22勝14敗
読売ジャイアンツ(よみうりジャイアンツ、Yomiuri Giants、読売巨人軍、よみうりきょじんぐん)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。略称は「ジャイアンツ」「巨人」。NPB 傘下の球団としては最古の球団(日本で最初に設立されたプロ野球球団は日本運動協会である)。現在の監督は原辰徳(第19代)、キャプテンは坂本勇人(第19代)、選手会長は菅野智之が務める。
1931年、読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、全日本代表チームや六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力は再度のメジャーリーグ選抜軍の招待、特に前回叶わなかったベーブ・ルースの招聘を目論んだが、1932年に文部省(当時)が発令した野球統制訓令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった。
市岡忠男、浅沼誉夫、三宅大輔、鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果1934年6月9日、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ6月11日には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩、第2号選手として6月15日付で苅田久徳を獲得するなどチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった。
1934年10月15日、千葉県の谷津海岸に新設された谷津球場に30名の選手が集まりチームは結成され11月2日、横浜にメジャーリーグ選抜チームが来日し全日本代表チームと全国で親善試合興行を行った。試合は全日本代表チームの15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合)で試合内容も圧倒的だったものの、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁した全米代表は読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が草薙球場にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。12月26日に全日本代表チームの選手を中心にした選手19名で、後に巨人軍の前身となる大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。このことから、「読売巨人軍発祥の地」の石碑が、かつて谷津球場のあった千葉県習志野市谷津の谷津公園内に設けられており、長嶋茂雄、王貞治、原辰徳ら歴代の巨人軍の監督や選手らの手形とサイン付きの石のプレートが並べられている。現役選手が訪れることもある。
1935年1月14日から2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日第1次アメリカ遠征に出発する。当時の選手ら総勢18人で秩父丸に乗船し横浜港からアメリカに向けて出発、選手たちは船上でも試合に向けての練習をこなした。当初は「大日本東京野球倶楽部」と名乗る予定だったが、現地マネジャーのフランク・オドールから「『大日本東京野球倶楽部』はわかりにくい」という指摘を受けることになる。元ジャイアンツであったオドールはトーキョージャイアンツという名前を薦め、結局その名称がつかわれることになった。トーキョージャイアンツは全米各地で128日間109試合(ダブルヘッダー17日34試合含む)という日程を戦った。主な対戦相手はメジャーリーグのマイナークラスのチーム。最初は物珍しさもあって観客が集まったものの徐々に減少。そのためダブルヘッダーを開催することで、ファン確保を狙ったが、選手らは体力の負担を強いられるとして反対意見も相次いだという。75勝33敗1引き分けの好成績でアメリカ遠征は終了した。7月16日に帰国し9月6日からは国内各地を転戦、これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。
アメリカ遠征からの帰国後、大日本東京野球倶楽部の名称問題が再燃する。ジャイアンツという名前を使い続けるか、それとも金鵄勲章から名を取った「金鵄軍」に変えるかというもので、最終的に正力はジャイアンツという名前を選んだ。翌1936年にジャイアンツを巨人と訳した東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)に正式改称する。こうして巨人軍は始まったのであった。
1936年2月5日、日本職業野球連盟が結成され、9日には、名古屋市郊外・鳴海球場で開かれた名古屋金鯱軍との対戦は現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った初めての試合である。この試合は巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と金鯱軍の結成記念を兼ねたもので、第1試合は金鯱軍に3対10で敗れたが、翌日行われた第2戦、第3戦は巨人が連勝した。この直後の2月14日に前年に続き、第2次アメリカ遠征に出発。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分であった。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人は上記のアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。7月5日に大東京戦に勝利して、公式戦球団初勝利。この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市の茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った。猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。なお7月15日に中島治康が対大阪タイガース戦で放った本塁打が球団第1号本塁打である。1936年の秋季大会はリーグ戦とトーナメント戦の混じった6回の小規模な大会の勝ち点制で開催され、5回目のリーグ戦までリードしていたが6回目のリーグ戦で大阪に並ばれる。9月25日には沢村栄治が対大阪戦において、日本プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成。洲崎球場で3戦制の優勝決定戦を行い、12月11日に第3戦に勝利して2勝1敗で大阪を下し公式戦初優勝球団に輝いた。
1937年9月11日には後楽園球場が開場、以来実質的な本拠地として使用する。春季戦は7月11日に対セネタース戦(上井草)に勝利して前年に続く2季連続優勝を達成。秋季戦は大阪に7戦全敗して9ゲーム差の2位に終わり、初めて優勝を逃す。戦前は巨人と大阪の2球団で優勝を分け合うことになった。
