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B-29_(航空機)とは?

B-29 スーパーフォートレス

飛行するB-29A-30-BN 42-94106号機
(第472爆撃航空団所属、1945年撮影)

B-29 スーパーフォートレス(Boeing B-29 Superfortress)は、アメリカボーイングが開発した大型戦略爆撃機

特徴

B-29は、中型爆撃機から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定した設計である。B-29による日本本土空襲は、日本の継戦能力を喪失させる大きな要因となった。

愛称は「スーパーフォートレス」。戦時中の文献ではスーパーフォートレスという愛称を「超空の要塞」と説明したものがあり、当時のニュース映像では「超空の要塞(ちょうそらのようさい)」と呼んでもいる。

B-29は専門の航空機関士を置く初めての機体にもなった。B-17までの従来の軍用機は操縦席の計器盤をエンジン関係の計器が埋め尽くしており、パイロットは操縦と共にそれらの計器類を監視しなければならなかったが、B-29ではそれらが全て航空機関士の前に置かれ、パイロットは操縦に専念するなど、飛行機操縦の分業化が図られている。

機体

従来の飛行機では高空で機内の気圧・気温が低下するため酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要だが、B-29は高度9,000 mで高度2,400 m相当の気圧に維持することができた。これはボーイング307の技術を応用し、毎分11.25 ㎏の加圧能力を持つ与圧装置を設置したことによる。爆弾槽を開閉する必要から、B-29では機体前部の操縦室と機体後部の機関砲座を与圧室とし、その間を直径85 ㎝の管でつなぎ、搭乗員はこの管を通って前後を移動した。被弾に備えて酸素ボンベも設置された。機内冷暖房も完備され、搭乗員は通常の飛行服のみで搭乗していた。撃墜されたB-29乗員の遺体を日本側が回収した際、上半身Tシャツしか着ていない者もいるほど空調は完備されていた。それを知らない日本側は搭乗員に防寒着も支給できないとし、アメリカもまた困窮していると宣伝を行った。機体は軽量ながら強靭な装甲板に覆われて防御力も高かった。日本軍の戦闘機や対空砲火で無数の弾痕や高射砲の破片痕が開き、中にはそれが機体上部から下部に達するような大穴であったり、尾翼の大半が破壊されたりしても、マリアナ諸島の飛行場まで自力で帰還できた。また、このような大きな損傷を受けても修理を経て再出撃できる整備性があった。

重量はB-17の2倍となったが、翼面積はB-17の131.92m2に対してB-29は159.79m2と21%増に留まり、翼面荷重はB-17の約2倍となった。翼面荷重が増加すると着陸時の速度が高速となってしまうが、フラップを長さ10mの巨大なものにすることにより、着陸速度を減少させるだけでなく離陸時の揚力も増加させている。そのためにB-29の主翼は縦横比(アスペクト比)が大きな、細長く空気抵抗の少ない形状となった。垂直安定板の前縁にはアンチ・アイス(防氷装置)も設置された。空気抵抗を局限まで減少させるため沈頭鋲(鋲の頭を平らにして表面に凹凸がないようにしたもの)を使用したり、繋ぎ目を重ね合わせないで溶接した。

エンジン

B-29はライト社が開発した強力な新型エンジン、ライト R-3350を4発搭載していた。R-3350は複列星型の9気筒2列の合計18気筒で、2基のゼネラル・エレクトリック社製B-11排気タービンが装着されており、ミネアポリス・ハネウェル・レギュレータ社製の電子装置で自動制御され、高度10,000mまで巡航時で最大2,000馬力の出力を維持できた。(離陸時は2,200馬力)しかし、先進的な構造により、エンジンは過熱しやすくよくエンジン火災を起こすことになった。特に軽量化のために多用されたマグネシウム合金の可燃性が強いため、重篤な火災となることも多かった。試作第一号機のXB-29-BOもエンジン火災により墜落している。当初はその信頼性の低さから、ライト(Wright)エンジンをロング(Wrong-誤りだらけの意味)エンジンと呼ばれたり、火炎放射器などと揶揄されたが、のちに、シリンダー・バッフルとカウル・フラップの設計変更により過熱をかなり低減させている。運用当初はR-3350の交換時期を飛行時間にして200時間から250時間に設定していた。これは平均15回の出撃に相当したが、エンジンの冷却力向上により750時間まで延長することができた。エンジン交換は熟練した整備兵により5時間30分で完了し、取り外したエンジンは本国に送り返されて再整備された。インドやマリアナ諸島の前線基地に飛行する際に、爆弾槽に1個の予備エンジンを搭載した。

