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PlayStation_(ゲーム機)とは?

PlayStation > PlayStation (ゲーム機)
PlayStation
プレイステーション


PlayStationの本体とコントローラ(DUALSHOCK)

【メーカー】
ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)
【種別】
据置型ゲーム機
世代
第5世代
【発売日】
1994年12月3日
1995年9月1日
1995年9月29日
1995年11月15日
1997年2月
CPU
MIPS R3000A 33.8688MHz
【対応メディア】
CD-ROM XACD-DA
【対応ストレージ】
メモリーカード
【外部接続】
シリアルポート
パラレルポート(SCPH-7500まで)
【売上台数】
1,900万台
3,967万台
3,961万台
1億240万台
【最高売上ソフト】
ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』/406万本
グランツーリスモ』/1,085万本
【互換ハードウェア】
PS one
【次世代ハードウェア】
PlayStation 2

PlayStation(プレイステーション、略称: PS, PS1)は、1994年12月3日に発売された家庭用ゲーム機。発売元はソニー・コンピュータエンタテインメント(略: SCE、現: ソニー・インタラクティブエンタテインメント)。家庭で本格的なテクスチャ付き3Dグラフィックを実現した初めてのゲーム機である。 据え置き型としては初めて累計出荷台数が1億台を突破した家庭用ゲーム機となった。

沿革

1990年代中期に「次世代機」と呼ばれた家庭用ゲーム機の一つ。開発を主導した久夛良木健の独特の技術論や、丸山茂雄らによる従来のゲーム機ビジネスとは異なるレコードビジネス仕込みの戦略で、セガ・エンタープライゼス(現・セガゲームス)のセガサターンや、任天堂NINTENDO64と次世代機戦争と呼ばれた市場競争に勝利し、ファミリーコンピュータのヒット以来任天堂が独占していた市場でトップシェアとなった。

CGワークステーションの仕様を縮小したような設計になっており、3Dゲームで最高の性能が発揮されるように作られた。当時は2Dゲームが数多く発売されていた時代であり、大多数のゲームメーカーが3Dの採用を時期尚早と捉え、2D描画性能を重視する中、3D専用設計のゲーム機を開発すること自体がリスキーな挑戦であったが、実際にプレイステーションが市場に投入されると、美麗かつ高速に動作する3Dグラフィックスは各界に大きな衝撃を与えることになった。特に、ローンチタイトルリッジレーサーはプレイステーションの性能を知らしめる上で、良いベンチマークソフトとして機能した。当時のゲームクリエイターは3Dという新たな表現手法を使って実験的な作品を世に送り出し、ゲームの幅を大きく広げて行った。

命名

仕事で使うコンピュータを「ワークステーション」と呼ぶことに対して、遊びで使うコンピュータという意味で「プレイステーション」に決めたというのが名前の由来とされている。ユーザー間では「プレステ」と略されることが多いが、CMや自社製品内での記載では一貫して「PS(ピーエス)」と略されている。「週刊ファミ通」の記事によると、盛田昭夫がプレステの「ステ」が「捨て」に通じることから避けさせたという。「プレステと呼ぶなー」という新聞広告を出したこともある。

本来、プレイステーションは後述のスーパーファミコン互換のCD-ROMゲーム機で使われる予定だった名称であり、これを流用したものである。頓挫した商品と同一名は縁起が悪いという意見もあったが、既に全世界ベースで商標権を登録しており、新しい商標にするには調べるだけで半年かかるため、そのまま同一のプレイステーションの名称が採用された。

