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ロサンゼルス・ドジャースとは?

ロサンゼルス・ドジャース
Los Angeles Dodgers

1883年創設


所属リーグ

チーム名

本拠地
1958-現在
1884-1957

永久欠番


獲得タイトル(獲得年)
ワールドシリーズ優勝(7回)

リーグ優勝(24回)

地区優勝(19回)

ワイルドカード(2回)


球団組織
オーナー | グッゲンハイム・ベースボール・マネジメント
GM | 
監督 | デーブ・ロバーツ

ロサンゼルス・ドジャース(英語: Los Angeles Dodgers、略称:LAD)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)ナショナルリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はカリフォルニア州ロサンゼルスにあるドジャー・スタジアム

概要

19世紀から存在する古豪球団。MLB屈指の名門であり、人気・実力いずれもリーグトップクラス。

創設以来、ニューヨーク(ブルックリン区)を本拠地としていたが、1958年に現在のロサンゼルスへ本拠地を移した(同年にニューヨーク・ジャイアンツも西海岸のサンフランシスコへ本拠地を移している)。1947年にアフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガージャッキー・ロビンソンがデビューを果たした球団として広く知られている。また、1995年には野茂英雄がメジャーリーグデビューを果たした球団としても名高い。また第二次大戦後の1956年に日本を訪れ日米親善試合を行って以来、メジャーリーグ球団の中でも早い時期から日本との関係を深めており、当時ドジャースのキャンプ地ベロビーチを読売ジャイアンツが訪ねたこともある。

リーグ優勝24回はナショナルリーグ1位(MLB全体ではニューヨーク・ヤンキースが1位)、ワールドシリーズ優勝は7回を数える。ワールドシリーズ初優勝を遂げる1955年までに10回のリーグ優勝をしているが、ワールドシリーズではことごとく敗れ続けた。特に当時本拠地を同じとしていたヤンキースとの対戦が多く、1955年に6回目の挑戦で初めてヤンキースを破っている。ロサンゼルス移転後のワールドシリーズ優勝は、ロビンソンが活躍した1950年代、ロサンゼルスに本拠地を移した後サンディ・コーファックスドン・サットンら名投手が在籍した1960年代、ウォルター・オルストンの後を継ぎ、20年に渡って監督を務めたトミー・ラソーダの下、1980年代に各2回ずつ成し遂げている。2009年にMLB3球団目となる通算1万勝に到達した。

2012年シーズン終了時点で、優勝決定プレイオフ進出回数が30球団の中で最多である。ナショナルリーグが同率1位の際に2戦先取制のプレイオフを実施していた時代、ドジャースは実施された4回すべてに出場しており、ワンゲームプレイオフ移行後も合わせると計5回出場している。