1939年より年間通じてのリーグ戦となり、11月9日の対南海戦(後楽園)に勝利して2季連続優勝。1月と12月の2度にわたってマニラ遠征を行っている。1940年7月31日 から8月23日までの満州リーグ戦では14勝2敗の成績で優勝を遂げる。同年9月13日にはアメリカ、イギリスとの関係悪化の影響で、連盟より英語禁止の通達が出てジャイアンツのニックネームを使わず、ユニフォームのマークが「GIANTS」から「巨」に改められている。11月10日の対阪神戦(後楽園)に勝利し、3季連続優勝。1941年は10月29日の対阪神戦(後楽園)に勝利して4季連続優勝。1942年は志度商業学校から川畑博が入団する。捕手だったが、戦時中ということもあって投手も兼任していた。同年の春季リーグ17歳で球団史上最年少の初出場、初登板、初先発、初奪三振、初打席、初安打・二塁打、初打点の記録を樹立、11月1日の対阪急戦(甲子園)に勝利して、5季連続優勝。1943年は10月31日の対名古屋戦(後楽園)に勝利して、6季連続優勝。徴兵により3季ぶりの復帰となった沢村栄治は10月24日の対阪神戦での代打出場を最後に、翌1944年シーズン前に解雇されており、同年3度目の徴兵を受けて12月2日に戦死。
1944年11月10日に野球試合不可能として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。11月13日には国の指導により日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野球は終わった。
戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度のノーヒットノーランを達成した沢村、42勝をあげたスタルヒン(1940年9月に登録名を須田博に変更)、2度のノーヒットノーランを達成した中尾輝三、連続無失点記録62回、シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した藤本英雄、職業野球契約選手第1号であった三原修、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王(1965年にプロ野球実行委員会で認定)を記録した中島治康らを擁して第1次黄金時代を築いた。
1946年のリーグ戦再開より参加、この年はグレートリングと1ゲーム差の2位に終わる(松竹ロビンス#没収試合第1号も参照)。1947年には読売新聞社が経営に当たることとなり、球団名を東京読売巨人軍(とうきょうよみうりきょじんぐん)に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど、再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、監督・三原脩や「赤バット」の川上哲治、千葉茂、青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰、また1948年オフには南海の別所昭(巨人時代の登録名は別所毅彦)を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の1949年には戦後初優勝を飾った。1947年6月23日に黒沢俊夫が死去、黒沢の背番号4と、戦死した沢村栄治の背番号14は日本プロ野球界初の永久欠番となった。1949年シーズンオフ、日本プロ野球はセントラル・リーグ、パシフィック・リーグに分裂、2リーグ制となり、巨人はセ・リーグに所属することになる。
復帰した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目は8球団中3位。
シーズン途中に来日し、入団した与那嶺要の活躍もあって2リーグ分裂後初優勝。
8月8日、対広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の公式戦通算1000勝。
初めての海外キャンプをサンタマリアで行う。このシーズンは、開幕から1回も首位から転落することなくリーグ3連覇を達成。シーズンを通しての首位完全独走で優勝したのは球団史上唯一の記録である。日本シリーズでは、1リーグ時代からの宿敵・南海ホークスを3年連続で下し、日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。
杉下茂擁する中日ドラゴンズが優勝し、2位となる。
リーグ優勝。日本シリーズでは南海との対戦となり、1勝3敗から3連勝。4勝3敗で逆転日本一を達成する。この頃から第2次黄金時代を支えた千葉茂、川上哲治らに衰えが目立ち始め、水原は新旧交代をしなければならなくなった。
リーグ優勝を果たし、日本シリーズでは水原茂と入れ替わりに巨人を退団した三原脩が監督で率いる西鉄ライオンズとの対決となる。以後日本シリーズでは、3年連続で巨人は西鉄との対決となり、両者の戦いは「巌流島の決戦」とマスコミに喧伝された。
立教大学から長嶋茂雄が入団し、初年度から3割29本37盗塁の活躍を見せる。日本シリーズでは、第1戦から3連勝するも、第4戦から稲尾和久の力投などで4連敗を喫し、3勝4敗の逆転で3年連続で西鉄に敗退。この年限りで川上哲治が現役引退している。
6月25日の阪神11回戦(後楽園)はプロ野球史上初めての天覧試合となった。この試合で王・長嶋がはじめて2人ともホームランを打ち(ONアベック弾第1号)、9回ウラには長嶋が阪神・村山実からこの日2本目となるサヨナラホームランを放ち、5-4で勝利を収めた。 成績はリーグ優勝を果たし4連覇。日本シリーズでは南海ホークスと対戦するが、南海のエース・杉浦忠の前に打線が沈黙、4連敗のストレート負けで敗退。
三原脩が当時6年連続で最下位だった大洋ホエールズの監督に就任し、再び「巌流島の対決」と呼ばれる。大洋は三原の手腕によって巨人と優勝争いを演じ、ついに巨人を破ってリーグ優勝。巨人は大洋と4.5ゲーム差の2位に終わった。シーズン終了後、水原茂は監督を勇退した。
川上哲治がヘッドコーチから昇格して監督に就任する。就任1年目ながら打率と本塁打の二冠を獲得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに日本一を達成。
この年から一本足打法を始めた王が本塁打王と打点王を獲得したが、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって混戦のセ・リーグで勝率.515ながら4位、2リーグ分立後初めてのBクラスに終わる。
長嶋の復活と前年は2名に留まった二桁勝利投手を5名出すなど投手陣が安定してリーグ優勝、日本シリーズではこれまでの対戦でいずれも勝利することができなかった西鉄に4勝3敗で勝利し、日本一になる。王と長嶋で打撃三部門だけでなく打点と本塁打の2位までをも占める。
一転して、阪神と大洋の首位争いに加わることができず、王がシーズン記録となる55本塁打を記録するものの、優勝した阪神と11ゲーム差の3位に終わる。
この頃から巨人の3、4番に固定された(両名の打順は流動的だった)王と長嶋はON砲と呼ばれ、実力、人気ともに特別な存在となっていた。また牧野茂、荒川博ら他球団出身のコーチが招かれた。
1965年に金田正一が国鉄から10年選手制度を利用して移籍した。
ペナントレース及び日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的に「V9」と呼ばれる。
この間、巨人はカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、当時の子供が好きなものを表した「巨人・大鵬・卵焼き」は流行語となった。また、同時期に連載が開始し、後にアニメ化もされた漫画『巨人の星』や『侍ジャイアンツ』も人気を集め、プロ野球選手、特に巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。
V9の間、最優
2022/06/19 06:34 HAPPY Wikipedia
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