開発の経緯

任天堂との共同開発がスタート
任天堂スーパーファミコンPCM音源を提供する事業の仕掛け人だった久夛良木健が、同事業に引き続き、スーパーファミコンのCD-ROMドライブ拡張機器「スーパーファミコン CD-ROMアダプタ」の共同開発事業の約束を取り付けたのに端を発する。
久夛良木は1987年6月16日から2泊3日にわたるソニーと任天堂の合同合宿に、スーパーファミコン開発が一段落した1989年頃にも提案している。当時の任天堂はCD-ROMに消極的で「ソニーさんでやってください」と返答している。しかし丸山茂雄によれば久夛良木は京都の任天堂本社に通っている間中「CD-ROMでやるべきだ」と粘り強く進言し続けた結果、任天堂側が面倒くさくなってOKを出したという。この時期になるとCD-ROMドライブが十分安価に手に入る時代になっていた。
1989年4月にテレビゲームではなく液晶画面を持ったカセット式のハンディーゲームマシン「ゲームボーイ」が発売され大きな流行を出したがファミコンの人気がピークを過ぎかけている事が前年の実績から明らかになっていた。そして任天堂はファミコンの後継機(スーパーファミコン)の市場投入を決意した事で、そこからソニーとの関係が始まった。
当時の久夛良木は業務用のデジタルビデオエフェクタ「システムG」をゲームに転用してビジネス化出来ないかと考えていた。ただし、当時ソニー内ではソニーのイメージを損なうとしてゲーム事業への進出に反対する社員が多く、久夛良木自身も「異端児」と呼ばれており逆風が強かった。この事業にゴーサインを出したのが当時社長の大賀典雄である。
1989年10月から共同開発が始まり、翌1990年1月には大賀典雄(ソニー)と山内溥(任天堂)の間で両社の締結を確認する合意文書が作られた。開発コードネームは「プレイステーション」であった。
計画では、CD-ROMアダプタは玩具流通で任天堂ブランドで発売し、スーパーファミコンとCD-ROMの一体型マシンは家電流通でソニーブランドで発売することとなっていた。価格は49800円を予定していた。
任天堂の共同開発の破棄
しかし、1991年6月のシカゴでのコンシュマー・エレクトロニクス・ショーにおいて、ソニーがプレイステーションの試作機を発表するものの、任天堂はソニーとの共同開発計画ではなく、フィリップスとの提携と、CD-iでのゲーム開発を発表した。これは、任天堂がソニーと進めていたプレイステーションプロジェクトの破棄を意味するものであり、ソニーにとっては屈辱的なもので前代未聞の離婚通知であった。計画中止について数日前に任天堂からソニーに伝えられたが久夛良木までは伝わらず、新聞報道で初めて知ったという。
スーパーファミコンCD-ROMソフトはスーパーディスクと名付けられ、任天堂ではなくソニーがライセンスを有することになっていた。当時のコンシューマー機のソフトはROMカセットが主流であり、CD-ROMは付属的な立場のメディアとして認識されていたため、任天堂はCD-ROMの権利を重視していなかった。しかし、任天堂米国法人社長だった荒川實がアメリカのコンピューター業界でのCD-ROMの躍進ぶりを目の当たりにしており、この契約のままだと任天堂がソニーの従属的立場になると危機感を抱き、山内溥にソニーとの提携を止めるように口説いたとされている。
この様な経緯がある為、フィリップスによるスーパーファミコンCD-ROMは任天堂がライセンスを持ち、同社のソフト管理システムを維持する契約内容であった。
また、当初ソニー側はハード開発のみを行うはずだった。しかし、ソニーが自前のソフトで試供品を実演していた。それを知った山内溥社長(当時)は激怒していたという。
ソニーは抗議したものの、任天堂の言い分は「契約は生きており、ソニーが「スーパーファミコン CD-ROMアダプタ」を発売するのは構わないが、任天堂は別の規格を採用する」というものであり、その後も粘り強く交渉が続けられたものの任天堂の決定は覆らなかった。
ソニーだけの規格では市場が広がらないと判断されたことから、スーパーファミコン互換機は開発を中断することになり、既にゲームソフトの製作を進めていたソニー・ミュージックエンタテインメントは、マーク・フリントによる『フォルテッツァ』(5億円を投じていた)、『沈黙の艦隊』『フック』などを没企画にし、15億円の損失を出したとされる。
これらの騒動により、久夛良木ら開発陣は社内での居場所を無くすが、大賀典雄の判断により、丸山茂雄率いるソニー・ミュージックエンタテインメント(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)のゲーム部門に一時的に避難させられることになった。
ソニー単独でのプロジェクト再始動
1992年6月24日のソニーの経営会議で、ゲーム事業への進出の是非が議論になり、大半の役員が反対意見を投じる中、経緯説明のために会議に参加した久夛良木が、「我々は本当にこのまま引き下がっていいんですか。ソニーは一生、笑いものですよ」と食ってかかり、試作品はほぼ出来上がっている事を公表。最終的に大賀がゴーサインを出し、ゲーム事業への進出を決断した。
なお、大賀はプレイステーション製作にあたり、社内のコンセンサス形成のみならず、ゲーム機製作自体にも深く関わっており、業界標準とも言える任天堂型のコントローラからの脱却を図るグリップ型のコントローラを作るように指示し、何度もダメ出しをしている(本体・コントローラのデザインは後藤禎祐が担当)。
また盛田昭夫も、ゲーム事業のプレゼンを聞いた後久多良木の手を握って「これはおもしろい。こういうビジネスを望んでいたんだ」とチームを激励したという。ただ前述の通り、盛田は「プレイステーション」という名前を再検討するよう指示した(その後盛田は病に倒れた。内海州史は、あのまま盛田が健在であれば「プレイステーション」の名称は変わっていたかもしれないと書いている)。
1993年初頭から正式に「PS-X」プロジェクトが立ち上がり、1993年11月16日にソニーの技術者と株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントのコンピュータゲーム製作部門のスタッフら65人で構成される株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントが設立。1994年5月10日に「PS-X」と呼ばれていたマシンの正式名称を「プレイステーション」と発表した。同時にコンピュータグラフィックで描かれたデモ映像を会場で流し、本体のモックアップを展示した。1994年11月にプレイステーションの価格が39800円、発売日は1994年12月3日と発表した。1994年12月3日の「PlayStation」の発売に至った。