サンフランシスコ・ジャイアンツとは互いに前身のニューヨーク時代から宿敵として、現在に至るまで激しい争いを繰り広げている。レギュラーシーズンの対戦成績は、通算でほぼ五分である。ワールドシリーズの通算成績に付いて言及すると1957年シーズン終了後、この両チームが西海岸へ移転して以来、ドジャースは1988年までに5度のワールドシリーズを制覇している。ドジャースは、ロサンゼルスへ移転後の1958年から1988年までのシーズンで、ワールドチャンピオンタイトルを獲得すること実に5度と言う数字が物語っているように、当時の球団オーナーであったウォルター・オマリーの決断でチームを西海岸へ移転させ、更にロサンゼルスのダウンタウンを望む小高い丘の上に新球場のドジャースタジアムを建て1962年シーズンに開場した。ドジャースは新球場を開場させたことにより、チームの人気や名声が高まると共に観客動員数も着実に増えた為、球団に多大な収益をもたらした。ブルックリン時代に球団オーナーのウォルター・オマリーがドジャースの移転計画を実行に移した時には、世間から随分と非難を浴びせられた。特に地元ブルックリンのドジャースファンは、自分達のチームが去ると言う事実を知ると、激しく怒り大いに落胆した。それなので、ブルックリンの住民はウォルター・オマリーのことを大悪人と呼んだ。しかしながら、この球団移転後にドジャースは名実共に大成功を収め全米を代表する人気プロスポーツチームへと成長を遂げたので、結果的にオマリーの決定は正しかったことが証明された。一方のジャイアンツはと言うと、1958年から2009年までのシーズンで、ワールドシリーズに出場しても毎回のようにシリーズ敗退で終わり、西海岸へ移転して以来1度もワールドシリーズを制覇できずにいた。2010年シーズンが到来すると、それまで大事に育ててきたチーム生え抜きの選手達を中心にチームは大躍進した。ジャイアンツはレギュラーシーズンの勢いを保ったままポストシーズンへ突入、プレーオフも全て勝ち上がりワールドシリーズ進出を果たすと、球団移転後初めてワールドシリーズを制覇、ニューヨーク時代から遠ざかっていたワールドチャンピオンタイトルを遂に獲得した。以降、2014年シーズン終了までにワールドシリーズを3度も制覇して、ニューヨーク時代を含め通算8度目のワールドチャンピオンタイトルを獲得、チームは黄金期を形成するに至った。この快進撃により、ジャイアンツはドジャースが持つワールドチャンピオンの通算獲得数を抜いた為、ライバルであるドジャースに対して面目を取り戻す結果と成った。これに対してドジャースは2010年代後半に入ると、2017年シーズンに1988年以来となるワールドシリーズ進出を果たす。(2020年シーズン終了後の現時点で)このシーズンを含め、過去4シーズンで3度の(2017年、2018年、2020年)ワールドシリーズ進出を達成した。2020年、MLB機構は新型コロナウイルス対策の為、シーズンの開幕を遅らせた。MLB機構と選手会側がレギュラーシーズンの試合数などの調整で、合意に至らず紆余曲折あったのだが、最終的には双方歩み寄り公式戦合計60試合の短縮シーズンを採用することで合意、ようやく2020年シーズンの開幕を迎えた。この様な前例の無い状況でドジャースは、レギュラーシーズンにMLB全30球団の中で最高勝率を記録した。またMLB機構は、レギュラーシーズンの試合数が減った分ポストシーズンを盛り上げようとプレーオフゲームへ進出するチーム数を現行の8チーム枠から倍の16チーム枠に広げた。この為、プレーオフのステージ(関門)が通常のシーズンよりも1ステージ増えた訳だが、チームはプレーオフも全て勝ち上がり、ワールドシリーズ進出を果たすと、同じくプレーオフを全て勝ち上がったきた対戦相手のタンパベイ・レイズを破り、32年振りにワールドシリーズを制覇した。これにより、ドジャースは通算7度目のワールドチャンピオンタイトルを獲得、チームに新たな栄冠をもたらした。この様に、ニューヨーク時代も含めて長年のライバルである両チーム「ロサンゼルス・ドジャース対サンフランシスコ・ジャイアンツ」の対戦は、「ニューヨーク・ヤンキースボストン・レッドソックス」及び「セントルイス・カージナルスシカゴ・カブス」などの対戦カードと並びMLB屈指の人気を集めている。

Dodgers–Giants rivalry」も参照

現在本拠地とするドジャー・スタジアム周辺がユダヤ系アメリカ人の多い土地柄で、ユダヤ系アメリカ人選手を好んで獲得する傾向がある。球団を東海岸から西海岸へ本拠地を移転させた他に、アメリカ合衆国以外の外国出身の選手を数多く発掘、これら他球団に先駆けて行なった数々の変革でドジャースは大成功を収め、球団に有益な結果をもたらした。これらの動きは、長年オーナーを務めたウォルター・オマリーピーター・オマリー親子ら、一族の影響が大きく、ドジャース球団は「働きやすい全米企業ベスト100」に何度も名を連ねるなど、球団経営の質を1990年代まで高め続けた。(この後、ピーター・オマリーの代で球団をFOXグループへ売却)

伝統的に多くの名投手を擁してきたが、ドジャースにとって最初のサイヤング賞受賞者であるドン・ニューカム(1956年)以来、2014年に至るまで、最多の延べ12回(8人)がサイ・ヤング賞を受賞している。ドジャースのスカウト・教育係を長年務めたアル・キャンパニスがチームで採用していた当時最先端の作戦や練習方法などを一般に公表した著書『ドジャースの戦法』はスモールボール(スモールベースボール)の礎となり、後の日本プロ野球にも大きな影響を与えた。

2011年4月、当時MLBコミッショナーであったバド・セリグは、ドジャース球団の経営状況悪化を懸念して、球団をMLB機構の監視下に置いた。ドジャースの管理責任者にジョン・トーマス・シーファー(元駐日大使)を選任したが、当時のオーナーフランク・マッコート(en)は、「送り込まれた誰かがドジャースを奪うことは明らかに間違っている」と異を唱えた。翌2012年3月、投資グループのグッゲンハイム・ベースボール・マネジメントへの売却が発表された。買収額は20億ドルで同投資グループには、元NBA選手のマジック・ジョンソンも名を連ねている。