耐久時間は延長されたが、エンジン発火の問題は最終的な解決までには至らず、第869爆撃団のH.W.ダグラスによれば「エンジンの火災は、大問題だった。マグネシュウム合金部分が燃え出すと、もう手が付けられなかった。ある夜、私の機はプラットで訓練中に、衝突でエンジン火災を起こした。消防車が到着して、ありったけの消火液をかけたが、炎の勢いはちっとも弱まらなかった。」と回想している。B-29クルーの間ではエンジンが発火した場合「30秒以内には、火が消えるか、私が消える!」という言い伝えがあったという。戦争が終わり、基地のあるサイパン島から本土に向けて帰還するときも、1機が離陸直後にエンジン火災で墜落したほどであった。

試作1号機の墜落から1944年9月までの試験飛行で合計19回のエンジン故障による事故が発生するなど、信頼性が抜群とまでは言えないR-3350であったが、B-17と比較すると戦闘重量で2倍の約44,100㎏の巨体を、B-17より30%増の速度で飛行させる出力を発揮し、最高速度で570 km/h、巡航速度で467 km/hという戦闘機並みの高速で飛行させることが可能となった。機動性も極めて高く、試験飛行から日本への爆撃任務まで操縦したパイロット、チャールズ.B.ホークスによれば、水平での加速や急降下速度でも戦闘機に匹敵したといい、アクロバット飛行も可能であったという。試作機が一緒に飛行していたF6Fヘルキャットの前で急上昇ののち宙返りをしてヘルキャットのパイロットを驚かせたこともあった。そしてこの出力は排気タービンにより高度10,000mでも変わりはなく、高高度での飛行性能に劣る日本軍機の迎撃を困難にさせた。

電子装備

B-29には、当時のアメリカの最先端の電子装備が配備され、航法や爆撃任務に最大限活用された。初期型では、長距離航法としてAN/APN-4LORANが用いられ、のちにAPN-9が装備された。高高度爆撃と飛行に使用されたレーダーはAN/APO-13であり、80センチのアンテナは2つの爆弾倉の間に設けられた半球状のレーダー・ドーム内に設置され夜間爆撃用に使用される。一部の機体に設置されたより高度なAN/APO-7「イーグル」爆撃照準・航法用レーダーは、機体下部に吊り下げられた翼状のケースに収納された。SCR-718レーダー高度計は爆撃のための詳細な高度測定と地形マッピングに使用された。またその計測データは偏流計のデータと合わされて、対地速度と針路を計算するのにも使用された。

武装

B-29では与圧室の採用により通常の爆撃機のように人が乗り込んで直接操作する方式の銃座は設置できないため、射手が集中火器管制を行って機銃を遠隔操作する方式をとった。B-29は5ヵ所(胴体上面の前後部、下面の前後部、尾部)に火器を備え、上部および下部銃塔には連装のAN-M2 12.7ミリ機関銃、尾部には同様のAN-M2 12.7ミリ連装機関銃に加えてAN-M1 20ミリ機関砲 1門が装備された。 ただし、20ミリ機関砲は作動不良や給弾不良などの不具合が多く、また、12.7ミリ機銃とは弾道特性や有効射程が異なるために照準上の問題があり、実戦投入後に撤去している機体が多い。現地改造で20ミリ機関砲を12.7ミリ機銃に換装した機体もあり、尾部銃座が12.7ミリ機銃3連装となっている機体が存在する。