サードパーティーの取り込み

3Dゲームの可能性を体現
発売時には「全てのゲームは、ここに集まる」のキャッチフレーズを使っていたが、開発時は任天堂の黄金時代であり、当時印象の悪かったCD-ROM機というハード、3Dという未知のソフト開発に取り組まなければならないということ、さらにソニーがMSXパソコンで一度はゲームビジネスから撤退した過去があったこともあり、ソフト会社は参入に難色を示していた。
しかし、1993年末、セガがアーケードゲーム『バーチャファイター』を発表し、3Dゲームの可能性を体現した直後から難色を示していたソフト会社が興味を持つようになったという。
格安の開発機材と独自ライブラリ
幅広くサードパーティーを招き入れようと、150万円という価格で開発機材を提供したことで、新興ゲームメーカーが多数参入した。また、サードパーティーのプログラマの負担を軽減するため、SCEでプログラムのライブラリを構築して開発者の支援を試みた。当初このプログラムのライブラリは自分たちでプログラムを組みたがっていた技術者からは不評だったが、後に非常に便利なものであると認識されるようになり、続々とサードパーティーが参入するようになった。1994年夏には契約したサードパーティは200社を越えた。
人気ソフトのヒット連発
立ち上げ期においては、セガとはアーケードゲーム市場でライバル関係にあり、任天堂とは関係が悪化してゲーム機の自社開発を模索していたナムコがSCEと提携してプレイステーション陣営につき、ローンチタイトルとして『リッジレーサー』を発売し普及を牽引するキラーソフトとなった。
1995年5月27日、ライバルのセガサターンの値下げに対抗する形で10000円もの大幅値下げを発表。同時に新バージョンのSCPH-3000の発売日を1995年7月21日と発表し1995年5月4週時点で国内販売台数が100万台を突破した。
その後も初期にはナムコの『鉄拳』やタカラの『闘神伝』といった格闘ゲームソフトでハードの売り上げを伸ばした。更に1996年にナムコからガンコンを使ったタイムクライシスが発表された。1996年6月7日にはSNK(新社、旧社名:SNKプレイモア)から『ザ・キング・オブ・ファイターズ95』が発売。そして、これまで任天堂マシンで発売されていた日本を代表するRPGシリーズであるスクウェアの『ファイナルファンタジー』シリーズの参入が1996年2月に発表されて1996年8月21日に発売された『TOBAL NO1』に『ファイナルファンタジーVII』の体験版が付属されていた。
プレイステーションの優勢が決定づけられ、同年3月に発売された『鉄拳2』やカプコンの『バイオハザード』はリピートによるロングセラーに。1996年8月9日にカプコンから『ストリートファイターZERO2』が発売。同じ年にセガサターン版、スーパーファミコン版も発売された。1996年年末商戦でプレイステーションは独り勝ちした。翌1997年1月には『ファイナルファンタジーVII』が発売されて大ヒットし、エニックスの『ドラゴンクエスト』シリーズがプレイステーションに参入することが発表され、プレイステーションの次世代機戦争の勝利が確実なものになった。
クリエイターの発掘
また、レコード会社の発想で、ゲームクリエーターをアーティスト的存在として扱い、ゲーム誌では積極的に開発者のインタビューを乗せるようになった。アマチュアからクリエイターを発掘しようと、一般向けの開発環境「ネットやろうぜ!」を販売し、これとは別に「ゲームやろうぜ!」というゲームクリエイター志望者を一般から募集していた。ユーザーの意見をメーカーやショップに直接伝える事で、ゲームを開発する上での主要な材料として扱うところも少なくなかった。
プレイステーション本体と携帯電話を専用通信ケーブルで接続して、メモリダイヤルや着信メロディの編集を行ったり譜面上でオリジナルの着メロを作成する機能を持った携帯エディターソフト、「ケータイ・エディ」 が2000年7月27日にインクリメントPから発売されている。また、オーケストラの指揮者となりバトン・コントローラの振り方で演奏の評価が変わる体感音楽ゲーム『ザ・マエストロムジーク』が2000年7月27日にグローバル・A・エンターテイメントから発売された。
レコード会社が出資して設立されたSCEでは、プレイステーションでアーティストとレコード会社が一致協力して音楽を作る手法をゲームソフト制作も取り入れ、ライブラリ提供やゲームやろうぜなどでソフト会社やクリエーターを育てようとしたと言われる。
人材発掘
ソニー・ミュージック・エンターテイメントは1993年から"デジタル・エンターテイメント・プログラム"を開催していた。これはデジタルアーティストのオーディションを意味するもので応募資格に制限がなく、入選した人には育成を支援するプログラムが与えられることになっていた。入選者はワークステーションやプレイステーションの開発機材が提供され、そこで様々な学習が可能であり、コンテストは才能のある人材を一般から発掘して、自分たちで育成していこうという試みを持っていた。