2013年、タイム・ワーナー・ケーブル(TWC)社と、向こう25年間で総額70億~80億ドルの放映権契約を結んだ。ドジャースは自前の放送局を立ち上げ、そこがTWCと契約を結ぶ。

球団の歴史

シーズン成績の詳細については年度別成績一覧を参照

球団創設

ブルックリンはプロ球団が登場する以前の1850年代から、いくつかの有名な野球クラブがしのぎを削っていた。1860年代には周囲が塀で囲まれ、入場料の取れる野球場が開かれるなど、野球がプロ化する環境が早くから整っていた。当時強さを誇ったクラブのいくつかは1870年代にプロ球団化したが、優秀な選手が激しい引き抜きにあって弱体化し、ナショナルリーグの発足前に破綻してしまった。

現在のドジャースに繋がる球団は1883年に創設された。当時ニューヨークの不動産業者だったチャーリー・バーン、ニューヨークヘラルド誌の編集者ジョン・J・テイラーとジョセフ・ドイル(バーンの義弟)、ロードアイランドのカジノの経営者ファーディナンド・エイベルらが投資グループを組み、ブルックリン地区(当時はブルックリン市)を本拠地とするプロ野球の球団の設立と、新球場「ワシントン・パーク」の建設をすすめた。 1年のマイナーリーグ活動の後、翌年の1884年チームはアメリカン・アソシエーションに加盟した。当初から興行的にも成功したチームは個々に選手を集めるだけでなく、破綻した他球団を買収しながらチームを強化していった。1888年には破綻したニューヨーク・メトロポリタンズを吸収し、セントルイス・ブラウンズ(現:セントルイス・カージナルス)の主力投手だったボブ・カラザーズを獲得、チームの生え抜きで2度のノーヒットノーランを記録したアドニス・テリーとの二枚看板で、1889年にリーグ優勝を成し遂げた。翌1890年にはプレイヤーズ・リーグ創設の混乱の中でナショナルリーグに鞍替えし、ナショナルリーグ優勝を果たしただけでなく、破綻したプレイヤーズ・リーグのブルックリン・ワンダーズを吸収、リーグの創始者だったジョン・ウォードを監督に招き入れている。

チームが次にリーグ優勝を果たすのは1899年1900年のことだが、この時は当時ナショナルリーグの常勝チームだったボルチモア・オリオールズ(現存球団とは別)のオーナーだったハリー・フォン・デル・ホーストが、ブルックリンの経営に参画してオリオールズと球団経営を掛け持ちし、監督のネッド・ハンロンをはじめ、ジョー・ケリーウィリー・キーラージェイ・ヒューズといったオリオールズの主力選手たちを、ごっそりブルックリンに移したことで成し遂げられたものである。

アンクル・ロビーの時代~低迷期

エベッツ・フィールド(1913年4月)
ウィルバート・ロビンソン(1916年)

20世紀に入ってからは成績が低迷し、チームは1904年から11年連続で負け越しを続けた。1913年に本拠地をワシントン・パークからエベッツ・フィールドへ移し、1914年にチーム名も「ロビンズ」に変え、「アンクル・ロビー」ことウィルバート・ロビンソンが監督に就任したことで、ようやくチームは再建された。ロビンソンは前述のボルチモア・オリオールズの出身者で、世紀の変わり目にチームをリーグ優勝に導いたネッド・ハンロンの愛弟子とでも呼ぶべき人物だった。チームはロビンソンの下で1916年1920年にリーグ優勝を果たす。当時活躍した選手としては、殿堂入りした外野手のザック・ウィート、1913年と1914年に首位打者となったジェイク・ドーバート、投手では1916年に25勝をあげたジェフ・フェファー、殿堂入り投手となったルーブ・マーカードバーリー・グライムスらの名前が挙げられる。1920年には初めて1試合当たりの観客動員が1万人を超えた。しかし良い時期は長く続かず、1920年代には再び成績が低迷する。経営陣のチャーリー・エベッツとエド・マッキーバーが1925年に相次いで亡くなり、ロビンソンが経営に参画して試合に集中できなくなったことも一因だった。この頃のチームは"Daffiness Boys"(愚か者たち)と愛情も込めて呼ばれていて、外野手ベーブ・ハーマンは、この頃の低迷するチームの代表的な選手と言えるだろう。またロビンソンの育て上げた選手の一人ダジー・ヴァンスは、1920年代に7年連続のリーグ奪三振王となり、後年野球殿堂入りを果たしている。