機体各所の連装12.7ミリ機銃の銃塔はそれまでの有人型と異なり中に人が入らなくてもよいため、高さの低い半球形となり、 空気抵抗を小さくして速度性能を高めることに貢献した。ただし、小型で全高の低い銃塔は仰角はともかく俯角がほとんど取れないという難点もあり、全高を多少増したものが開発されている。また、機体前上方の防御に関して「連装機銃では火力が不足しており、有効な弾幕が張れない」という要望が出たために、B-29A-BNよりはコクピット後方の機体前部上面に装備される銃塔は機銃を4連装として直径を増したものに変更されたが、多少大型になったとはいえ小型の銃塔に機銃を4基も詰め込んだため、連装のものに比べて旋回速度が遅い、射撃時の衝撃で故障が多発するなどの問題が生じ、B-29A-BN block 40 A後期型よりは内部構造や機構を強化した大型の流線型のものへと変更されている。

このようにB-29の防御火器は試作機が完成して実戦投入された後も改良が繰り返され、機首や機体側面に機銃を増備した機体や、銃塔を20ミリと12.7ミリの混載として大型化したものなども開発されたが、最終的にはいずれも採用されず、また、実戦投入後は日本側の、特に夜間の迎撃体制が予想外に貧弱なこと、1945年に入り硫黄島が攻略されると昼間任務には戦闘機の護衛がつけられるようになったことから、B-29の主任務が夜間低空侵入による都市無差別爆撃が主体となった時期からは爆弾と燃料の搭載量を増大させるために尾部の12.7ミリ連装銃座を除いて武装は撤去されるようになり、製造当初から尾部銃座以外の武装を省いた型(B-29B)が生産されるようになった。

銃塔を制御する照準装置は5ヵ所に設置され、4ヵ所は専任の射手が、もう1ヵ所は機体前方に配置されている爆撃手が兼任で担当した。こうしたB-29の射撃システムにはアナログ・コンピューターを使用した火器管制装置(ゼネラル・エレクトリック社製)が取り入れられており。機体後部の半透明の円蓋下に取り付けられた別名「床屋の椅子」に座った1人が射撃指揮官として上部射撃手を兼用して対空戦闘を指揮したほか、左側射撃手と右側射撃手の計3人が尾部と前部上部銃塔を除く残りの銃塔を照準器を使用して操作するが、戦闘に応じて銃塔の操作の担当を他の射撃手に切り替えることも可能である。照準器には、弾着点とそれを囲むレチクルと呼ばれるオレンジ色の点々の丸い円が写しだされ、射手は敵機の翼幅を照準器で手動でその数字に設定し、敵機が見えると右手にある距離ノブによって照準器を始動させ、照準器内で敵機を弾着点とそれを囲むレチクルの丸い円に入れるように操作する。このレチクルは距離ノブの操作により丸い円の直径が変化して距離が測れるため、敵機が近づくと距離と同時に弾着点を捉え続けているので、敵が射程に入り次第親指で発射ボタンを押して射撃するだけでよかった。ただし、激戦の中では護衛のアメリカ軍戦闘機と日本軍戦闘機との識別は困難で、射手はB-29以外の機影に対し反射的に引き金を引く習慣がついていたという。なお、各銃塔にはガンカメラが備えられており、戦果の確認等に活用された。

照準器と銃塔の動きを同期させるための制御はセルシンを使用するが、目標への方位角や仰角などの機銃の発射する弾の弾道計算を含むすべての計算は、床下の”ブラックボックス”に収められ装甲で保護された重量57㎏のアナログ・コンピューター5台よって行なわれるため、それまで非常に高い練度を必要とした見越し射撃が誰でも可能となり、従来の爆撃機搭載防御火器よりも命中率が驚異的に向上、敵機はうかつに接近できなくなった。このアナログ・コンピューターは、当初生産が少なく、急遽ゼネラル・エレクトリック社に大量生産の指示がなされ、技術者たちにも動員がかかり、昼夜を問わず寒風のなか露天に並べられたB-29の機内でコンピューターの設置作業に従事している。

