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イチローとは?

イチロー (鈴木 一朗)
シアトル・マリナーズ選手時代
(第2次在籍時、2018年)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
愛知県西春日井郡豊山町
【生年月日】
(1973-10-22) 1973年10月22日(47歳)
【身長
体重】
180 cm
80 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投左打
【ポジション】
右翼手
【プロ入り】
1991年 ドラフト4位
【初出場】
NPB / 1992年7月11日
MLB / 2001年4月2日
【最終出場】
NPB / 2000年10月13日
MLB / 2019年3月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

【国際大会】

【代表チーム】
日本
WBC
2006年2009年
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


獲得メダル
男子 野球
日本
ワールド・ベースボール・クラシック
 | 2006 | 野球
 | 2009 | 野球

イチロー(1973年10月22日 - )は、愛知県西春日井郡豊山町出身の元プロ野球選手(外野手)。右投左打。本名は鈴木 一朗(すずき いちろう)。 現在はシアトル・マリナーズの会長付特別補佐兼インストラクターを務める。血液型はB型。

日米で通算28シーズンをプレーし、MLBシーズン最多安打記録保持者(262安打)、プロ野球における通算安打世界記録保持者(NPB / MLB通算4367安打でギネス世界記録に認定)、最多試合出場記録保持者(NPB / MLB通算3604試合出場)である。

NPBで最多タイ記録となる首位打者を7回獲得し、パ・リーグ最多記録となる最多安打を5回獲得している。MLBでは10シーズン連続で200本安打を達成。アジア人史上初の首位打者盗塁王のタイトルを獲得。アジア人史上初のシーズンMVPシルバースラッガー賞ゴールドグラブ賞(10シーズン連続)も受賞している。またアジア人史上3人目(日本人史上3人目、アジア人打者史上初)の新人王も受賞した。

これらの実績から、2025年米国野球殿堂入りが確実視されている。

概要

日本プロ野球(以下NPB)では首位打者7回、打点王1回、盗塁王1回、最高出塁率5回、最多安打5回などを獲得し、2000年オフに日本人初の野手としてメジャーリーグベースボール(以下MLB)に移籍。MLBでは、首位打者2回、盗塁王1回を獲得した。2004年にはMLBのシーズン最多安打記録を84年ぶりに更新し、コミッショナー特別表彰を受けた。2016年にはMLB通算で3000本安打、500盗塁、さらにNPB/MLB通算でのプロ野球における通算最多安打数(ギネス世界記録)を樹立するなど活躍した。

他表記は「鈴木一朗」「イチロー・スズキ」「Ichiro」「Ichiro Suzuki」など。愛称はイチ。代理人はトニー・アタナシオが当初より長く務めていたが、2014年11月からはジョン・ボッグス

経歴

生い立ち

愛知県出身。1973年10月22日に誕生。生後間もなく名古屋市守山区から西春日井郡豊山町へ転居。二人兄弟の次男だったが、祖父「銀一」から「一」の文字を取り「一朗」と命名された。イチローと兄に限らず、祖父「銀一」の全ての孫の名には漢字「一」が付けられている。

小学校時代は地元の少年野球チーム・豊山町スポーツ少年団に所属。エースで4番として活躍し、6年生の時には全国大会に出場した。小学3年生の頃から、学校から帰宅後に近くの公園で父親と野球の練習をした。しばらくすると、飛距離が伸び場外本塁打を連発するようになったため、町内にある空港バッティングセンターに週6日から週7日通っていた。3年生の時には速度100km/hの球を打っていたという。バッティングセンターに通いつめるあまり、一般用の球速では満足できなくなり、イチロー用のスプリングを発注して、来た時に交換していた。父親からは、料金は気にせずボール球には手出ししないよう指示され選球眼を磨いた。

豊山町立豊山中学校では小学生時代のチームメイトと共に野球部に所属。エースで中軸(主に3番)を打ち、中学3年の時に全日本少年軟式野球大会に出場し3位入賞を果たす。学校での成績も優秀で、学年では常にトップ10に入っていたという。 甲子園に出場して、プロに入るために野球名門校である愛知県名古屋市の愛知工業大学名電高等学校(愛工大名電高校)に進学する。

