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731部隊とは?

この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。
【関東軍防疫給水部本部(731部隊)】

司令部の建物

【創設】
1940年(昭和15年)7月
【廃止】
1945年(昭和20年)
【所属政体】
日本
【所属組織】
大日本帝国陸軍
兵科
衛生部
【兵種/任務/特性】
軍医、防疫、生物戦
【所在地】
満州国ハルビン市平房区
通称号/略称 満州第731部隊
【上級単位】
関東軍防疫給水部
【最終位置】
満州国ハルビン市平房区
【主な戦歴】
ノモンハン事件-日中戦争
【731部隊】

再建された建物(1号棟)

【場所】
満州国ハルビン市平房区
座標
北緯45度36分 東経126度38分 / 北緯45.6度 東経126.63度 / 45.6; 126.63座標: 北緯45度36分 東経126度38分 / 北緯45.6度 東経126.63度 / 45.6; 126.63
【日付】
1940年 – 1945年
【攻撃手段】
人体実験
生物戦争
化学戦争
【武器】
生物兵器
化学兵器
爆薬
【死亡者】
人体実験でおよそ3,000人、戦場ではおよそ数万人
【攻撃者】
軍医総監石井四郎
中将北野政次
防疫給水部
初代731部隊長石井四郎(陸軍軍医中将)

731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。

満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。

目次

  • 1 沿革
  • 2 防疫活動
  • 3 生物兵器の開発と実戦的使用
    • 3.1 元部隊員への尋問・関連論文
      • 3.1.1 金子順一論文
    • 3.2 ペスト菌攻撃とされる事例
      • 3.2.1 寧波
      • 3.2.2 満州新京
      • 3.2.3 常徳
      • 3.2.4 浙贛
    • 3.3 被害者の証言
  • 4 人体実験
    • 4.1 実験材料「マルタ」と呼ばれた人々
    • 4.2 細菌学的実験
    • 4.3 生理学的実験
    • 4.4 細菌爆弾の効果測定
    • 4.5 性病実験と女性マルタ
    • 4.6 証拠隠滅とマルタの処理
  • 5 戦後
    • 5.1 アメリカ合衆国による731部隊調査
    • 5.2 731部隊の実験データの行方
    • 5.3 実験データのアメリカとの取引
    • 5.4 ハバロフスク裁判
      • 5.4.1 柄沢十三夫証言
      • 5.4.2 川島清証言
      • 5.4.3 倉員サトル証言
    • 5.5 朝鮮戦争における細菌戦
    • 5.6 日本国への賠償請求
  • 6 旧陸軍軍医学校跡地で発見された人骨との関連
  • 7 人体実験を裏付ける資料とその真偽
    • 7.1 アメリカ
    • 7.2 石井四郎手記
    • 7.3 関連が指摘される史料
  • 8 旧址
  • 9 参考文献
  • 10 関連作品
    • 10.1 小説
    • 10.2 映画
    • 10.3 舞台
    • 10.4 マンガ
    • 10.5 音楽
  • 11 脚注
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

沿革

1932年(昭和7年)8月、陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた。

1936年(昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」で関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した。

関東軍防疫給水部本部731部隊ボイラー棟建物。1945年8月9日ソ連軍満州への侵攻直後、大量の爆薬によって破壊された。常石敬一は、この破壊は証拠隠滅であったとする。

1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)」に改編された。そのうちの本部が「関東軍防疫給水部本部(通称号:満州第731部隊)」である。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた。厚生労働省の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)だった。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている。

1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判戦争犯罪人として訴追された。

2018年4月、国立公文書館に保管されていた、1945年1月現在の所属全3605人(軍医52人、技師49人、看護婦38人、衛生1117人他)の氏名・階級・当時の連絡先が記された名簿が開示された。

防疫活動

1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章陸軍技術有功章が贈られた。一方で、ノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある。