流通改革

流通面においては、参入時に任天堂会社の蜜月関係による初心会流通を研究し、音楽CDの流通販売で多大なノウハウを有していたEPIC・ソニーレコード仕込みの流通改革を実施した。

これの流通改革により、既存のゲーム流通、特に任天堂の初心会流通は壊滅的なダメージを受け、多くの問屋が廃業に追い込まれ、初心会自体も1997年に解散している。

安定的なソフト供給
従来のゲーム機のソフト媒体であるマスクROMはリピート生産に時間がかかるため、問屋は初回販売で品切れによって販売チャンスを逃すまいと見込み発注を行っていた。この見込み発注が、見込み違いにより売れなかったソフトが過剰在庫となり、投げ売りされたり、いわゆる抱き合わせ商法で人気ソフトとともに販売される原因となっていた。
このことに着目し、SCEは自らが直接小売店と取引をする問屋機能を担い、従来の投機的な見込み発注ではなく、適切な初回生産と小まめで迅速なリピート生産による安定的なソフトの供給路線を進めた。CD-ROMの生産は設立母体であるソニー・ミュージックエンタテインメントのCD工場(現・ソニーDADCジャパン)で行い、追加生産が必要な場合でも最長で6日で小売店にソフトが届く体制を築いた。
廉価版の発売
利益が製作者に還元されない中古市場対策として、発売から一定期間が経過したソフトについて廉価版をリリースした。
これらの流通改革は、リピート生産が容易で生産が低コストであり、CD-ROMのメリットを活かしたものであった。

以上のように、流通改革はおおむね軌道には乗って成功したものの、その改革すべてが上手く機能したわけではない。下記のような改革の失敗も存在した。

メーカー独自の流通開始
SCEの主張する初回生産枚数とサードパーティーの主張との隔たりも発生し、そのことが原因でプレイステーションで発売予定のソフトが他社ハードへ移籍するエネミー・ゼロ事件が起きた。このように自主的な生産本数の決定を望むサードパーティーが現れて、1997年夏にSCEの完全買い上げは終了し、コナミなど有力メーカーは独自の流通を開始した。
定価販売の断念
SCEは、同じソフトでもゲームショップによって価格が2割も3割も異なるという従来のゲーム流通も問題視し、再販売価格維持制度で定価販売が認められている音楽ソフトのように、どこの店でも同じ価格で購入できるように事実上の定価販売を目指した。
しかし、 公正取引委員会から1998年1月20日に「プレイステーション用ソフトウェアの販売について、小売業者に対し希望小売価格で販売するように、圧力を加えた」として独占禁止法に基づく排除勧告を受けた。SCEは一貫して容疑を否認していたが、2001年8月1日、SCEが圧力を加えていた事実を認定する審決が下され、2001年11月20日に排除勧告を受諾した。
公取委の摘発により定価販売は不可能となり、目指していたリピートビジネスも発売タイトルが膨大になったことできめ細かな対応が不可能となって徐々に初動型のビジネスとなって崩れ去り、また発注の失敗による不良在庫で値引きやワゴンセールは相変わらず発生するなど、流通改革については必ずしもうまくいかなかった。
なお、インターネットが普及してからの後継機では、Playstation Storeによるダウンロード販売に力を入れるようになり、限定的ながら価格維持を実現できるようになった。