高校時代

愛工大名電時代から地元では有名な選手で、愛知を代表する名門野球部において1年時からいきなりレギュラーを獲得(ポジションは三塁手で打順は主に1 - 3番)。2年時は夏に愛知大会決勝で稲葉篤紀のいる中京高校(現・中京大中京高校)を下し、夏の甲子園に3番・左翼手として出場。初戦でその大会の優勝校となる南竜次擁する天理高校と対戦し、敗退。自身はヒットを1本打っている。3年時は春の甲子園に投手として出場するが、上田佳範擁する松商学園に初戦で敗れ、自身も5打数無安打に終わった。夏は愛知大会決勝で東邦高校に敗れた。一学年上に伊藤栄祐がいた。松井秀喜(当時星稜高等学校、1学年下)とはこの頃から練習試合を通じて面識があった。

高校3年間の通算成績は536打数269安打打率.501、本塁打19本、二塁打74本、三塁打28本、盗塁131。特に3年時の地方大会での打率は7割以上を記録している。あまりの好成績に、当時の監督からは「宇宙人」とも呼ばれていた。高校時代は投手だったが、交通事故(自転車での通学中に車と接触している)による怪我が原因で投球フォームが崩れ、野手転向を余儀なくされる。投手としても有力な選手として当時から名前が挙がっていた。

ドラフト会議

父・鈴木宣之は「文武両道を目指し、大学に進学してからプロ入りすべき」と考えていたが、イチローは「大学で4年間野球をするよりも、高卒でプロ入りしたほうがレベルの高い練習が出来る」と考えて高校からのプロ入りを目指した。その上で1991年のドラフト会議(1991年11月22日)を控え、地元球団である中日ドラゴンズに入団することを希望していた。その理由は中日を幼少期から応援していたことに加え、イチローが好きな打者だった藤王康晴田尾安志が所属していたためで、父・宣之も「子供のころからドラゴンズのファンだったし、せめて3位ぐらいまでに(中日が)指名してくれればいい」と考えていた。しかし、当時イチローを担当していた中日の池田英俊スカウトは、当時投手だったイチローについて「体が出来上がっていないし、プロ野球の投手としてはちょっと物足りない」と評価していた。一方、池田はイチローの打撃については高く評価しており、複数回にわたり「1位候補の外野手」と報告書を書いて中日球団に提出し、チーム事情から「左打ちの外野手は不要」と判断されても「3年たてば大型遊撃手になれる」と訴えたが、球団の評価は高くなく、最終的には指名に至らなかった。

一方で1991年の夏の終わり、オリックス・ブルーウェーブの東海地区スカウトだった三輪田勝利が、愛工大名電のイチローについて「面白い選手がいるから見て欲しい」と球団編成部長・中田昌宏に報告し、これを受けた中田はイチローの練習を視察。中田はイチローのフリーバッティングを見て、「3位で行かないと獲れない」と主張した。しかし、同年のドラフト会議では1位で田口壮(関西学院大学)を、2位で萩原淳(東海大付属甲府高校)の指名を予定しており、「3位以下も大学・社会人の即戦力投手を指名すべき」という声が多かったため、イチローの評価は5位ないし6位程度だった。結局、3位指名選手はオリックスが囲っていた本東洋(三菱重工長崎)で決まっていたため、当時のスカウトだった当銀秀崇は「イチローは4位まで残っていないだろう。中日が取りに来るかもしれない」と考えていたが、三輪田はドラフト会議前日のスカウト会議で「イチローは4位までに指名しなければ絶対に取れない」と強硬に主張。結局、スカウトたちは中日など他球団の動向を探るため、会議当日午前までに他球団のスカウト・関係者から情報収集した結果、「イチローは4位までに指名しなければ中日に取られる」と判断し、当日にイチローの4位指名を決定した。なおドラフト会議前日には、オリックスと阪神タイガースがそれぞれ、(指名順位までは明かさなかったが)宣之に対しイチローを指名する旨を連絡していたほか、日本ハムファイターズのスカウトも会議前にイチロー側に対し「逆指名してくれませんか」と申し入れていたが、宣之は「高校生としては生意気な行為になるから」と申し出を断った。