生物兵器の開発と実戦的使用

生物兵器」および「化学兵器」を参照

第一次世界大戦における化学兵器の使用を受け、1925年のジュネーヴ議定書では戦争時における化学兵器生物兵器(細菌兵器)の使用禁止が規定された。ただし、開発・生産・貯蔵といった行為は禁止項目ではなかった。日本政府はこれに署名はしたものの、上海停戦協定の成立後に五・一五事件犬養内閣が倒れ、1932年5月、議定書の批准に至らないまま、シーメンス汚職事件海軍大臣を辞任した斎藤実挙国一致内閣が組閣された。

このような背景もあり、常石敬一秦郁彦によれば、731部隊は単に生物兵器の研究を行っていただけではなく、生物兵器を実戦で使用していた。731部隊ではペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われ、寧波、常徳、浙贛(ズイガン)などで実際にペスト菌が散布されたと常石は述べている。

731部隊の傭人として3年間勤務した鶴田兼敏は、ノモンハン事件での生物戦での実体験について次のように語っている。「8月下旬の夜、急に集められ、トラックに乗せられ真っ暗な道を現場のホルステイン河に向かった。別に血判などはつかなかった。トラックは3台で、2台にそれぞれ兵隊が10人ほど乗り、残りの1台に細菌の培養液を入れたガソリン缶を積んだ。」さらに、中身を河に流す際、鶴田の内務班の班長だった軍曹が培養液を頭から浴び、腸チフスで死亡している。

また、元関東軍の大尉であった小島隆男は、731部隊と協力し、中国大陸にコレラ菌を拡大させる作戦に従事したとして次のように語っている。「コレラ菌は対象地域に撒きました。まず病気が発生したことを確認し、対象地域に入ります。日本軍が侵入すると中国人たちは逃げて、新しい人たちに次々に感染させ、我々の計画通りに病気を蔓延させます。死者の死体や動けない人々が、あたりに横たわっていました。夏になると蝿がたかり、ぞっとする風景でした。私たちは2週間これらの作戦を続け、任務成果報告書に中国人およそ2万人がコレラで死亡したと記入しました。」

元部隊員への尋問・関連論文

戦後のサンダースやトンプソンによる調査において、田中淳雄少佐は、1943年に防疫研究の余暇を使ってペストノミの増殖の研究を命ぜられたものの、ペストノミの増殖に不可欠な白ネズミが不足していたことから、ペストノミの大量増殖は不可能であったと供述している。

しかし、その後の 1947年に米軍の細菌戦研究機関キャンプ・デトリック(現フォート・デトリック)のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、日中戦争において、浙贛作戦(1942年)などで12回の生物兵器の使用があったとする。また、ペスト菌汚染された蚤を空中散布した、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者も複数存在する。部隊長石井四郎軍医は、フェル博士による尋問で炭疽菌の効果について次のように語っている。「炭疽菌についていえば、もっとも有効な菌であると確信しました。量産できるし、抵抗力があって猛毒を保持し、致死率は80%〜90%にのぼる。最も有効な伝染病はペスト媒介節足動物による最も有効な病気は流行性脳炎であると考えました」。

サンダース、トンプソンによる調査において元隊員が人体実験や細菌戦について語らなかった理由をトンプソンは「日本の生物戦研究・準備について、おのおの別個とされる情報源から得られた情報は見事に首尾一貫しており、情報提供者は尋問において明らかにしてよい情報の量と質を指示されていたように思える。」、「尋問全体を通じて、生物戦における日本の研究・準備、とくに攻撃面の研究・開発の規模を小さくみせたいというのが彼らの願望であることは明白である。」と述べている。