歴史

開発段階

アメリカ陸軍標準のオリーブドラブ塗装を纏うYB-29試作機。量産型では一般的に知られるジュラルミン地剥き出しの無塗装へ変更された

アメリカ陸軍の航空部門であるアメリカ陸軍航空隊は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍を中心とし長距離渡洋爆撃を想定していた。B-29はこの構想の中から生まれた機体で、1938年に完成した試作機(ボーイングXB-15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された。そして1939年9月1日ナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻の日、アメリカのキルナー委員会は、陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先とすべきとの勧告をしている。

1939年11月、行動半径2000マイルでB-17、B-24に優る四発爆撃機の試作要求が提出される。1940年6月27日、5機が予備発注される(XB-29)。1941年5月にはアメリカ陸軍よりボーイング社に250機を発注する意向が通告され、ボーイング社はウィチタで広大な新工場の建設に着手し、大量の労働者を確保した。1941年9月6日にアメリカ陸軍とボーイング社の間で正式な発注の契約が締結されたが、この契約を主導したアメリカ陸軍物資調達本部のケネス・B・ウルフ准将は、まだ試験飛行すらしていない航空機に対する莫大な発注に「30億ドルの大ばくち」だと言っている。しかし12月8日に日本軍による真珠湾攻撃でアメリカの第二次世界大戦への参戦が決定すると、この発注は500機に増やされ、1942年2月10日にはさらに1,600機に増やされた。

1942年9月21日、B-29が初飛行。試作第一号機のXB-29-BOエディ・アレンと彼のチームによって飛行した。アレンは試作二号機(製造番号41-003)のテスト飛行も担当したが、1943年2月18日、テスト飛行中のエンジン火災で操縦不能となって食肉加工工場の五階建てビルに衝突、アレンを含む11名のB-29クルー、工場にいた19名の民間人、消火活動中の消防隊員1名の合計31名が死亡、B-29最初の事故喪失機となった。議会が発足させた調査委員会(委員長はハリー・S・トルーマン上院議員(当時))は、急ピッチな開発方針のもと、エンジンメーカーのライト社が質より量優先の生産体制をとり、エンジンの信頼性低下を招いたことを明らかにし、メーカーと航空軍に対し厳重に改善を勧告した。しかし、これらの諸調査が行われている間はB-29の全計画は全く進まず、スケジュールが遅れることとなった。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41-8335)が量産モデルとして採用された。 なお、この事故は厳重な報道管制にも関わらず、多数の目撃者がいたためアメリカ国内で報道され、これにより日本軍はB-29の存在を掴み、「B-29対策委員会」を設置して情報収集と対応策の検討を開始した。

1943年6月、実用実験機のYB-29が米陸軍航空軍に引き渡される。

機体の製造と並行して搭乗員の育成も行われた。その責任者にはB-29調達計画を主導してきたのウルフが任命されたが、陸軍航空隊のプロジェクトのなかでも最高の優先度とされ、特に技量の優れた搭乗員か、経験豊かなベテランの搭乗員が選抜されてB-29の操縦訓練を受けるため、1943年7月にカンザスシティのスモーキーヒル陸軍飛行場に集められた。ウルフの任務は、招集されたアメリカ陸軍最精鋭の搭乗員らの訓練に加えて、B-29の初期の不具合を洗い出して改善を進めていくというもので、任務の重要性から「ケネス・B・ウルフ特別プロジェクト」と呼ばれることとなった。しかし、B-29の生産は遅れて、完成してスモーキーヒルに送られてきても不具合で飛行できないといった有様であり、招集された搭乗員らはB-17などの他の機での訓練を余儀なくされている。