結局、オリックスは12球団で最初に4位指名をできることになり、イチローを4位で指名した。中日を含めた他11球団はイチローを指名しなかったため、オリックスの単独指名となった。このような経緯もあり、三輪田の親族によれば、イチローは三輪田の死後、墓参りを毎年欠かしたことがないという。

イチローはドラフト会議当日、意中の中日ではなくオリックスから指名されたことを倉野光生コーチから聞かされたが、後に「オリックスということで戸惑いはあったが、自分を必要としている球団があったということだけで、とても嬉しかった。オリックスに入ることにためらいはなかった」と回顧している。吹上流一郎 (1995) は「イチローは中日に指名されなかったことを心から残念がったが、イチローを指名しなかった中日側も以後、スカウトの間でお家騒動に発展した。(1995年時点で)前中日監督・星野仙一は『ウチ(中日)は投手としての感触だけでしか(イチローを)見ていなかったんだ。あれは大失敗だったよね。イチローの教訓はウチのこれからのスカウティングに生きてくるはずだよ』と言っている」と述べている。

ドラフト会議翌日、三輪田はイチローの実家にあいさつに訪れた。父・宣之は、入団については中村監督に一任したが、契約についてのみ「前年、イチローの先輩がドラフト5位(年俸400万円)で近鉄バファローズに入団している。イチローはドラフト4位なので、(年俸面での待遇は)5位との差を少しでもつけてほしい」と要望した。これを受けてオリックス球団は、1年目のイチロー(登録名:鈴木一朗)の年俸を430万円に設定し、契約金は4,000万円となった。ただし契約金の約半分が税金として徴収されたため、宣之は残る2,000万円分を「息子の退職金の先払い」として貯金に回している。

オリックス時代

1992年7月11日の対福岡ダイエーホークス17回戦(平和台球場)で、左翼手・村上信一に代わる守備固めとして一軍初出場を果たした。翌日の対ダイエー戦で初スタメン出場。木村恵二が投げた直球を右翼に打ちプロ初安打を記録した。この年は打率.366でウエスタン・リーグの首位打者を獲得したが土井正三小川亨などの一軍首脳陣に自身の打法(振り子打法)を批判される。「足の速さを活かしてゴロを打つように」と打撃方法を変更するよう要求されるが拒否、一軍打撃コーチ・山内一弘と意見が合わず、シーズン終盤にスタメンになることは増えたが一軍に定着することはなかった(土井との関係については土井正三#監督としての特徴を参照)。同年のジュニアオールスターにて同点である8回に有働克也から代打決勝本塁打を放ってMVPと賞金100万円を獲得し賞金全額を神戸市の養護施設に寄付した。二軍選手ではイチローが初。

1993年4月10日の開幕戦は9番・中堅手としてスタメンに起用され、翌日の試合では1番打者を務める。その後は控えにまわり、6月12日の対近鉄バファローズ戦(長岡市悠久山野球場)で再び1番・中堅手としてスタメン出場を果たす。同試合では野茂英雄からプロ初本塁打を放った。以降も6月23日まではスタメン起用されるが、打率1割台という不振のため二軍行きを命じられる。

二軍生活の中でイチローは、同年の秋に二軍打撃コーチの河村健一郎と二人三脚で、日本時代のイチローの代名詞ともなる「振り子打法」を作り上げた。二軍では、前年から続いて2シーズンにまたがる46試合連続安打を記録(1シーズンでは30試合)。この年は打率.371を残したが規定打席に少し足りず、もし規定打席に達していれば首位打者になる可能性があった(1993年のウエスタン・リーグ首位打者の柳田聖人の打率は.346)。同年のオフにはハワイ・ウィンターリーグに派遣され、「ヒロ・スターズ」に所属して優勝し、ウィンター・リーグ初のMVPに選ばれた。カウアイのヴィディンハ・フィールドでは推定飛距離500フィート(152メートル)の本塁打を打ち、地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれていた。