販売戦略

ゲーム専用機をアピール
同時期に発売された他社のゲーム機と販売競争が繰り広げられた。特にセガサターンとの販売台数争い・値下げ競争はマスメディアによって「次世代ゲーム機戦争」などと呼ばれ、このことはプレイステーションの宣伝にも繋がった。
この次世代ゲーム機戦争ではCD-ROMがメディアとして採用されており、松下電器産業三洋電機金星電子3DOで、日立がHiサターン、ビクターがVサターンというセガサターン互換マシンで参入して、マルチメディアマシンを標榜していたが、プレイステーションはあくまでゲーム専用のゲームマシンであることをアピールした。
ハード価格の値下げ
プレイステーションは発売時の希望小売価格は39,800円だったが、39,800円から29,800円、24,800円、19,800円、18,000円と段階的に値下げをしていき、最終的に15,000円まで値が下がった。
この値下げは、開発者の久夛良木健の戦略であり、後に技術の進歩により安価な値段で代替が効くパーツが生まれることを前提に、代替される可能性のある部分を最初からシステマティックにまとめて設計していたことにより可能になった。実際にプレイステーションはバージョンを重ねることに部品点数が削減されている。ただし、親会社であるソニーは家電業界的な発想から値下げに関しては大反対であったという
ソフト価格の低価格化
スーパーファミコン時代に1万円近くまで高騰していたゲームソフト価格に関しても、CD-ROM採用によるソフト生産のコストダウン、生産スピードの向上と前述の流通改革による短期大量出荷、ロイヤリティの削減などを行い、5800円からと低価格化させ、ソフト購入の敷居を大幅に下げるなどした。ただし小売店と特約店契約を結び「定価販売の強制」を前提とした価格設定だったために大量の売れ残りが生まれる問題が起こり、一部行っていた返品制度も縮小に追い込まれた。結果的に流通企業、メーカー、小売店が赤字を出すほど経営を圧迫し、シェア獲得には成功したものの流通改革は失敗に終わった。デジキューブ破綻後はソフト生産コストも定価も上昇に転じている。
これまでにもPCエンジンメガCDなどCD-ROMを採用したゲーム機があったが、それらのマシン以上にCD-ROMの低コストの利点を活用して、体験版の無料配布やレンタルショップでの無料レンタル、本体への添付、雑誌への付録などで新作ソフトに触れる機会を増やし、価格面では「PlayStation the Best」などの廉価版の再発売ソフト、新作ソフトで1,980円のパンドラMAXシリーズや1,500円のSIMPLE1500、950円のスーパープライスシリーズが誕生した。中でもSIMPLE1500シリーズは104タイトルを数える人気シリーズとなり、その中からは150万本のロングセラーとなった『THE 麻雀』も生まれた。
ゲーム内容のリアル化
1999年3月25日にチュンソフトからサウンドノベルエボリューション1『弟切草 蘇生篇』が発売。1998年12月3日に『かまいたちの夜 特別編』が発売。どちらもスーパーファミコン版からのリメイク移植。伊集院光は「マシンのスペックが上がって、音質が良くなって、画面が良くなって、CGがリアルになったのに、本質的なところはまったく変わっていない所がすごいと思うんですよ」と述べている
ゲーム内容に関しても、3D化により、従来のゲームよりリアルな表現が可能になり、子供のおもちゃというイメージを持ち合わせたうえで、ゲームから離れていた青年・中年層の支持を得ることにも成功した。
テレビCM
テレビCMでは、冒頭や最後にプレイステーションのCMであることを示すサウンドロゴを採用している他、ユニークなことで定評があった「いくぜ100万台」「いくぜ(1996年)年内200タイトル」「よい子とよいおとなの」などのキャッチフレーズを活用、CM内ではマスコットとして「プレステマン」、「クラッシュ・バンディクー」、「パラッパラッパー」、「ピポサル」といったキャラクターも使用していた。またいわゆるタレントを積極的には起用せず、小学生やサラリーマンなど市井の人々をプロモーションに積極的に取り入れた。初期のCMでは「1、2、3」を連呼するだけの一見意図が読み取れない内容のものもあった。また1997年クリスマス商戦期には、多数のゲームソフトの体験版を収録した2種類の体験版を一部の店舗にて100万枚無料配布するなど派手な広告展開を行った。
有償会員サービス
ゲームの体験版や最新デモ映像などを盛り込んだCD-ROMを年に数回発行する有償会員サービス「PlayStation CLUB」を1995年より運営していた。発行物以外にはゲームイベントの優先入場権、独自開催イベントへの参加権などの特典もあった。なお、2001年4月からはPlayStation 2向けの会員サービスへと移行している。
ソフトの販売本数
プレイステーションの絶頂期は1996年から1999年であり、特に『FFVII』を発売した1997年は、本体の日本国内出荷台数が1月時点で500万台を突破するも年末までには更に500万台を上乗せして1000万台突破を達成、ソフトでもスクウェアのゲームをはじめミリオンセラーが5本と続発し、SCEのソフトではロングヒットにより最終的にダブルミリオンを達成するソフトも出てきた(『グランツーリスモ』、『みんなのGOLF』)。
PlayStationのゲームタイトル一覧も参照。