第二次世界大戦

運用方針決定まで

B-29計画を主導したジョージ・マーシャル陸軍参謀総長とヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルドアメリカ陸軍航空軍司令官

1943年1月に開催されたカサブランカ会談の席上で、ジョージ・マーシャルアメリカ陸軍参謀総長は、中華民国を基地とする戦略爆撃機で、日本の工業に強力な打撃を与えて戦力を粉砕すべきと提案し、アーノルドがそのためにB-29という戦略爆撃機を開発中であると報告した。ルーズベルトは中華民国の戦意を高めるために、日本本土に散発的でもいいので爆撃を加えるべきと考えており、蒋介石に対して、アーノルドを重慶に派遣して日本本土への爆撃計画を検討すると告げた。カサブランカ会談ののち、ルーズベルトの意を汲んだアーノルドは「蒋介石と協議し、日本の心臓部を直ちに爆撃する基地を獲得し、その準備を終えようとしている」と演説した。

日本軍は本土空襲に対する警戒と準備を始めることになった。 ちょうどこのころB-29試作機が墜落し、この情報を知った日本軍は対策に乗り出す。日本陸軍は軍務局長佐藤賢了少将を委員長とするB-29対策委員会を設置、海外調査機関を通じて資料を収集する。量産開始は1943年9月~10月、生産累計は1944年6月末480機・同年末千数百機という予想をたてた。この時点ではB-29の性能を把握しておらず、日本軍はB-29がハワイ島やミッドウェー島から日本本土へ直接飛来する可能性を考慮していた。東条英機陸軍大臣は「敵の出鼻を叩くために一機対一機の体当たりでゆく」と強調した。

1943年6月にR-3350-13sエンジンからR-3350-21sエンジンにアップグレードされた実用実験機のYB-29が飛行を開始した。B-29の開発状況をつぶさに見ていたアーノルドは、実験機で不具合や故障を出し尽くし、外地に基地を作り本格的な運用を開始できるのは1年後になると見積もったが、その予測をもとに「我々はB-29の爆撃目標をドイツとは考えなかった。B-29の作戦準備が整うまでに、B-17やB-24が、ドイツとドイツの占領地域の工業力、通信網、そのほかの軍事目標の大半を、すでに破壊してしまっている」と考えて、B-29を日本に対して使用しようと決めている。

1943年5月に、ワシントンD.C.フランクリン・ルーズベルト大統領、ウィンストン・チャーチル首相、アメリカ・イギリス軍連合本部が、対日戦におけるB-29の使用方法を検討した。会議の中心はB-29の基地をどこに置くかであったが、連合軍支配地域で対日爆撃の基地として使えそうなのは、中華民国の湖南省であり、東京から2,400㎞かなたのここを基地とする「セッティング・サン(日没)」計画が立案された。しかし、中華民国中央部に基地を設ければ、日本軍の支配地域に囲まれることとなり、基地の維持が困難であることは明白であった。中国・ビルマ・インド戦域アメリカ陸軍司令官ジョセフ・スティルウェル中将は「それらの爆撃攻勢に対し、日本軍は空地の大規模な作戦をもって、猛烈に反撃するであろう」と、ドーリットル空襲に対し日本が浙贛作戦を行ったことや、飛行場を防衛するために多大な戦力が必要になると計画修正の必要性を訴えた。そのため、セッティング・サン計画の代案として、補給が容易なインドのカルカッタ地区を根拠基地とし、桂林―長沙に沿う数か所に前進基地を設けて爆撃任務の時だけ用いる「トワイライト(薄明り)」計画が立案された。

1943年8月のケベック会談ではB-29の使用が戦略の一つに挙げられ、トワイライト計画も議題となった。会議ではトワイライト計画自体は否定されたが、インドと中華民国の連携基地という概念は残り、カルカッタの基地を飛び立ったB-29は、中華民国の前進基地で余分な燃料を下ろして爆弾を搭載して日本本土爆撃に向かうといったトワイライト計画の修正計画が検討されることとなった。この時点での日本本土爆撃計画は、1944年10月のB-29の28機ずつの10航空群(合計280機)から始め、のちに780機まで増強されたB-29が1か月に5回出撃すれば、日本本土の目標を十分に破壊しさり、12か月以内に日本を屈服させることができるという楽観的なものであった。