1994年の公式戦開幕直前の4月7日、登録名を本名「鈴木一朗」から「イチロー」に変更(オープン戦は「鈴木一朗」登録)。日本人選手としては初めて、名字を除いた名前での選手名登録となった。この年から監督に招聘された仰木彬 はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと即座に一軍に呼び、2番打者に抜擢。打法も同年から新しく一軍打撃コーチとなった新井宏昌に理解され、レギュラーとして活躍。4月末から1番打者に定着し、5月から8月にかけて日本プロ野球新記録となる69試合連続出塁を記録した。9月11日には日本プロ野球タイ記録の1試合4二塁打を記録すると同時に、1950年に藤村富美男が作ったシーズン最多安打記録191本に並んだ。次の試合でシーズン最多安打記録を44年ぶりに更新し、同月の122試合目には日本プロ野球史上初となるシーズン200本安打の偉業を達成した。

最終的に安打数も210本(当時の日本プロ野球記録、現球団記録)まで伸ばし、この活躍で安打数が話題となったため、連盟によって同年から「最多安打」が連盟表彰のタイトルとされた。打率では、日本プロ野球史上初の4割打者誕生はならなかったものの、最終的にはパシフィック・リーグ新記録となる打率.385(2000年に自ら記録を更新.387)を残して首位打者を獲得。そのほかにも最高出塁率ベストナインゴールデングラブ賞正力松太郎賞を獲得し、打者としては日本プロ野球史上最年少でシーズンMVPを獲得した。

1995年の開幕前の1月17日に発生した阪神淡路大震災において本拠地の神戸市が壊滅的な害を被りイチロー自身も神戸市内にあるオリックスの寮で被災する。この年のオリックスは「がんばろう KOBE」を合言葉にスタートした。イチローは震災からの復興を目指す「神戸のシンボル」的存在として、首位打者打点王盗塁王最多安打最高出塁率を獲得。「打者五冠王」に輝いた。打点王と盗塁王の同時獲得は日本プロ野球史上初(現在も唯一)のほか、全試合フル出場での首位打者は王貞治(1969年)に次ぐ史上2人目の快挙だった。本塁打はリーグ3位タイの25本で、この年に28本放って本塁打王を獲得した小久保裕紀とは3本差であり、日本プロ野球史上前例のない打撃タイトル独占(六冠王)にあと一歩だった。そのほか、リーグ2位の長打率や当時のパ・リーグ記録となるシーズン18死球、自身初のリーグ最多敬遠に加え、当時の日本プロ野球タイ記録となるシーズン初回表先頭打者本塁打5本を残すと、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。2年連続となるシーズンMVP・ベストナインゴールデングラブ賞正力松太郎賞も受賞。そしてチームは悲願のリーグ優勝を達成した。しかし、ヤクルトスワローズとの日本シリーズには敗退し、日本一達成はならなかった。

1996年は開幕から前半戦まで1番打者として出場。オールスターゲーム第1戦では広島東洋カープ紀藤真琴から初回先頭打者初球本塁打(オールスター史上3人目、パ・リーグ選手では史上初)を放った。第2戦では投手として登板。セ・リーグ総監督の野村克也松井秀喜の代打で送った高津臣吾を遊ゴロに打ち取っている。後半戦からは打順を変更され、3番に固定。前半戦までは打率が1度も.330を超えない状態が続いていたが、3番になってからは調子を上げて固め打ちが目立つようになり、8月にはプロ野球記録となる月間48安打(月間打率は.475)を記録した。

最終的に3年連続となる首位打者を獲得し、また193安打で3年連続となる最多安打・最高出塁率を記録、前年に引き続き最多敬遠も記録した。猛打賞を26回(達成当時、日本プロ野球記録。現在日本プロ野球歴代3位)、1試合4安打を8回記録(達成当時、日本プロ野球新記録。現在はパ・リーグ記録)。9月23日の対日本ハム戦(グリーンスタジアム神戸)で、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ二塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「神戸での胴上げ」を実現させた。読売ジャイアンツ(巨人)との日本シリーズでは、第1戦(東京ドーム)の延長10回表に河野博文から決勝本塁打を放つなどの活躍を見せ、チームは1977年以来19年ぶりの日本一に輝いた。イチローは優秀選手賞を受賞したほか、3年連続となるシーズンMVPを手にした。3年連続シーズンMVPは日本プロ野球タイ記録で、山田久志に次いで史上2人目。