エミュレータに対してSCEの対応

世界中で大ヒットとなった本機種ではあるが、それに比例してシェアウェア、フリーウェア問わず多数のエミュレータが登場した。その中のシェアウェアソフトの一部に対し、SCEは積極的に訴訟を繰り返し販売停止を求める戦略を取っていた。

米Connectix社により作られたMacintosh向け(後にWindows版も発売)エミュレータソフト"Virtual Game Station"に関して、ソニー・コンピュータエンタテインメントは提訴しSCEI側の敗訴に終わったが、最終的には提携という形ながら実質的に買い取っている。逆にbleem社が販売していたbleem!については米国でのエミュレータをめぐる訴訟で連邦地裁がSCEの販売差し止め請求を却下、合法ソフトとして販売され続けていたが国内外にてSCEよりショップに対して繰り返しの販売停止要請が行われた結果、bleem社の事業閉鎖とエミュレータの販売停止に至った。

CD-ROM

PlayStation用CD-ROMの裏面は、黒色になっている。
大容量、低価格、量産時間の短縮
ソフトウェア媒体として採用したCD-ROMは従来のROMカートリッジと比較してデータへのアクセス速度が劣るが(ローディング時間が生ずる)、大容量、低価格、量産時間の短縮といった利点があり、コンピュータゲームの表現方法から流通にまで幅広く影響を与えた。
当時のCD-ROM機は大容量メディアという反面、それゆえにローディングに非常に時間がかかるのが難点とされていたが、PlayStationはローディング時に読み込むデータは3D映像自体ではなくデータコードであり、それを本体内で処理・展開させて3D映像を作り出すという構造にすることで、当時としては高速なローディングを実現していた。
黒いCD-ROM
なお、一般的なCD及びCD-ROMメディアとは異なり記録面の樹脂が黒いことが特徴である(光に透かすとわかるが厳密には濃い青色)。この黒い樹脂の光学的な特性自体は通常のCD及びCD-ROMメディアと相違ないものであり、例えばBGMをCD音源として収録しているタイトルのディスクは、楽曲収録トラックを通常のCDプレイヤーでも再生することが可能である。
開発時は通常のCD-ROMで、CDマットを付ける事が検討されていたが、久夛良木健のコストカット路線により、CDマットをやめ、記録面の色を変えるという方向に落ち付いた。記録面を黒いものとする導入当初の目的は、正規流通商品と海賊版や偽造品を容易に見分けられるようにする事とされていた。
ただし、この黒い記録面については、本機以降プレイステーション2をはじめとする後継機種のソフトをはじめ他社製品も含むCD・DVD・など各種ディスクメディアの規格としての採用実績は一切なく、事実上プレイステーション規格CD-ROM特有の仕様となっている。
海賊版対策
非正規ソフトの対応については、CD-ROMのコピープロテクトを解除するための「MODチップ」と呼ばれるICチップが世界規模で出回り、それに対してソニー・コンピュータエンタテインメントは「レッドハンドプロテクト」で対抗した。