1943年10月13日、アーノルドとスティルウェルがトワイライト作戦改訂案をルーズベルトに提出。それによれば、前進基地を四川省の成都とし、日本本土攻撃の開始を1944年4月1日と前倒しにした。ルーズベルトはこれを承認し、計画はマッターホルン作戦と名付けられた。ルーズベルトはマッターホルン作戦を承認すると、チャーチルに「我々は来年早々、新爆撃機(B-29)をもって、日本に強力な打撃を与える準備中である。日本の軍事力を支えている製鉄工業の原動力となっている満州および九州の炭鉱地帯は、中華民国成都地区からの爆撃機の行動圏内に入ることになる」「この重爆は、カルカッタ付近に建設中の基地から飛ばすことができる。これは大胆であるが、実行可能な計画である。この作戦の遂行によって、アジアにおける連合軍の勝利を促進できるだろう」という手紙を送って協力を要請し、蒋介石に対しては1944年3月末までに成都地区に5個の飛行場を絶対に建設するよう指示した。

ケベック会議ではマッターホルン計画のほかに、日本軍が支配しているマリアナ諸島を攻略してB-29の基地とし日本本土を爆撃するという、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も検討されたが、決定には至らなかった。ケベック会議後もアーノルドら、陸軍航空軍首脳はマリアナからの日本本土爆撃についての検討が進められ、1943年12月のカイロ会談で再度議論された。ルーズベルトはこの提案を大いに評価し、この案は採用された。マッターホルン作戦は崩壊直前の蒋介石の国民党軍を支えることができるが、中国内のB-29前進基地への補給には危なっかしい空路に頼らざるを得ないのと比較すると、マリアナ諸島へは海路で大量の物資を安定的に補給できるのが、この案が推奨された大きな理由のひとつとなった。

カンザスの戦い

「B-29の誕生」というアメリカ軍作成のプロパガンダ映画、B-29の製造、試験飛行、中国での飛行場建設の様子が映されている

ケベック会談のあとの1943年11月、アーノルドはB-29による日本本土爆撃のための専門部隊となる第20爆撃集団を編成し、司令官は「ケネス・B・ウルフ特別プロジェクト」の責任者ウルフが任命された。ウルフが育成してきた最精鋭の搭乗員は第58爆撃団第73爆撃団 として編成され第20爆撃集団に配属された。各爆撃団はB-29の28機を1群とする爆撃機群4群で編成する計画であった。1943年11月4日、アーノルドはUP通信の取材に対して「有力なる武装を持ち、高高度飛行用に建造された新大型爆撃機は、遠からず対日空襲に乗り出すべく準備されるであろう」と答え日本側を威嚇している。

しかし、計画は遅々として進んでおらず、インドと中華民国の飛行場建築はようやく1944年1月から開始されたが、中華民国には建設用の機械はなく、先乗りした第20爆撃集団の搭乗員と数千人の中国人労働者が人力で滑走路上の岩を取り除き、敷き詰める石を割って、数百人が引く巨大な石のローラーで地面ならすといった人力頼みの作業であった。インドでも6,000人のアメリカ軍建設部隊とそれ以上のインド人労働者が投入されたが、悪天候も重なり工事はなかなか捗らず、1944年4月までにどうにか2か所の基地を完成させるのが精いっぱいであった。