金子順一論文

1940年の新京や農安でのペストの大流行が、731部隊の細菌散布により起きたとする元731部隊所属の金子順一軍医の「論文集(昭和19年)」が、2011年に日本の国立国会図書館関西部で発見された。論文では、1940年6月4日に日本軍が農安(吉林省)でノミ5グラムをまき、1次感染8人、2次感染607人の患者が発生し、同年10月27日には寧波で2キロ軍機から投下し、1次・2次感染合計1554人、41年11月4日には常徳に1.6キロ投下し、2810人を感染させ、6つケースの細菌戦では感染者は計2万5946人に上ったと報告している。また、投下した年月日はこれまで判明していたものと一致している。

また金子論文は、太平洋や東南アジアでペスト菌を撒くことを想定し、地域や季節による効果を試算した研究内容を記述している。これらの計画は初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員がマリアナ諸島に派遣されたとする秦郁彦の説もある。

2012年6月15日衆議院外務委員会社民党服部良一議員は金子論文について質問すると、玄葉大臣は時間経過などを考えれば政府調査で事実関係が断定できるか難しく、今後の歴史学者の研究を踏まえていきたいと答弁した。

ペスト菌攻撃とされる事例

寧波

1940年10月27日早朝に行われた寧波へのペスト菌攻撃は、低空飛行の飛行機から細菌をまく方法で行われた。この時使われたノミは、ペスト菌を持つネズミの血を吸い「ペストノミ」となったものだった。ノミだけではうまく目的地点に到達しない恐れがあり、また着地のショックを和らげる必要もあって、穀物や綿にまぶして投下した。11月3日までに37人が死亡し、華美病院の丁立成院長が、犠牲者の症状をペスト菌であると宣言している。

満州新京

1940年(昭和15年)11月に満州国の新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動し、流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めたとされる。しかし、この点についてシェルダン・ハリスや解学詩は、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったと述べている。

常石敬一は、新京や農安で発生したペスト流行については日本軍の細菌攻撃説には確かな証拠がなく、疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病だったのではないかと述べていた。

しかし、2011年の金子論文発見により、ジャーナリストの渡辺延志は、新京でのペスト流行は新京から60キロの農安で始まった731部隊の細菌攻撃に端を発しており、農安から持ち込まれた犬が入院していた新京の日本人経営の犬猫病院を起点として、ペスト菌が拡大していったと述べている。

常徳

1941年11月4日に常徳で行われた同様のペスト菌攻撃は、散布の効果が薄かった。これは、中国側が寧波での経験を生かし、日本機が菌を散布した後に衛生担当者がただちにまかれたものを収集し、破棄したからである。結果として中国側は死者数を一桁に抑えられた。

浙贛

一方で、同1941年に行われた浙贛への細菌攻撃では、1万人以上の被害が出た。コレラ患者を中心1700人以上が死亡したものの、犠牲者はすべて日本兵だった。被害にあった日本兵は上官から、「これは中国による生物兵器攻撃だ」と教えられたと供述している。

被害者の証言

両親と4人の弟、それに叔父までもペストに奪われ、家族の中でたった1人生き残ったという当時15歳の王栄良は、1942年9月に崇山村でのペスト菌攻撃の様子について、次のように語っている。

日本の軍用機が低空で円を描きながら、煙のようなものを落としました。小麦やトウモロコシなどでした。数日後死んだネズミが見つかるようになり、開明街の一帯で高熱や痛みに苦しんでどんどん人が死んで行きました。街のみんなは一体何が起きたのかまったく理解できませんでした、自分の家族が次々と死んでいくのです。本当に悲惨な状態でした。みんな死ぬ時は苦しみもだえて、全身痙攣しながら死んでいきました。その体ははじめ赤くなって、死んだあとはだんだん黒くなりました。母は私の目の前で水をくれ、水をくれと叫び、父も喉をかきむしりながらライオンのようなうなり声をあげて死んでいきました。(中略)村民380人が死亡しました。20人も亡くなる日もありました。最初の死人が出ると、保護衣とマスクを着用した日本人が村に入り、3日間村中を巡回して村人に注射をしました。