1997年6月に「209打席連続無三振」の日本プロ野球記録を樹立。その後の対日本ハム戦で下柳剛から三振するまで、「216打席連続無三振」を記録した。最終的には185安打として、最高出塁率に関しては3年連続で途切れたが、最多安打・首位打者を4年連続とし、最多敬遠も3年連続と伸ばした。

1998年は打率.358、181安打でシーズンを終え、張本勲の4年連続を抜いて日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成、5年連続・通算5回目となる最多安打も記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。5年連続は長嶋茂雄の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、川上哲治の6回に次いで歴代3位)他、リーグ最多敬遠も4年連続となった。

一方で、イチローは1995年シーズンから1999年の4月11日までスランプに陥っていたと語り、特に1998年は深刻なスランプを感じていた。実際に同年シーズンは21併殺打を記録し、5月には当時のパ・リーグワーストタイ記録となる4試合連続併殺打を記録している。

1999年シーズン開幕前の2月、星野伸之戎信行とともに、オリックスと業務提携を結んでいたシアトル・マリナーズの春季キャンプに招待され、2週間参加した。シーズンでは開幕から調子があがらず、数年間のスランプをひきずっていたが、同年4月11日、ナゴヤドームでの西武戦の第5打席で西崎幸広からセカンドゴロを放つ。後に「この打席がきっかけで、自分の打撃が開眼した」という旨を語っている通り、同打席によってスランプから脱出し、以降は復調した。4月20日の対日本ハム戦で金村曉から本塁打を放ち、日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。7月6日の対西武ライオンズ戦で松坂大輔から通算100号本塁打を打った。

前半戦を打率.370・19本塁打・60打点の成績で折り返したが後半戦で失速。8月24日時点では本塁打こそキャリアハイの26本ペースだったものの打率.343 OPSは.984とイチローにおいては特筆すべきものではなくなっていた。8月24日の対日本ハム戦で下柳剛から右手に死球を受けて負傷、残りのシーズンを棒に振った。これにより、1994年の開幕戦から続けていた連続試合出場がパ・リーグ歴代4位(現5位)の763でストップした。また、今シーズンは141安打にとどまり、最多安打に関しても5年連続で途切れた。しかし3年ぶりに最高出塁率を記録した他、6年連続首位打者、5年連続の最多敬遠を記録した。

2000年は開幕戦から4番に指名され、79試合目を終えた時点でも打率.401を残すなど高打率を維持。7月には通算10度目となる月間MVP(日本プロ野球記録)を受賞した。97試合目終了時点で打率.398を記録。102試合目終了時まで3割9分台 (.3923) を堅持するなど高打率を残していたが、8月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で3回に三塁線へファウルボールを打った際に右脇腹を痛めて途中交代。残りシーズンを棒に振った。

10月12日、記者会見でポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦の意向を表明。翌日の神戸での本拠地最終戦で9回に守備固めとして出場した(打席には立たなかった)。前日の記者会見を聞いたファンの声援に応えるため、イチローは手を振って応え、ファン一人一人と別れの握手をした。最終的に、日本プロ野球歴代2位(およびパ・リーグ記録)となるシーズン打率.387を記録。安打数こそ153安打にとどまり最多安打を逃したが、通算7度目の首位打者(日本プロ野球記録)を獲得。6年連続となる最多敬遠(パ・リーグ記録)も記録し、2年連続通算5度目となる最高出塁率、7年連続通算7度目となるベストナイン・ゴールデングラブ賞をそれぞれ獲得した。