飛行場建設よりも遥かに進んでいなかったのがB-29の製造であり、1944年の1月中旬までに97機が完成していたが、そのうち飛行可能なのはわずか16機という惨状であった。1944年2月に自らジョージア州マリエッタのB-29工場で状況を確認したアーノルドは、技術者を追加派遣するなどの対策を講じた。その後、第20爆撃集団のウルフを3月10日にインドに派遣することとしていたアーノルドは、3月8日にベネット・E・マイヤーズ参謀長を連れて第20爆撃集団が出発するカンザス基地を訪れたが、3月10日に発進できるB-29が1機もないとの報告を受けて愕然とした。アーノルドは航空技術勤務部隊司令部に飛び込むと「一体、どうなっているんだ、誰がこれを監督しているんだ」「誰もやらんのなら、俺がやる」と激高して詰り「翌朝までに、不足なものの全部のリストをつくれ! 工場にそれがあるのか、いつそれが渡されるのか」と怒号で指示した。アーノルドはのちにこのときを「実情を知って、私はゾッとした」「どの機も飛べる状態になかった。非常手段をとらなければ中国への進出は不可能だった」と振り返っている。

アーノルドは強権を行使してその非常手段を実行した。まずは参謀長のマイヤーズを現場指揮官に任命して製造指揮の統一化をはかった。マイヤーズは陸軍航空用の各種部品の製造や調達に詳しく、調整にはうってつけの人物であった。マイヤーズは早速自ら航空部品製造各社と直接交渉してB-29の部品の調達に辣腕を振るった。航空部品などのメーカーは、不足している備品や部品類を納入するまでは、他の一切のものを中止するように命令されるという徹底ぶりであった。これら集められた部品は荒れ狂う吹雪の中、露天の飛行場に並べられたB-29に昼夜を問わず取り付けられた。あまりの労働環境の劣悪さに作業員がストライキを起こす寸前であったが、マイヤーズが労働者の愛国心にうったえてなんとか収まるという一幕もあった。このB-29の集中製造作戦は『カンザスの戦い』と呼ばれることとなり、3月下旬に、最初のB-29が完成し、インドにむけて出発すると、その後もB-29は続々と完成し、4月15日にはインドに向かったB-29は150機となった。

完成したB-29はアメリカを発つと、ドイツ軍にはB-29がドイツ攻撃用と思い込ませる一方、日本軍にはインドに送る計画を秘匿するため、わざわざいったんイギリスを経由してインドまで飛行することとした。1944年4月15日に、そのB-29をドイツ空軍偵察機が発見、アメリカ軍の目論見通り、高性能で迎撃が極めて困難な新型爆撃機B-29を見たドイツ空軍は狼狽し、高々度戦闘機の導入や更に革新的なジェット戦闘機Ta183の新規開発を急がせることとなるなど、アメリカ側の陽動作戦にまんまとはまってしまった。

第20空軍創設

中国四川の新津飛行場に待機している第45爆撃団のB-29

インドに配備されることなったB-29はその強力な戦力ゆえに、在華アメリカ陸軍航空隊司令官クレア・リー・シェンノート少将や東南アジア地域総司令官ルイス・マウントバッテン卿などインド・中国方面の連合軍各指揮官らが自分の指揮下に置きたがった。その中には南太平洋で戦っている南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将も含まれていた。

指揮系統が混乱してB-29が十分なはたらきができなくなると懸念した軍首脳は、1944年4月4日にアメリカ統合参謀本部に直属する第20空軍を創設、司令官にアーノルドを据えて、参謀長にヘイウッド・S・ハンセル准将を置いた。第20空軍を創設した理由について、参謀総長のマーシャルは「新しい爆撃機の力は非常に大きいので、統合参謀本部としては、これをひとつの戦域だけでつかうのは、経済的ではないと考え、新しい爆撃機は一人の指揮官のもとで、統合参謀本部の指揮下におくこととした」「新しい爆撃機は、海軍の機動部隊が特定の目的に向けられると同様に、主要な特定任務部隊としてとりあつかわれるものである」とこのときの決定の趣旨を説明している。