もう一人の生存者、王達は、この生体解剖所について次のような手記を残している。

丘の頂上の寺に行くと、治療を受けられると言われました。私の友人は、妻が治療を受けるためにそこに行って、数日後台に縛り付けられて体を切り開かれているのが発見されたと私に話しました。彼女の足はまだ動いており、生体解剖されたことは明らかでした。

人体実験

「四方楼」。ロ字型の建物で15,000㎡ある細菌実験、生産の主要的建築があった場所で1945年8月に日本軍により爆破され地下基礎部分のみ現存する。

常石敬一秦郁彦によれば、731部隊では生物兵器の開発や治療法の研究などの目的で、本人の同意に基づかない不当な人体実験が行われていた。石井四郎は医学研究において「内地でできないこと」があり、それを実行するために作ったのがハルビンの研究施設であった、と戦後に語っており、この「(日本)内地でできないこと」とは主に人体実験を指していると常石敬一は述べている。

元陸軍軍医学校防疫研究室の責任者で、石井四郎の右腕といわれた内藤良一(のちの「ミドリ十字」の設立者)は、戦後のニール・スミス中尉による尋問で次のように証言している。「石井がハルビンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。(中略)石井はハルビンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルビンでは何の妨害もなく捕虜を入手することが可能でした。」さらに、細菌部隊のアイデアは石井ひとりのものだったとし、「日本の細菌学者のほとんどは何らかの形で石井の研究に関わっていました。(中略)石井はほとんどの大学を動員して部隊の研究に協力させていた」と供述している。

実験材料「マルタ」と呼ばれた人々

後述の元731部隊員の複数の証言によれば、人体実験の被験者は主に捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人中国人モンゴル人アメリカ人ロシア人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称され、その中には、一般市民、女性や子供が含まれていた。ジャーナリストの西野瑠美子によれば、731部隊が性別、年齢層、人種を超えた、幅広い実験データを必要としたためであり、女性マルタは主に性病治療実験の材料になったという。

731部隊の人体実験に関わった上田弥太郎は、自らの研究プロジェクトに関する手記の中で、マルタの様子について次のように言及している。

すでに立ち上がることさえできない彼の足には、依然として重い足かせがくいこんで、足を動かすたびにチャラチャラと鈍い鉄の触れ合う音をたてる。同胞を囲んで8つの眼がかたずをのんで見守っているが、誰も口を開く者はいない。(中略)ここに押し込められている人々は、すでに人間として何一つ権利がない。彼らがこの中に入れば、その名前は胸につけられたアラビア数字の番号とマルタという名前に変わるのだ。私たちは、マルタ何本と呼んでいる。

高い外壁で囲まれ、コンクリート造りの特設監獄(「マルタ小屋」と呼ばれた)に一度収容されると、脱出は極めて困難であったといわれる。石井四郎付き運転手であった越定男は、野外の安達細菌爆弾実験場で脱出を試みたマルタたち40人をトラックで轢き殺したとして、次のように証言している。「一度、縛られていたマルタおよそ40人が、お互いに縄をほどき合って、散り散りになって逃げたことがあります。しかし、遠隔地の空港ですから、逃げおおせる場所はありません。トラックで次々に彼らを轢き殺しました。前輪でひっかけたり(中略)、轢いた時は衝撃を感じました」。

マルタの人数は、終戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言によると3,000人以上とされる。731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年に「毎日2〜3体、生きた人を解剖し(中略)多い時は1日5体を解剖した」と証言している。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700 - 800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある。終戦時には、生存していた40-50人の「マルタ」が証拠隠滅のために殺害されたという。こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、以下に示す元部隊員など関係者の証言である。

細菌学的実験

731部隊における人体実験は通常、生体解剖を意味した。これは被験者が死亡してしまうと人体に雑菌が入るため、人体に雑菌が入らないうちに解剖して臓器などを取り出す必要があったからであるとする。