次のリーグ優勝は第二次世界大戦下の1941年、レオ・ドローチャーの監督就任を待たねばならなかった。1938年から球団経営に加わったラリー・マクフェイルのチーム作りが3年越しで成果を挙げたものだった。他方でマクフェイルはブルックリンの試合のメディアでの中継放送を積極的に進め、1939年8月26日のドジャース対レッズ戦が、MLB史上初のテレビ中継された試合となった。またドジャースは、1941年に他球団に先駆けてバッティング用ヘルメットを導入している。

人種の壁を打破

ブランチ・リッキー
ジャッキー・ロビンソン

マクフェイルは1942年に徴兵され、球団経営の実権はマクフェイルの友人だったブランチ・リッキーに移っていたが、リッキーは戦争終結後、それまで誰も手を出そうとしなかったアフリカ系アメリカ人選手の獲得によるチームの強化へ向けて動き始めていた。後述のロビンソン獲得の前から、自身の傘下にマイナーリーグを組織し、有望なアフリカ系アメリカ人選手を入団させその力量を見極めていた。

そして1947年に、スカウトのジョージ・シスラーが推薦したジャッキー・ロビンソンとメジャー契約を結び、その後に続く黒人選手の道を開いた。ロビンソンはこの年に制定された新人王を受賞し、彼の活躍によって他球団も次々と黒人選手を採用して、MLBの人種差別はなくなった。このリッキーの黒人選手の抜擢によるチーム強化策でロビンソン登場以降チームは躍進し、1947年から1956年の10年間でリーグ優勝6度、2位が3度という常勝チームに生まれ変わる。投手ではドン・ニューカムプリーチャー・ロー、捕手はロイ・キャンパネラ、内野はジャッキー・ロビンソン二塁手、ピー・ウィー・リース遊撃手、ギル・ホッジス一塁手、外野はデューク・スナイダー中堅手らが中心となった。

悲願のワールドシリーズ制覇

デューク・スナイダー(1954年)

しかしワールドシリーズにおいては、アメリカンリーグのニューヨーク・ヤンキースが名将ケーシー・ステンゲル監督(かつてはドジャースの選手でその後監督も務めた)の下でジョー・ディマジオ外野手、後継のミッキー・マントルヨギ・ベラ捕手、ホワイティ・フォード投手らを擁してワールドシリーズ5連覇など常勝軍団の時代で、1941年以降5度の敗退を繰り返し、ファンの間では、"Wait 'til next year"(次の年こそ)という言葉が暗黙のスローガンになっていたほどだった。

ドジャースの監督契約は伝統的に1年だったが、チャック・ドレッセンは複数年契約を申し入れたためウォルター・オマリーに解任され、ウォルター・オルストンが就任。「ドジャースの監督が務まるのか?」という声もあったが、チームは1955年のワールドシリーズで、ヤンキースへの6度目挑戦で悲願のワールドチャンピオンとなる。優勝決定後のニューヨーク・デイリー・ニューズ誌の見出しは、前述のスローガンにあてて、"This is Next Year!"(「次の年」がついにきた)であった。

1956年のワールドシリーズもヤンキースとの対戦となったが、第5戦でドン・ラーセン完全試合で敗れ、最終第7戦でも敗れてシリーズ連覇は成らなかった。

本拠地移転

1959年当時のオリンピック・コロシアム。この写真はその年のワールドシリーズ ドジャース対ホワイトソックス戦。
ロイ・キャンパネラ(1953年)

1950年代にブルックリン地区では黒人とプエルトリコ系の住民が増え、白人の富裕層の流出が進み、治安が悪化していった。球場は街中にあるため改装や駐車場の増設が思うようにできず、観客動員も1947年の1,807,526人をピークにその後は100万人前後で推移した。球団はブルックリン地区内に新球場を建設することを希望していたが、ニューヨーク市側はフラッシング・メドウズへの移転を勧め(その土地には最終的にはメッツの本拠地、シェイ・スタジアムが建設された)、球団がブルックリンで新たな土地を取得することを認めなかった。このため球団は1957年5月、ナリーグのオーナー会議で移転の了承を得て、1958年に西海岸のロサンゼルスへ移転した。因みに同じニューヨーク(マンハッタン)に本拠を構えていたジャイアンツが、ドジャースと同時にサンフランシスコへ移転している。