一方、日本軍も着々と進む中華民国からの日本本土爆撃の準備を見過ごしていたわけではなく、1943年12月には大本営陸軍部服部卓四郎作戦課長総裁のもとに、中国大陸からの本土爆撃対策の兵棋演習が行われ、一号作戦(大陸打通作戦)が立案された。翌1944年1月には総理大臣兼陸軍大臣東條英機大将からの指示で、大陸打通作戦の目的を中華民国南西部の飛行場の覆滅による日本本土爆撃の阻止として、1944年1月24日に大本営命令が発令された。日本軍は桂林柳州地区にB-29が進出すると、東京を含む大都市がすべて爆撃の圏内に入るものと考え攻略することとしたが、アーノルドは、日本軍の攻撃で中国軍が桂林、柳州を防衛できないと判断して、B-29の基地を成都まで後退させている。日本陸軍は建軍以来最大規模となる10個師団40万人の大兵力を動員し、1944年4月にまずは長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり、作戦自体は日本軍が中華民国軍に多大な損害を与えつつ目的の地域の攻略には成功したが、肝心のB-29出撃阻止という最大の目的は達成できなかった。

同年4月26日、ビルマ戦線(ビルマ航空戦)にて、単機移動中の第444爆撃航空群所属のB-29が中印国境にて日本陸軍(陸軍航空部隊)飛行第64戦隊一式戦闘機「隼」2機と交戦。双方ともに被弾のみで墜落はなかったが、これがB-29の初戦闘となった。日本軍の隼の攻撃を何度も受けて多数の命中弾を受けながら何の支障もなく飛行するB-29に日本軍は衝撃を受け、アメリカ軍は作戦への自信を深めている。

その後、燃料や物資の蓄積ができた第20空軍は、1944年6月5日に第20爆撃集団にタイ首都のバンコクの爆撃を命じたが、これは搭乗員の育成も目的の任務であった。98機のうち48機だけが目標上空に到達したが、残りは機械的故障で引き返したか、進路を見失って目標まで到達できなかったかであった。到達した48機に対しては、日本軍戦闘機と高射砲による激しい攻撃があったが、戦闘で失われたB-29は1機もなかった。しかし、爆撃を終えて帰還中に5機のB-29が墜落し、搭乗員15名が戦死ないし行方不明となっている。

アーノルドはバンコク空襲の翌日となる1944年6月6日、第20爆撃集団に対して「統合参謀本部は、中国に対する日本軍の圧力を軽減するため、そしてまた6月中旬に予定されているマリアナ諸島にたいするアメリカ軍の上陸作戦と呼応するために、日本本土に対する早期の航空攻撃を要求している」という至急電を打った。司令官のウルフは、先日出撃したばかりであり、日本本土空襲に投入できるB-29は50機に満たないと報告したが、アーノルドは75機以上を投入せよと命令し、ウルフはどうにか燃料や資材をかき集めて75機が出撃できる準備をすると、6月13日に83機のB-29がインドから成都の飛行場に進出した。

日本本土爆撃に投入

日本本土に初来襲したB-29を迎撃した二式複座戦闘機「屠龍」

成都から八幡製鐵所を主目的としてB-29による日本初空襲が実施された、八幡を初の目標としたのは統合参謀本部の命令であった。1944年6月15日、B-29は75機が出撃したが、7機が故障で離陸できず、1機が離陸直後に墜落、4機が故障で途中で引き返すこととなり、残りの63機だけが飛行を継続した。この日は早朝にアメリカ軍の大船団がサイパン島に殺到してサイパンの戦いが開始されており、それに呼応して中華民国のB-29が北九州方面に来襲する可能性が高いと日本軍も警戒していた。やがて夜中の11時31分に、済州島に設置していたレーダー基地から「彼我不明機、290度、60キロ及び120キロを東進中」という至急電が西部軍司令部に寄せられた。日本軍のレーダーの性能は低く、これが敵機であるのか判断をなかなかつかなかったが、済州島からは次々と続報が入り、翌16日の0時15分には、長崎県平戸 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/07/15 17:06

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