元731部隊員で中国の撫順戦犯管理所に1956年まで拘留され帰国後は中国帰還者連絡会(中帰連)会員として活動してきた篠塚良雄は、当時14歳の少年隊員として「防疫給水部」に配属され、ペスト患者の生体解剖に関わったという。篠塚は帰国後、高柳美知子との共著の中で、中国人マルタの生体解剖の様子を次のように語っている。

「ワクチンなしでペスト菌を注射されたその男性は(中略)、2、3日後には、高い熱が出て顔色が悪くなり、その翌日くらいには瀕死の状態で顔が黒っぽく変わっていきました。(中略)この男性はまだ息のある状態で裸のまま担架に乗せられ、私たちが待機している解剖室に運ばれてきました。(中略)大山軍医少佐から「はじめよう」の命令がでました。細田中尉が、目でメスをわたすように私に合図します。足かせ手かせで固定された男は、カッと目を見開き、この凶行を確かめるように首を回しましたが、体の自由はききません。男は無念の涙を目にたたえ、天井の一点を見つめています。何か叫びを発しようとしているようですが、乾ききった口からは声は出ず、わずかに口を動かすだけです。男の首をなで回していた細田中尉が、右手のメスでズバリと頸動脈に沿って切り下げました。血がジューッと流れ出しました。男は、ペスト病の苦しみと、切りさいなまれた痛さで首を左右に振り回します。そのたびに顎にかかっている首かせが食い込み、ついにガクリと首をたれ失神しました。私はあわてて血を抜き取りました。(中略)ビタカン(ビタミン剤とカンフル剤を混合したもの)を4本打っても、男の鮮血を絞ることはできません。「鬼子ッ!」男は憎しみの火と燃える一言を絞り出すとスーッと顔色が代わり、呼吸が止まりました。「解剖刀をよこせ」細田中尉は、解剖刀を逆手に握ると、上腹部から下腹部へ得意然として切りさいなみ、骨を切るノコギリを引いて肋骨を引き切り、内臓の全部を露出させました。」

生体実験では、日本人が犠牲になることもあったという。篠塚はペストに感染した友人の少年隊員であった平川三雄の生体解剖に立会った時の様子を、次のように語っている 。

「平川三雄は、すでに特別班の隊員によって真っ裸にされ、解剖台にかつぎ上げられているところでした。(中略)うつろに開かれた眼には涙が溢れ、口をダラリと開けてハーハー苦しそうに息をはき、そのたびごとにビクビク腹を波うっていました。(中略)「少佐殿、少佐殿」平川の必死な叫びが、部屋にむなしく響きます。私の頭の中には、石井部隊に入隊するとき、「三雄と仲良くしてやってネ」と私の手に小さなくだもの籠をわたしてくれた平川の母親の顔が浮かびました。また、それ以来、共に過ごした生活が渦を巻いて脳裏に押し寄せてきました。「助けてやりたい」そう思った私の手が、止血剤を取ろうと薬物箱に伸びようとした瞬間、平川の全身をつつきまわして検査していた大山少佐の命令がかかりました。「はじめろッ」(中略)江川技手は、解剖刀を逆手に握ると上腹部を刺しました。「助けてくれーッ」平川の口からうめきがもれると、江川技手の手が震えました。「その態はなんだ」後ろから一喝を食った江川技手は、サーッと解剖刀を下にひくと、かえす刀で胸部の皮膚をさきはじめました。血は解剖台の血流しを通じて、下にボタボタ流れ出しました。「畜生!」平川の口から、血をしぼる叫びが出ました。それと同時に、解剖台上に内臓がズッズーッとはみ出て、彼は絶命しました。」

(なお篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている。田辺敏雄は、こういった中帰連関係者などの証言について、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定(自己批判)させられた者の証言であるとして、信憑性を疑問視している)。