CDプレーヤー

曲のスタート、ポーズ、早送りといった基本的な機能の他、3つのトリックプレーが可能なので当時、一般のオーディオ機器にあるものが用意されている。

シャッフル機能 曲の順番がランダムで決まる為、毎回違った順番で曲が聞ける。
プログラム機能 | 再生する順番を決めて曲が聞ける。
リピート機能 | 同じ曲を繰り返し聞ける。

メモリーカード

ROMメディアがディスクになったため、ゲームのセーブデータは外部記憶のメモリーカードを使用する。コントローラー接続部の上部に接続スロットがあり、そこに差し込むことで使用する。ゲーム用ディスクを使用せずに起動させた場合、メモリーカードの管理画面に移行し、移動・コピーや削除が行える。

セーブデータの保存形式がバッテリーバックアップではなくなったことで、データ保存先の本体内部、もしくはカセットのバッテリーがなくなると同時にセーブデータが消失してしまう事がなくなった。バッテリーがなくなった時にセーブデータが消える事を防ぐ為に、別のメディアに移行させて電池交換を行う必要もなくなった。

セーブ、ロードの時には、Now Loading の画面が開いてソフトとメモリーカードの間で処理を行う。ブロック内に保存されたセーブデータタイトル判別および未使用領域のための管理用の1ブロックと、ゲームタイトルごとに使用するブロック数が変動するセーブデータ用の15ブロック(計16ブロック)が用意されており、使用するブロック数によるが1枚につき最低1ゲーム分、最大15ゲーム分のゲームデータを保存することが可能。

ブロックは複数のデータを一括して確保する物や、データ作成によって逐一ブロックを確保する物が存在する。ゲームによっては保存で使用するブロック数が多くなるため、1枚では足りず、2枚3枚と買い足すプレイヤーが多かった。後にHORIなどから廉価な互換品が発売されると、売れ筋はそちらに移った。

プレイステーション3の周辺機器などのメモリーカードアダプターを利用する事で、PS3に搭載された仮想メモリーカードにバックアップを取る事でPSNからダウンロード購入したアーカイブス版のセーブデータと従来のディスク版のセーブデータは両方に適用が可能になっている。ただしプレイステーション、プレイステーション2との互換性を持ったプレイステーション3のハードのみに限る。

業務用汎用筐体の「サイバーリードⅡ」ではスロットリンクシステムが搭載されておりスーパーワールドスタジアム2000などの限られた業務用ビデオゲームにはメモリーカードの使用が可能な物もあった。

コントローラー

一番の利点はスーパーファミコンやPCエンジン、メガドライブ等、他ハードのコントローラーよりも強度を増した内ゴムの劣化に対する耐久性にある。

サウンドロゴ

起動時のサウンドロゴは藤澤孝史によるものである。藤澤は2週間ほどで起動音を作り上げた。また、CMにおけるサウンドロゴをムーンライダーズのメンバーである岡田徹が担当しており、同グループが手がけているCMソングなどを収めた『MOONRIDERS CM WORKS 1977-2006』にはCM始めとCM終わりの2つのサウンドロゴが収録されている。

ハード・ソフト台数

2004年5月18日に全世界累計での生産出荷台数の累計が1億台を突破した。

日本でのソフトウェアの累計生産出荷本数は約2億8600万本であり、全世界では9億6200万本(2006年12月31日現在)。新作タイトルはPlayStation 2発売以降も登場し、日本では2004年まで発売され続けた。公式サイトのソフトウェア製品情報に登録された日本国内のタイトルは2005年11月現在4324タイトルである(廉価版、初回限定版などによる重複も含む)。

性能、開発環境など

PAL規格のDebugging Station

R3000を独自にカスタマイズしたものをメインCPUに採用。また3DCGの描画を支えるベクトル演算専用LSI(GPU)を別途搭載する。非常に高価なグラフィックスワークステーションでのみ実現できたポリゴンによる3次元コンピュータグラフィックスを比較的簡単に ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/06/23 18:06

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