移転当初はドジャー・スタジアムが完成するまでの間、ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムを本拠地とした。スタジアムはその卵形の形状ゆえ野球場に適さず、本塁から左翼席までの距離も250フィート(約76.2m)しか取れなかった。このためレフト方向に高さ40フィート(約12.2m)にもなるスクリーン(ネット)を立てて本塁打の量産を防ごうとしていた。このような悪い環境にもかかわらず、ドジャースは多くの観客を動員した。こんな極端な球場の形に上手く適応した選手の一人が、ドジャースの外野手だったウォーリー・ムーンであろう。彼は1959年シーズンにリーグ最多の三塁打を記録したが、その多くはこのスタジアムでレフト方向にふらふらとあがった打球で、それが左翼の高いスクリーン(ネット)に当たって三塁打になったものだった。ファンの間ではこのムーンの三塁打が、彼の名前に引っ掛けて「ムーン・ショット」(月ロケット発射の意)と呼ばれていた。ドジャースは移転2年目の1959年にリーグを制覇し、1959年のワールドシリーズを"ゴーゴー・ソックス"と呼ばれたシカゴ・ホワイトソックスとこのスタジアムで戦い優勝した。シリーズの第5戦ではMLB最多記録となる92706人の観客を動員している。またこの年1959年シーズン途中の5月7日に行われたヤンキースとのエキシビジョン・ゲーム(非公式試合)で、前年の交通事故で半身不随となり引退を余儀なくされたロイ・キャンパネラ捕手の引退セレモニーが行なわれた時には93,103人もの観客が来場した。

ドジャー・スタジアムは1962年に完成して1978年にはMLB史上初めて年間観客動員300万人を達成している。

オルストンのスモールボール

オルストン監督(左側) 1957年
今日のドジャースタジアムの外壁に掲示された1960年代の両エース。左がドン・ドライスデール
サンディ・コーファックス

ドジャー・スタジアム完成の頃、ドジャースは長打力がないためウォルター・オルストン監督の下で、投手力・守備力・機動力を重視したチームを作り上げていた。攻撃力は今ひとつだったが、チームの中心にはサンディ・コーファックスドン・ドライスデールの絶対的な投手の二枚看板がいた。コーファックスは1960年代にサイ・ヤング賞を3度獲得し、ドライスデールも1962年のサイ・ヤング賞をはじめオールスターゲームに8度出場、1968年には当時のMLB記録となる58回2/3イニング無失点記録を樹立するなど輝かしい実績を残している。当時のドジャースは、「足の速いモーリー・ウィリスが出塁して盗塁、内野ゴロと犠牲フライで彼を迎え入れた後は、コーファックスかドライスデールが相手を完封して1-0で勝利」という勝ちパターンがまことしやかに語られていた程だった。

特にコーファックスは1963年のワールドシリーズで、ヤンキースを相手に1試合15奪三振を記録するなど、1960年代のドジャースのワールドシリーズ制覇に幾度も貢献したが、左肘の故障を理由に1966年に30歳の若さでユニフォームを脱いだ。オルストンは1976年まで通算23年間ドジャースを率い、通算7度のリーグ制覇をドジャースにもたらした。

ラソーダ監督以降

フェルナンド・バレンズエラ (1981年)

1977年トミー・ラソーダが監督に就任し、以後1996年途中まで指揮をとった。1981年にメキシコ人のフェルナンド・バレンズエラがデビュー。 "フェルナンドマニア"を生み出し、 新人投手としては初のサイ・ヤング賞を獲得、同年のワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。

1988年には"ブルドッグ"ことオーレル・ハーシュハイザーが59イニング連続無失点の記録を達成する。リーグ優勝しワールドシリーズに進んだドジャースには、もう一つ大きなドラマが待っていた。この年FAで獲得した主砲カーク・ギブソンはリーグチャンピオンシップで足を怪我し、ワールドシリーズへの出場は絶望と思われていた。しかし1988年のワールドシリーズ第1戦、1点リードされた9回裏に、出場できないはずのギブソンが足を引きずりながら代打で登場する。ギブソンはアスレチックスの守護神デニス・エカーズリーから7球目をライトスタンドに放り込み、この劇的なサヨナラ勝ちで勢いづいたドジャースが、NBCボブ・コスタスから「これほどの貧打線がシリーズに出てきたのは見たことがない」と言われるなど下馬評を覆し、このシリーズを4勝1敗で制した。

夕陽に映えるドジャー・スタジアム(1987年)

1994年には朴賛浩が韓国人として初のメジャーデビューを果たし、1995年野茂英雄投手と契約。 NOMO旋風を巻き起こし、日本人のメジャー進出の先鞭をつけた。1992年から1996年までエリック・キャロスマイク・ピアッツァラウル・モンデシー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2021/06/16 05:41

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