上田弥太郎は手記の中で、人体実験を行った時の様子を次のように描写している。

すでに紫藍色を呈して冷たくなりかかった手が入口に出された。私は嬉しさと勝利感でいっぱいだった。「班長は、どんなに結果を期待しているだろう」と言い表すことのできない興奮を抑えて、注射器を手に取った。

注射器はぷすりと鈍い音を立てて、肘静脈に刺された。赤黒い血液が注射器の中に吸い込まれていく。3cc~5㏄、彼の顔はしだいに蒼ざめ、もううめき声さえも聞こえない。喉がひーひーと虫の啼くような音を立てている。耐え難い屈辱と憤りの眼は、まばたきもせず私は睨んでいる。 しかし、そんなことはどうでもよいのだ。だた10㏄の血液を採りさえすれば・・・、これがいわゆる研究に携わる者の悦びでありまた天職なのだ。人の死の苦しみも私には何ら同情するに値しない。 手早く血液を処理し、再び監房の中を覗いてみた。彼は引きつった顔を時々ピクッピクッと痙攣させて、呼吸も次第に浅くなり、チェンストーク氏呼吸(死の前に起こる呼吸状態)に入った。同じ運命にある同房者はたまらなくなったのか流れる水を汲んで、まさに逝かんとする同胞の口に注ぎ込んでいる。ああ、何という暴虐!」

生理学的実験

731部隊では、ガス壊疽実験、凍傷実験、銃弾実験などのように、人体を極限まで破壊すると、人体はどのくらいの期間持ちこたえることができるのか、あるいはそこからどのように治療すれば回復させることができるのか、といった生理学的な研究も頻繁に行われた。こういった実験は、731部隊以外の陸軍病院などでも行われた。

元731部隊員の越定男によれば、731部隊で最も熱心に行われた人体実験は、ガラスで覆われたガス室の外から犠牲者を観察するガス実験であったという。越は、ガス実験に立ち会った時の様子を次のように語っている。

マルタと一緒に鳩、鶏などが籠に入れられたまま運び込まれる。(中略)背の高い眼鏡をかけた通訳生がマルタに適当な嘘を言って送り込んでくる。やがてガス発生機の音や風車の音がし始める。大抵ガスは眼に見えない。ガラス越しにマルタの表情を見て、ガスの濃度や効果を知るわけである。

ガラスを通してみるマルタの表情、動きは刻々に変わる。ガスの種類によって突然、泡を吹き出す者もあれば、苦痛に顔をゆがめる者もあり、鼻水を出したり、時には喀血する者もいる。使用ガスは、イペリット、ホスゲン、ルイサイト、青酸ガス、一酸化炭素ガスなどさまざまである。(中略)絶命したマルタは解剖室へ、半死半生のマルタは特別室へ入れて、二度、三度と実験に使い、決して生かしておくことはない。

さらに、同じく731部隊の印刷部員だった上園直二は、「2人の白系ロシア人の男性が零下40度から50度の冷凍室の中に素裸で入れられていました。研究者たちが彼らが死んでいく過程をフィルムに撮影していました。彼らはもがき苦しんでお互いの体に爪をめり込ませていました。」という証言をしている。

731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席し、子持ちの慰安婦を解剖した時のことを次のように回想している。「子どもが泣いている前で母親が死んでいった。子どもはどうするのかと思っていると、凍傷(の実験台になった)。それをざんごうに放り込んで埋める。本当に悲惨なことがたくさんあった。」

石井部隊長の私設秘書的存在として活動していた、731部隊の郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟の友人から次のような証言を聞き出している。「ときには、マルタが3、4人ずつで中庭の散歩を許された。この時は、手錠だけで足枷は外されたようだ。自分が見た中で忘れられないのは、この中庭の周りを、土のうを背中にくくりつけられたマルタが、食事も睡眠も与えられないで、走らされている光景だ。何日生きておれるか、という実験をしているとのことだった。」

