
大興善寺
が国寺として置かれる。
阿波可汗
が西走し、突厥が
東
西
に分裂する。
583年
隋の文帝が郡を廃止し、州県制を導入。
スラブ人やアヴァール人に追われた避難民により
ペロポネソス半島
のモネンバシア市が建設される。
584年 - 東ローマ皇帝
マウリキオス
が
ラヴェンナ
に総督府を設置。
585年
西ゴート王国が
スエビ王国
を滅ぼす。
敏達天皇死去、
用明天皇
即位。
587年 - 用明天皇死去、
蘇我馬子
が仏教受容反対派の物部氏を滅ぼす(
丁未の乱
)、
崇峻天皇
即位。
588年 - 蘇我馬子の発願による日本最初の本格寺院の法興寺(
飛鳥寺
)の造営が始まる( -
596年
)。
589年
隋が南朝の陳を滅ぼし、南北朝時代が終わり、中国が統一される。
第3回
トレド教会会議
で西ゴート国王
レカレド1世
がカトリックに改宗する。
590年代
詳細は「
590年代
」を参照
590年
ローマ教皇に
グレゴリウス1世
が即位。
アイルランド
の修道士コルンバヌスがリュクスイユ修道院を建てる。
590年頃 -
エルサルバドル
の
ホヤ・デ・セレン
遺跡がロマ・カルデーラ山の噴火によって埋没する。
591年 - 東ローマ皇帝マウリキオスが
カルタゴ
に総督府を設置。
592年
隋で
均田法
が施行される。
太原
南郊にソグド人を統括する検校薩保府の虞弘が埋葬される(隋代
虞弘墓
遺跡)。
崇峻天皇が暗殺され、推古天皇が即位。
聖徳太子
が推古天皇の摂政となる。
593年 - 聖徳太子の発願による
四天王寺
の造営が始まる。
594年
法隆寺
五重塔心柱のヒノキ材の伐採年代が年輪年代法によりこの年(推古2年)のものと判明している。
トゥールのグレゴリウス
が『
歴史十巻
(フランク史)』を完成させ、この年に死去。
596年 - 教皇グレゴリウス1世により修道士
アウグスティヌス
がイングランド宣教に派遣される。
597年 - ケント王
エゼルベルト
によりアウグスティヌスは布教を許され、初代
カンタベリー司教
に任ぜられる。
598年 - 隋で
科挙
が行われる。
高句麗
遠征(
隋の高句麗遠征
)に失敗する。
599年 -
東突厥
の
啓民可汗
に隋の
義成公主
が嫁ぐ。
599年頃 -
西突厥
の
泥利可汗
を記念する
ソグド語
碑文が
イリ地方
の
昭蘇
石人に刻まれる。
600年代
詳細は「
600年代
」を参照
600年
日本が第1回
遣隋使
を派遣(『隋書』倭国伝にみえるが、『日本書紀』に書かれていない)。
隋で
三階教
が邪教とされ弾圧される。
伝説・フィクションのできごと
502年
-
514年
- 梁の武帝は風狂の僧
宝誌
を尊崇し、その肖像画を描かせるべく三人の画家を遣わした。宝誌が画家たちの前で自らの顔に裂け目を入れ、顔の皮を左右に拡げると、中から十一面観音菩薩の顔が現れた。かくして
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2021/03/05 13:17
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