日本在籍時は、開幕戦を非常に苦手にしており、通算で29打数3安打、打率.103、0本塁打、1打点であった。

MLB時代

マリナーズ時代

2000年11月10日に、日本人初のポスティングシステムによる独占交渉権をシアトル・マリナーズが1,300万ドル余りで獲得。19日に3年契約で合意し、28日に渡米。30日に3年総額1,400万ドルで正式契約を結び、日本人野手初のメジャーリーガーとなった。背番号は51

当初は日本人野手がメジャーで通用するのか疑問視する声が日米問わず多かった。当時のマリナーズ監督ルー・ピネラも、「打率は2割8分から3割、盗塁は25から30は稼いでくれるだろう」とそこまで大きな期待はしていなかった。また、背番号51についても、当時のマリナーズではランディ・ジョンソン(1989 - 1998年まで在籍)の番号というイメージがファンの間で認識されていたために、「ランディの功績を台無しにする」「ランディを侮辱している」という理由であまり好意的には見られていなかったが、その後の活躍により、ランディ・ジョンソンとの連名での永久欠番になるのではないかといった予想がされるまでになる。東京在住のアメリカ人ジャーナリストであるロバート・ホワイティングは2000年12月号の文藝春秋にて、「イチロー君大リーグは甘くないぞ」と題して、イチローがMLBでは通用しないことを断言し、「イチロー自身も『あーあ、アメリカにこなければ今ごろはまだ日本のスーパースターでいられたのに』と後悔しているかもしれない。来年の今ごろ、僕がこの誌面で平謝りに謝っているかどうか、忘れずにチェックしてほしい。」と執筆した。

(以降日付は全て現地時間) 2001年4月2日のオークランド・アスレチックスとの開幕戦に、1番・右翼手で先発出場。第4打席にセンター前へメジャー初安打を放ち、第5打席にはバント安打を記録して2安打1得点の活躍でチームの勝利に貢献するという好スタートを切った。4月11日は敵地オークランドで三塁を狙ったテレンス・ロングを完璧な送球で刺して大きな話題を呼んでいる(後述)。その後も順調に安打を積み重ね、4月から5月にかけて2か月連続でこの年から制定された月間新人MVPを受賞。オールスターゲームではファン投票で337万票を獲得。日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となる得票数で初選出された。オールスターでは先発のランディ・ジョンソンと対戦。内野安打を放ち、盗塁も記録した。7月はキャリアを通じて自己ワースト(当時)となる21打席連続無安打を喫し失速するが、翌月から復調。8月28日には132試合目での200安打に到達。9月8日には1996年にアレックス・ロドリゲスが記録した球団最多安打記録の215安打を更新。再び8月と9月の2か月連続で月間新人MVPを受賞する活躍で、シーズン116勝(メジャータイ記録)でのチームの地区優勝に大きく貢献した。マリナーズのこの活躍は、コミッショナー特別表彰を受けとることになる。

この年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)以来となるシーズン242安打(当時歴代9位)を放ち、メジャーリーグの新人最多安打記録を更新するとともに、アジア人打者初の新人王を受賞。さらに首位打者盗塁王シーズンMVPシルバースラッガー賞ゴールドグラブ賞という数多くのアジア人初のタイトルや表彰を獲得した。打率.350はアメリカンリーグ1年目選手の歴代最高打率。新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローのほかには1975年のフレッド・リンのみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバ(首位打者)、ジャッキー・ロビンソン、ビンス・コールマン(盗塁王)、ウォルト・ドロポ(打点王)、マーク・マグワイア(本塁打王)以来6人目である。その他にも安打試合数の135試合は歴代1位タイ、127得点はリーグ2位、得点圏打率(.445) は両リーグを通じて1位を記録した。

マリナーズ時代のイチロー(2002年)

2002年は5月に月間打率.404を残すと、26日に打率と出塁率でリーグトップに躍り出た。6月18日のシンシナティ・レッズ戦では1999年2月にマリナーズのキャンプに参加して以来3年ぶりにケン・グリフィー・ジュニアと再会。「やっぱり彼は僕にとってメジャーリーガーの象徴。メジャーに興味を持ったのも、彼の美しさ、スピードを見て感銘を受けたからなんです」と語った。しかし8月から調子を落とし、9月22日の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2021/10/03 19:43

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