1935年から1936年にかけて背陰河の東郷部隊に傭人として勤めた栗原義雄は、水だけを飲ませる耐久実験について、「自分は、軍属の菅原敏さんの下で水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると『大人、味のある水を飲ませてくれ』と訴えました。45日間生きた人は左光亜(サコウア)という名前の医者でした。彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね。」と語っている。

細菌爆弾の効果測定

常石によれば、マルタを使用した安達実験場での爆弾実験は、新型爆弾の開発が追い込みにかかる1943年末以降に活発化した。炭疽菌爆弾の場合、マルタは榴流弾の弾子で負傷し、血だらけとなる。マルタは担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどのように死んでいくかが観察された。多くの場合、全員が感染し、数週間以内に死亡している。最後には内臓のどの部分が最もダメージを受けたかを明らかにするために、解剖された。

731部隊の女性隊員郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟から、安達実験場での細菌爆弾の効果測定にマルタが使用されていたことを示す次のような証言を聞き出している。

「やがて特別出入口から、その日の「演習」に使用される「丸太」たちが、特別班の看守に護衛されて出てきた。一列に数珠つなぎにされている。だいたい、1回に2、30人だった。中国人、ロシア人、ときおり女性の「丸太」も混じっていた。服装は私服のままだった。(中略)覆面トラックから降ろされた「丸太」たちは、いましめを解かれ、一人ひとりベニヤ板を背に立たせられた。後ろ手に縛られ、ベニヤ板にさらに縛りつけられる。足は鎖で繋がれていたように思う。胸にはられた番号と位置とが確認されていく。「丸太」たちの表情はまったく動かず、抵抗もなかった。なかには、目隠しを拒否する「丸太」もいた。毅然と胸を張ってベニヤ板を背に立っている「丸太」の水色の中国服の色が、いまだに瞼にやきついている。(中略)「標的」と化した一団の「丸太」たちを、幾人かが双眼鏡を目にあてて観察している。まもなく鈍い爆音とともに黒点があらわれ、みるみるうちに大きくなってきた。低空で近づいてくる双発の九九式軽爆撃機だ。爆撃機は「標的」の中心の棒をめがけて、20キロ爆弾、30キロ爆弾を投下した。「ドカーン」という爆発音が、黒煙を追いかけるように、自分たちの耳にひびいてきた。爆撃機が飛び去り、黒煙が収まると、すぐに現場にかけつける。防毒衣、防毒マスクで完全に防護された自分たちが見た現場は、むごたらしいものだった。そこは、「丸太」の地獄だった。「丸太」は、例外なく吹きとばされていた。爆撃で即死した者、片腕をとばされた者、顔といわず身体のあちこちからおびただしい血を流している者‐あたりは、苦痛のうめき声と生臭い血の匂いとで、気分が悪くなるほどだった。そんななかで、記録班は冷静に写真や映画を撮り続けていた。爆弾の破片の分布や爆風の強度、土壌の情態を調べている隊員もいた。自分たちもまた、てきぱきと「丸太」を収容した。あとかたづけは、実験内容の痕跡を残さないように、ていねいに行われた。「丸太」は死んだ者もまだ生きている者も一緒にトラックに積みこまれた」

性病実験と女性マルタ

731部隊では、性病実験も頻繁に行われた。戦時中の性病治療法は極めて限られており、主な方法は注射しかなかったが、性病の蔓延は陸軍内部で深刻なほど拡大していた。例えばシベリアでは、多くの日本兵が現地のロシア人女性を強姦したために性病が蔓延し、1個師団相当の兵力が失われたとされ、軍紀が乱れる大きな原因となった。司令部は、731部隊がこの問題を解決するよう期待したのである。

当初、731部隊では注射で女性マルタに梅毒を感染させていたが、現実に即した実験結果が得られなかったため、マルタを強制して性行為を行わせることで梅毒を感染させ、梅毒にかかった男女を小部屋に入れて再び性行為を強制した。性行為に立ち会ったという元隊員は、西野瑠美子とのインタビューの中で、「目の所だけが開いている白い袋のような帽子を、頭からすっぽりかぶり、白衣を着て、まわりに立っておった。4、5人が見ている前で、セックスをさせたんですよ。拒否することはできない。モーゼル拳銃を構えているわけですからね。」と語っている。

また、元隊員の上田弥太郎の証言記録によれば、1942年4月に行われたマルタを使った毒ガス演習で、小林という隊員が「それはもったいないことをした。俺の子供まで殺しちゃった。」と言っていることから、隊員による女性マルタの強姦もあったものと西野瑠美子は推測している。

マルタが性病に感染すると、その経過を丹念に観察して、1週間後、3週間後、1ヶ月後における病気の進行状態を確認した。研究者は性器の状態など外部的兆候を観察するだけでなく、生体実験を行って様々な内部器官の病気がどの段階に達しているかを検査した。また、731部隊の研究員だった吉村寿人(のちの京都府立医科大学の学長)が戦後に発表した論文には、乳児を氷水の中に漬けた際の温度変化が記録されていることから、実験中のレイプにより生まれた乳幼児、あるいは731部隊に捕えられる前から妊娠中だった女性マルタが出産した多くの乳幼児が凍傷実験で消費されたものと西野は考えている。

元731部隊員の胡桃沢正邦は、証言ビデオの中で、生体解剖時の麻酔から目覚めた女性マルタの様子について次のように回想している。

(インタビューワーの女性) 「眼は開いているの?」

(胡桃沢正邦) 「眼は開く場合もある。」

(インタビューワーの女性) 「叫んだりする人もいた?.....何と言ったの?」

(胡桃沢は力なく泣き始め) 「そのことは2度と思い出したくない!」 (胡桃沢は謝罪し、数秒後しゃくりあげながら答えた) 「『私は殺されてもよいが、子供の命だけは助けてください』と言った」

証拠隠滅とマルタの処理

1945年8月9日のソ連軍の満州への侵攻直後、731部隊の施設建物が大量の爆薬によって破壊された。常石敬一は、この破壊は証拠隠滅であったとする。秦郁彦は、終戦時には、生存していた40~50人のマルタが証拠隠滅のために殺害されたと推測している。元隊員の越定男によれば、これらのマルタは青酸ガスを噴出させて殺害するか、銃で脅しながらマルタ2人を互いに向かい合わせ、首にロープを巻き、その中央に棒を差し込んで、2人にねじらせることで殺害したという。作家の森村誠一は、マルタの毒ガスによる集団殺戮を目撃したとする以下の元隊員の証言を聞き出している。

「マルタの中の数人は毒ガスで死にきれず、鋼鉄製のドアをたたき、苦悶のうなり声をあげのどをかきむしって苦しんでいた。特別班員がゆっくりと近づき苦悶するマルタを胸に向けてモーゼル拳銃の引き金を引いた。殺したマルタの足を引っ張って、7棟横にあった大きな穴の中に、次々と死体を放り込み、ガソリンと重油をかけ、火をつけた(中略)11日の午後だったと記憶している。731の焼却炉は、生首の標本や細菌培養の寒天、膨大な書類や器具を焼却するためふさがっていた(中略)マルタの死体はなかなか燃えなかった。しかし撤収は一刻を争う。浮き足立った特別班員らは死体焼却作業の半ばで土を掛け、逃亡してしまった(中略)そのため土の中から手足が突き出ており、とても証拠隠滅の役を果たしていない。部隊幹部がこの状況を見て『もう一度死体を掘り出し、完全に焼いてしまえ』と命令した(中略)目をむいて硬直しているマルタの死体(中略)掘り出す役目に当たった隊員らは、吐き気をこらえながら作業を続けた。」

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出典:wikipedia
2019/06/16 19:45

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